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八 ②

 面紗のお陰で視界が悪いが、将極が手を引き、響に合わせてゆっくり歩いてくれる。  屋敷に着いた時に女官達が待機していた玄関から少し離れ、禁門の内側の門番と同じ白衣を纏った衛士が守る門を潜る。石鳥居が連なる道を行くと、屋敷に比べずっと小振りの建物がある。無言で扉を押し開いた衛士は、二人が入るとすぐに扉を閉め鍵を掛けた。  中は全面板張りの広間。正面は舞台のように一メートル程高くなっていて、真ん中に抉るように設けられた階段の上に背凭れの高い豪奢な椅子がある。  そこに肘を付いて座っているのは。 「煌隆……」  煌隆はゆるりと立ち上がり、階段を下りて来る。響の前まで来て冷たい手を取る。 「響、迎えに行けずすまなかった」 「良いんです、忙しかったんでしょう?」 「ああ……もっとも、私が日を読み違えておらねば、何一つ急ぐものは無かったのに」  煌隆は見上げる響の顔から視線を外し、そむける。 「お前を、お前の周りから奪い去るような真似もせずに済んだのに」  響は煌隆の頬に指先で触れ、こちらに向かせ視線を交わす──実際には面紗が邪魔で、ぼんやりとしか見えない。  気分は良くなったが、やはり力が入らないままの響はゆっくり話す。 「煌隆、もっと、喜んで下さい。両親には手紙を書きました。一番大事な、友達とも、ちゃんと話せました。神社でも言ったけど、未練はそりゃ、無いとは言えません。でも迷いはないんです。この十年間、現世に残して惜しむようなものを何も作って来なかったのは、きっと、いつでも、煌隆と一緒になれるようにって、事だったんです。こうして、また会えて、嬉しい」  響の体を労るように、煌隆は優しく抱き締める。いくらも力を入れず、包み込むように。 「……そうだな、私が迷っていては駄目だな。響、ありがとう。私もとても、嬉しく思う」  煌隆は響を放し、冷たい手に唇で触れる。その手にはしっかり、煌隆が渡した指輪が嵌まっている。 「これは私の母の物でな。死の直前私に言ったのだ。たった一人、心に決めた者に贈るようにと」 「そうだったんだ……大事にします」 「そうしてくれ。さて、明日が本番だ。今夜はもう休め。お前の体はまだ未完成だから辛いだろう。それにいつまでもこうしているとその面紗を取り去りたくなる」  扉の前で待機している将極を呼び、居室に案内するよう指示する。 「未完成?」 「そう。委細は明日、婚儀の後に話そう」  ことりと頷き、背中を向ける。扉まで来た時、煌隆に呼び止められ振り向く。 「現世では確かこう言うのだったな。響、おやすみ」 「うん、おやすみなさい。何か、煌隆が言うと、変な感じ」  二人してくすくす笑う。隣の仏頂面の将極は、二人を見て少し口角を上げた。  扉を軽く叩くとすぐに開いて、将極は響を促す。響は煌隆に手を振り謁見の間を出た。  屋敷に戻ってきた響は黙って歩く将極にかろうじて着いていく。ゆっくり歩いてくれているのに、それでも響には早い。  何度も廊下を折れ、もうどこをどう行ったか分からない。  屋敷に入って暫くは、多くの官吏や下女とすれ違ったが、渡り廊下を越えた先の戸を潜ると、人の気配がない。  所々行灯に照らされているが、こちらは屋敷に比べ一層薄暗く、廊下も曲がりくねってまるで迷路のよう。 「こちらは主上と后妃様、それと某の住まうところです。世話役の女官と、衛士が少しばかり住んでおります」  着いた先の襖を開けながら、将極が淡々と説明する。  部屋は簡素なもので、およそ必要最低限の物だけ揃ってる。ここは主に寝に来るだけの寝室で、普段生活する部屋や食事をする部屋は別にあるらしい。  中には一人の女官が居て、衣桁には寝間着が用意されている。女官がちらりと将極を見る。 