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  ◇   ◆   ◇  フレデリックの携帯電話が鳴ったのは、穏やかな午後の事である。それは、船室に設えられたバルコニーで海を眺めながら辰巳とフレデリックが優雅な午後のティータイムを愉しんでいた時の事だ。  僅かに寄せられる辰巳の眉間の皴に、フレデリックが困ったような顔をして通話ボタンを押した。  フランス語で交わされる遣り取りは、辰巳には意味を理解することが出来ない。だが、途中から、フレデリックの口調が変わった事だけは理解できた。嫌な予感しかしない。フレデリックの携帯電話が鳴ると、この二人にはロクな事が起こらない。  フレデリックにしては珍しく長い時間をかけて通話を終えたそれに、辰巳が視線で問いかける。 「困った…」  ぽそりと呟かれたフレデリックの声音は、どこか寂しそうに辰巳には聞こえた。 「何かあったのか」 「仕事が入ってしまったんだ…しかも三日後に…」 「あん? また代理か?」  前回のクルーズの際に、フレデリックは一度代理でキャプテンの仕事に駆り出されている。その時もマイケルがキャプテンを務めていたのだが、急な体調不良を起こしてしまったのだ。  だが、どうやら辰巳の想像は外れたらしい。考えてみれば、代理で仕事を頼まれた時のフレデリックは英語で話していた事を思い出す。軽く首を横に振ったフレデリックに、今度こそ辰巳の顔は顰められた。この船の仕事でないとすれば、フレデリックには本職しかない。 「乗客に…イタリアンマフィアが紛れ込んでる」 「はぁん?」 「三日後の記念式典に招待されてるうちの金蔓が、どうやら恨みを買ったらしくてね…」 「なるほど。で、ボディガードか」  その通り。と、そう言ってフレデリックは肩を竦めた。 「式典での警護となるとセキュリティースタッフを大人数動員する訳にもいかないし…僕たちに話が回ってくるのは分かるんだけど…」 「何か問題でもあんのかよ?」 「僕は辰巳と一緒にいたい」  きっぱりと言い切るフレデリックに、辰巳は苦笑を漏らした。 「でも仕事は投げ出せないし、出来れば辰巳にも手伝って欲しいんだけど…いいかな?」 「俺が居たところで足手まといにしかなんねぇだろ」 「そんな事はないよ。辰巳の勘は、とても役に立つからね。それに…その日はどうしてもキミと一緒に居たい…」  正直な話を言ってしまえば、仕事とは言っているが辰巳やフレデリックのような業種は誰が何をしようが結果さえ伴っていれば問題がない。  ただ、今回は船の中で、しかも三日後に船上で行われる式典で騒ぎが起こる事が分かっているために、”表の”会社が絡むとフレデリックは予想していた。辰巳を同行させようとするならば、根回しが必要である。  それでもなお、三日後のその日は、フレデリックには辰巳と一緒にいたい理由があるのだ。  三日後。それは、辰巳の誕生日なのである。ただし、辰巳本人はそんな事を覚えてはいなかった。  この時既に、二人の擦れ違いは起きていた。辰巳の誕生日をとても楽しみにしているフレデリックと、誕生日など生まれてこの方気にした事のない辰巳の、ほんのささやかな擦れ違いである。 「きっとマイクの方にも連絡が入ると思うけれど、それは僕がどうにかするし、手伝ってくれるかい? 辰巳…」 「まあ、どうせお前が居なくちゃ面白くもねぇしな。俺が居てもいいってんなら構わねぇよ」 「何を言ってるんだい? 辰巳が来てくれなきゃ僕は仕事なんてしたくない!」 「わかったから仕事はしろ」  ”また”フレデリックが妙な駄々を捏ねだす前にと、辰巳は手伝いを了承した。  というのも前回、代理の仕事に駆り出された際のフレデリックは辰巳にコスプレをさせた。『辰巳が制服を着てくれたら仕事に行く。でなければ行かない』と、フレデリックはそう言ってキャプテンの白い制服を着させ、それはもう至福の時を堪能したのである。まあ、見られる辰巳の方は堪ったものではなかったのだ。  それに比べればボディーガードの手伝いの方が数百倍マシだと、そう思う辰巳である。例え、その相手がイタリアンマフィアだったとしても。  フレデリックがマフィアである事は知っていても、これまでその仕事に辰巳が首を突っ込んだ事はない。そもそも辰巳としては、フレデリックやクリストファーを見ていると、到底自分などでは役に立ちはしないと、そう思っている。  