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八 ③

 迎えた婚儀の朝。響は随分早くに目を覚ましてしまったようで、まだ人の動く気配がない。  今は何時だろうと辺りを見回すが、勿論時計はない。ここは建物の内側なのだろう、窓もなくて外の様子も分からない。  廊下に出てみようか。  けれど将極から婚儀が終わるまで決して煌隆と顔を合わせてはいけないと言われた。廊下でうっかり会いでもしたら大変だ。  部屋をぐるぐる歩き回りながら考えあぐねていると、襖の向こうから声が聞こえた。  起きていると返事をすると、襖が静かに開いて、桶を持った昨夜の女官と、冠と衣を掲げた別の女官が入ってきた。 「おはようございます。良い朝ですよ」  桶と手拭いを差し出され、響は神社でそうしていたように顔を洗う。すぐに着替えをするとの事で、響はまた自分で脱ごうとしたが、女官に止められた。響は手を軽く広げ、着せ替え人形のように棒立ちになり着替えが終わるのを待つ。 「脱ぐ位、自分でしたいんですけど……」 「貴方様のお世話をさせていただくのが私共の仕事にございます。どうかお世話させて下さいませ」  昨夜の女官は悪戯っぽく目を細めて微笑んでみせる。 「あの、えっと……?」 「申し遅れました、私、女官の尚……そうですね、長官を務める秌(とき)と申します」 「秌さん? じゃあその、お世話になります」 「ええ、それでは最初にひとつ。主上の奥方様となられる身なのですから、他の殿方に肌を見せてはいけませんよ」 「あ……同性だからつい。気を付けます」  にっこり笑った秌から、帯をきつく締め付けられ、少しむせる。 「えっと、秌さん、外が見たいんですけど、時間ありますか?」  秌は響に冠を被せ、面紗のたれを背に垂らす。 「お屋敷ですぐに礼服に着替えねばなりませんので時間はありませんが、縁を行きましょう。空が見えますよ」  今着替えたのにまた着替えなくてはいけないのか。だったらここでその礼服を着せてくれればいいのに。  そんな響の気持ちを察したのか、秌が襖を開けながら言った。 「内裏の廊下は狭いでしょう。礼服を着ては通れないのです」  廊下は人二人やっとすれ違える程度の幅。  通れなくなる程大袈裟な物を着なくてはならないのかと、響は小さく溜め息を吐く。いつか煌隆がそんな事を言っていたなと思う。  響は秌に案内され迷路のような内裏の廊下を抜け、広い渡り廊下に出た。そう言えば渡り廊下から外が見えるじゃないかと思ったが、その渡り廊下は一面白い布で覆われてしまっていた。  秌によると、この渡り廊下は唯一町から見える場所だから、婚儀が始まるまでは響の姿が民衆に晒されぬよう隠しているのだとか。  何だか面倒事が多いんだな。  屋敷に入り縁を回って行くと、朝の白い空が仰ぎ見れた。夜の空は星も月も無い漆黒だったが、今度は太陽も無い真っ白な空。例えるなら、厚い雲が空中を覆い、太陽の光がぼんやりとしか見えない曇天のよう。  現世から階を昇って来たのだから何となく空の上にある地のような気がしていたが、そんな事は物理的にあり得ないし、ここは所謂あの世。現世とは全く別次元のものと考えた方が良いだろう。  星も月も太陽さえも無い違和感を、そうやって無理矢理納得させた。 「これは主上。おはようございます」  ぼんやり空を見ていると、低頭した秌に応える声が耳に入りどきりと心臓が跳ねる。 「うむ。良い朝だな」  いつもの束帯に似た衣ではあるが、帯の位置が高い。羽織のような上着も枚数が多く、床に引きずった裾もとんでもなく長く歩き難そう。帯から下がる腰飾りも何だか重そうに見える。 「煌隆、おはよう」 「おはよう、響。婚儀まで待ちきれず会いに来てしまった」  秌がするりと脇に避け、煌隆は響の正面までゆっくり歩いて手を取る。 「何か、凄い服ですね。重そう」 「何を言う。お前の着る衣の方が重いぞ」 「そんなに重い服着て、歩けるかなぁ……」 「部屋から祭事の露台まで歩くだけだ。後は座っていれば良い。秌、後を頼む」  煌隆はゆっくり踵を返し、長い裾を引き摺って戻って行った。  再び秌の案内で、広い畳の部屋へ着いた。部屋には数人の女官が響の着る「重い衣」を準備して待っていた。  またも女性に囲まれ恐怖を感じながら、響は着せ替え人形と化す。襯衣を残し全て脱がされ、小袖を着せられ長い裙を履かされ袿を着せられ次から次へと。最後に裳と、袖の無い背子を掛けられやっと終わった。  十二単に似ているが袖は小袖と袿のものだけで、後は重い袂も無いが、背に引き摺る裾と裳で上半身の重さが増す。 「……本当にこんなの着て歩くんですか?」 「勿論ですとも。とてもお似合いですよ。さ、主上がお待ちかねです」  にこにこと先を行く秌に続いて、響は懸命に歩いた。祭事の露台とやらに着く前に力尽きてしまいそうだ。 「主上、少し落ち着かれてはいかがです」  部屋に戻って来てからと言うもの、煌隆はまだかまだかと部屋中をぐるぐる歩き回り、とうとう将極から諌められた。  取りあえず座ってみてもそわそわ落ち着かない。 「ええい! まだか! こんなに時間が掛かっておったか!?」  と、また立ち上がったところで開け放たれた戸の先の廊下から、秌の姿が現れた。 「お待たせを致しました」  面紗を付けた、金細工に宝石が散りばめられた冠を被った響が、少しふらつきながらゆっくりと廊下を進み、煌隆の正面で顔を上げる。 「煌隆、お待たせ……どうかな」  煌隆と将極は息を飲み、雅やかな衣装に包まれながらも儚げに立ち尽くす響に思わず見惚れた。 「響……とても美しい。ああ、早くお前の顔が見たい。面倒な婚儀など早く済ませてしまおう。将極」 「はい。では、参りましょう。民衆も待ちかねております」

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