「……明日の婚儀の流れをご説明したいのですが、お召替えが済むまで外に出ております」 「良いですよ、別に、着替えながらで」  言って冠を取り、帯の紐を引っ張る響の手を女官が慌てて取る。 「いけません、宰相様が出るまでお待ちを……え、あれ?」  止めるのも聞かず、床に落とした衣を拾いあげた女官が襯衣も脱ごうとしている響の体を見て目を瞬く。  戸惑っている間にも響は下着一枚になってしまい、女官は慌てて寝間着を響の肩に掛ける。将極は響の透き通るようなきめ細かい肌の背中から、何となく目を逸らす。 「将極さん?」 「あ、はい、失礼しました。明日は言わば、民衆への御披露目のようなものです。祭事の広場で主上と杯を交わし、こちらでの呼び名を付けていただきます」 「オレがする事は何もないの?」 「主上のお側に座っているだけで構いません。後は我々が進めます」 「何かこう、誓いの言葉とか無いんですか?」  響はぼんやりと、神前式を想像していた。それが将極も分かったのか、僅かに微笑む。 「民衆は主上に誓いを立て許しを得ますが、貴方が婚姻するのは神その人ですから」 「あ、そうか。煌隆って神様だった。やっぱり実感ないなぁ」  寝間着を着付け、座椅子に座らせた響の髪を梳いていた女官が衣を持って静静と部屋を出る。将極は枕元の行灯だけ残し他の灯りを消し、そろりと襖を閉めた。  部屋を出ると、先に出たはずの女官が少し離れたところに立ってこちらを見ている。 「宰相様」  将極が横を通り抜けようとすると、静かに呼び止められる。困惑した顔で言い難そうに唇を噛んでいる。  話の内容は想像がつく。 「禊をした手下(てか)達が揃って首を傾げていたのは、その、あれが理由だったのですか」  将極は長く息を吐いて腕を組む。 「無礼を承知でお訊ねしますが、なぜ主上はあの御方を?」 「……おれにもさっぱり。ただ……これはおれの想像でしかないが、恐らく主上はお気づきでないのだと思う」  でなければ女物の衣を選んだりはしないだろう。 「何度か申告差し上げようとしたが、主上は随分あの方に傾倒していらっしゃる。あの方も然りだ」  それとも、既に気付いていて、民衆を誤魔化すために敢えての行動なのか。  いずれにせよもう婚儀は明日に迫っている。今さら事を荒立てるわけにも行かないし、あくまで将極の想像の域を出ない。あれこれ推測するのも失礼だ。 「だからお前達もそれには触れず、いつもの通りに」 「はい……他の者にも伝えておきます。あ! それと、いくら本人のお許しがあったとは言え、あんなに肌をじろじろと見てはいけませんよ」 「……そんなに見ていたか、おれは」 「冗談です」 「お前なぁ……」  女官はくすくす笑う口元を隠し、低頭し早足で去って行った。将極は響の寝室の前まで戻り、そっと襖に耳を押し付ける。  中からはもう寝息が聞こえて、安堵に胸を撫で下ろす。女官との話を聞かれなかったかではなく、緊張や環境の変化で眠れないのではなかろうかと思ったが、いらぬ心配だった。  響は今までの巫女達とは比べものにならない程良い少女、じゃない、少年だ。時折こちらにやって来た際、いつも将極は煌隆の代わりに響を見ていたから、煌隆が惹かれるのも分かる気がする。  だからだろう、いつもは女官に任せる説明事も案内も自ら進んでやった。  これまで、どの巫女もこちらでの生活が長続きしなかった。こちらでの終わりなき生に飽き、故郷を懐かしみ、若しくは煌隆に酷く怯え、毎夜泣いて過ごし、結局は皆現世に帰ってしまった。  煌隆も将極も、もう諦めていた。  それがひょっこり響と廻り合い、こうして婚儀まで来れた。  これが最後になれば良いと、将極も思う。だから煌隆から何か言われるまで、黙っておこうと決めた。

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