けれど、興味がないと言えば嘘になる。別に危険が好きな訳ではないが、フレデリックの仕事がどんなものであるかを実際に見る機会などそうそうない。フレデリックが自分を同行させる以上、そう危険な仕事でない事は辰巳にも分かっていた。  フランスでの滞在期間中、辰巳は一度だけフレデリックとクリストファーのフリーファイトを見た事がある。たった数分のそれだけで、辰巳は圧倒されてしまったのだ。それを思えば、手伝ってくれというフレデリックの言葉は、一緒に居たいというただそれだけの我儘である事が知れる。  ともあれ、辰巳自身フレデリックが仕事で居なくなってしまうと何もする事がないのも事実だった。 「しかしボディーガードまでやんのかお前らは」 「それは辰巳だって変わらないじゃないか。甲斐の時だってそうだっただろう?」 「ああ、言われてみりゃそうだな」  甲斐というのは辰巳とフレデリックの古い友人である。といっても年はひと回りほど違う。日本有数の企業グループのトップに立つ男だ。その男の、ボディーガードというか、子守りを昔した事があるのである。その時の甲斐は、十六歳だったのだ。 「取り敢えず、クリスが来たら早速会場の下見に行こうか」 「クリスも来んのかよ?」 「クリスはね、あれで一応セキュリティー部門にも所属してるからね。こういう警護の場合だけ会社から要請されるんだよ。普段の巡回とか、そういう警備は専門外だけど。ともあれまだ会社の方から正式に情報が入るまでには時間が掛かるはずだから、その前に出来る事は済ませてしまいたい」  クリストファーの方にも、同じように非公式なルートで情報が行っている筈だと、フレデリックはそう言った。  さすがに会社の大元がフレデリックの組織という事もあって、色々と驚かされることが多い辰巳である。分かっている事といえば、日本のヤクザなどとは規模が違うという事だけだ。  クリストファーが顔を出したのは、夕方になってからの事だった。どうやらカジノでの仕事があったらしい。開口一番遅いと文句を言うフレデリックに、クリストファーは呆れたように肩を竦めた。 「これでも着替えだけですぐに来たんだ。お前たちのように俺は暇じゃない」 「僕が暇だって? 冗談じゃない。僕は辰巳と一緒に居るので忙しいんだよ。たかがマフィアの三人くらい、キミひとりで片付けられるだろう?」 「馬鹿な事を言うなよ。失敗してもいいって言うなら、俺一人で構わないがな」 「まったく使えないねキミは」  フレデリックが嘲笑うように吐き捨てる。目の前で繰り広げられる兄弟の遣り取りを、辰巳は呆れた表情で眺めていた。誰がどう聞いても、クリストファーが居た堪れない。  当日は辰巳にも手伝ってもらうとフレデリックが伝えると、クリストファーは意外そうな顔をした。それはそうだろう、フレデリックは、過保護だ。それなのにわざわざ危険の絡む場所へ連れて行くというのだから。 「なんだ辰巳。ついにお前も嫁が心配になったか?」 「んな訳があるか。いつものフレッドの我儘だろ」 「はん? まあ、三人くらいじゃ大した危険もないしな」  クリストファーはたいした危険はないと言うが、フレデリックから辰巳が聞いた話では三人とも銃を所持しているという。それのどこが危険じゃないのかと、思わず突っ込みたくなる欲求を辰巳は押さえ込んだ。こいつらの頭の中は、いったいどうなっているのだろうかと、そう思う。 「無駄口はその辺にして、さっさと会場の下見に行くよ」  フレデリックの一言により辰巳が連れていかれた場所は、船の左舷側にある広いダンスフロアだった。入口は観音開きの扉がみっつ並んでいる一か所しかない。  正面上部に大きく張り出したバルコニーがあって、その後ろの壁は一面が大きなガラス窓だった。しかも、床から天井までだ。その大きさに、辰巳は息を呑んだ。 「すげぇな」 「普段は毎晩ここでダンスパーティーが披かれているんだけどね、今日から式典当日までは準備のためにパーティーは休みなんだ。明日になると準備でスタッフが入ってしまうから、下見は今日しか出来ない」  そう言ってフレデリックは辰巳に右手を差し出した。左手を腰の後ろに回したその姿に苦笑が漏れる。 「せっかくだから…僕と踊って頂けませんか?」  男前で踊ってやりたいのは山々だが、辰巳は残念ながら女性のステップなど知らない。 「ばぁか。そういうのは女にやれっていつも言ってんだろぅが」 「今日は貸し切りだよ?」  しっかりと扉を閉めた広いダンスフロアには、三人しかいない。確かに貸し切りではあるが、さすがに身内といえどクリストファーの前で踊る気にもなれない辰巳である。  ペシッと差し出された手を辰巳が叩き落とせば、フレデリックが残念そうな顔をした。  そんな辰巳とフレデリックを尻目に早速上部にあるバルコニーへと移動したクリストファーが、あっさりとそこから飛び降りて呟いた。 「まあ、最悪は上からでも押さえられるか…。おい辰巳」 「あん?」 「お前、飛び降りれるか?」 「高さは大丈夫だろうが…床抜けねぇかこれ?」  足元を見て心配そうに言う辰巳に、フレデリックがそれは大丈夫だと答えた。上部のバルコニーへは、船の前方と後方、二か所ある螺旋階段から上がれるようになっているらしい。現在辰巳たちが居るのは、入って右側にある前方の螺旋階段だ。 「くくっ、まあ飛び降りてみろよ辰巳。お前に押し潰される奴も気の毒だろうがな」 「遊ぶのは構わないけれどねクリス。そんな場所から飛び降りないと確保できないようじゃ、話にもならない」  自分のおふざけは棚に上げて冷たい声で言うフレデリックに、クリストファーが肩を竦めた。 「分かってるよ。できるだけ騒がず…だろう?」 「当然だね。ゲストに勘付かれるのが許されるのは、連行する時だけだよ。わかったね?」  いくら相手がマフィアであろうとも、記念式典の雰囲気を壊すような仕事は許さないと、フレデリックはそう言った。相手は銃を所持しているが、引き鉄を引かせるなと、そう言うのである。しかも、たった三人で。  当日どの程度の招待客が入るのかと問えば、フレデリックは三百人と答えた。そこに給仕のスタッフ、セキュリティー、クルーと会社側の人間が入るという。  どちらにせよ当日、警護対象がどのあたりに立つかも分からない今、出来る事といえばフロアのどこに何があるかを頭に入れる事くらいである。それと、クリストファーのように緊急時に対応できる手段を探す事だ。  一応フレデリックの許しを得て辰巳もバルコニーから飛び降りてみたが、思ったよりも高かった。  このダンスフロアは、二層吹き抜けである。   ◇   ◆   ◇  式典当日の朝。そして、辰巳の誕生日である。辰巳が目を覚ますと、胸の上からフレデリックが顔を覗き込んでいた。 「おはよう辰巳」 「ああ…」 「誕生日おめでとう」  少しだけ悲しそうに言うフレデリックの頭を、辰巳は大きな手で撫でる。礼を口にするよりも、フレデリックにはその方が伝わるからだ。  結局、昨夜まで辰巳は自分の誕生日を忘れていた。拗ねるフレデリックに的外れな慰め方をした辰巳は、怒鳴られ、しょげられ、大変だったのである。  フレデリックが自分の誕生日をそこまで楽しみにしていてくれたのは有り難いが、この年にもなって誕生日など…とも思ってしまう辰巳だ。今日をもって辰巳は三十九になる。  そもそも辰巳が誕生日などというものを祝われたのは、母親が生きていた頃で、もう数十年も前の話なのだ。忘れていても仕方がなかった。  『Queen of the Seas (クイーン・オブ・ザ・シーズ)』へと正規のルートから緊急連絡が入ったのは昨日の事である。フレデリックの元へとイタリアンマフィアの情報が入ってから遅れる事二日だ。  本社側からの指示で早急に打ち合わせの場が設けられ、その場に辰巳を参加させる為の手続きは、フレデリックが非正規なルートから会社に承諾させた。  だがしかし、会社は納得しても真面目なマイケルはどうやら納得しなかったらしく、フレデリックがブリッジの前の通路で説教を食らう様を辰巳は目撃する事となった。  自分勝手な行いをするフレデリックに、『規範が乱れる』と、ぴしゃりと言い放つマイケルは確かにアイシクルキングという俗称の一端を辰巳に見せつけてくれたのである。  それは、辰巳にとって意外な光景だった。いつでものらりくらりと大抵の事は躱してしまうフレデリックが、何の反論も出来ずに茫然と立ち尽くす光景など、そう見れるものではない。  ともあれマイケルが居ようとも当日まで出来る事が少ないという事実に変わりはなく、フレデリックは当日に備えて早く休むようマイケルに進言して、早々に部屋へと引き上げた。

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