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 毎日のようにサムに来てもらい料理を習っているフレデリックはそれでも良かったが、辰巳の方は堪ったものではなかった。そうでなくとも、記憶を取り戻してからのフレデリックは執着心に磨きが掛かっていたのである。部屋の中でも常に辰巳の隣にくっついていて離れないのだ。辰巳がひとりで出掛けられよう筈もなかった。物理的な意味で。  ともあれ抜糸と経過観察のためにメディカルセンターを訪れたフレデリックは、医師に驚かれるほどの回復力を見せていた。帰りには包帯を巻かれるのを断り、完全には治りきっていない傷を隠す程度のガーゼをとめているだけという姿である。  勤務中にもかかわらず様子を見に来たマイケルに迷惑をかけたと二人で詫びを入れれば、マイケルは無事でよかったと言って心から安心したような顔をした。 『お前が記憶を失ったと聞いた時の辰巳の絶望振りは相当だったんだぞ? フレッド。危ない職業なんだからもう少し警戒しろ』 『本当にね。おかげでせっかくの誕生日と結婚式を逃してしまった。あの男を殺しても殺したりない』 「しかしまあ、自殺覚悟で巻き添えにしたのに傷は頭だけって知ったら、あの男も死んでも死にきれねぇだろうな」  当時の悲壮感はどこへやら。物騒な軽口をたたく辰巳とフレデリックに、マイケルは呆れたような顔をして勤務に戻っていったのである。  マイケルと入れ違いに姿を見せたクリストファーは、フレデリックの蟀谷にあてられたガーゼを見て小さく笑った。 『そこなら前髪で隠せて良かったじゃないかフレッド』 『髪を上げられなくなった』 「別に傷のひとつやふたつ気にする事ぁねぇだろ」 「いいや、僕の躰に傷をつけるなんて許せないね」  さらりと言い放つフレデリックがナルシシズムの持ち主である事は、辰巳もクリストファーも良く知るところである。しかもそれを満たすための立場も力量も兼ね備えているのがフレデリックの恐ろしいところだ。  この後仕事があるというクリストファーとも別れ、辰巳とフレデリックは部屋へと戻る通路を並んで歩きながら話していた。その話題は、フレデリックのナルシシズムについてである。 「お前そのうち年取るの嫌で自殺でもすんじゃねぇのか?」 「その時は辰巳も一緒に死んでくれる?」 「生い先短ぇな」  あっさりと返す辰巳は、本気でフレデリックが自殺しようなどと言う事になったら巻き添えにされる覚悟は出来ていた。過度な自己愛は、自分が醜く老いていく事に耐えられない。歪みに歪みきったフレデリックと辰巳の関係は、一歩間違えれば異常者のそれだった。  部屋へ戻ればいつものようにソファで寛ぐ二人は、もはや誰の目から見ても完全なひきこもりと化している。ジムに行こうにもフレデリックの怪我でどうしようもない事ではあるのだが。  それよりも辰巳の気掛かりはフレデリックが極端に外に出たがらなくなった事である。フレデリックが部屋から出たがらない理由は、なにも見栄えのせいだけでない事は明らかだった。  辰巳がひとりで部屋を出る時でさえも、フレデリックは過剰に反応を示す。離れたくないと、そう口にする時のフレデリックの目には明らかな不安と怯えの色が浮かぶようになっていた。  トラウマだろうかと、辰巳は思う。想いが強い分、失う恐怖は比例して大きい。それは辰巳も同じ事だ。  だが、だからといってひきこもったままでいる訳にはいかなかった。フレデリックも辰巳も、日本に帰れば仕事がある。そして、一哉の面倒もみなければならない。 「包帯も取れた事だ、晩飯食ったら散歩でも行かねぇか? いい加減躰が鈍っちまうよ」 「辰巳はジムに行ってるじゃないか」 「お前が料理習ってる時間だけで足りる訳がねぇだろう。つぅかお前がたるむぞ?」  たるむなどと言われてむっとするフレデリックに、辰巳はにやにやと嗤う。年寄り扱いされる事すら嫌がるフレデリックにとっては、それだけでも十分な煽り文句になる。  外に出たがらないのはもちろんの事、怪我のせいで運動も出来ず、このところフレデリックにストレスが溜まっているのは目に見えて明らかだった。どうにかして外に連れ出したい辰巳である。  包帯が取れて撫でやすくなった金色の頭を撫でながら、辰巳はフレデリックに口付けた。 「そうじゃなくてもお前、料理作ってる間背中丸めてんだろう。姿勢崩れんじゃねぇのか?」 「それは…」  口籠るフレデリックに、辰巳は諦めてはっきりと言ってやる事にした。そもそも回りくどい遣り方は好きでもなければ得意でもない。 「お前、外出んの怖ぇんだろう」 「ッ……」  目を伏せるフレデリックに、辰巳は小さく息を吐く。 「らしくねぇなフレッド。俺は、そんなヤワな嫁を持った覚えはねぇからな? お前は…自分の身も、俺の背中もしっかり守れるよ」 「もう…二度と失いたくない。怖いんだ」 「なら守れよ。お前の躰は、そのためにあんだろぅが。腐らせんな」  辰巳はフレデリックの躰をソファに押し倒して圧し掛かる。シャツに隠れてはいるがフレデリックの躰は、辰巳が羨ましくなるほど美しい筋肉を纏っている。それを、辰巳は無駄にしたくなかった。それにフレデリック自身にも後悔させたくない。二人とも、躰が資本の職業なのだ。  いつもとは逆に、フレデリックの胸の上に辰巳は乗った。 「別に俺ぁ今のままのお前でも構やしねぇがな。俺の知ってるお前は、今のままで納得するとは思えねぇんだよ」 「辰巳…」 「俺だって二度と同じ思いはしたくねぇよ。だから守ってやる。お前がおっかねぇって言うんならそばにいて守ってやっから…だから戻ってこいよ、フレッド。な?」  クスリと、フレデリックは小さく笑って胸の上に乗った辰巳の躰を抱き締めた。 「まったくキミって人は…どうしてそう僕を喜ばせるのが上手いのかな」 「嫁を喜ばせんのは旦那の務めだろぅが。ついでに、ケツを叩くのもな」 「辰巳には敵わないね…」 「人の事軽々と投げ飛ばしといて言う台詞じゃねぇな」  完全に恐怖が払拭される筈もなかったが、フレデリックはそれでも散歩に出る事を了承した。胸の上に乗った誰よりも男前な旦那様は、自分よりも少しだけ小さいが頼りになるのだ。辰巳が隣にいてくれるのなら、フレデリックに恐れるものなど何もなかったと、そう思い出す。  辰巳の言う通り、らしくない。フレデリックは生きるために色々な事を学んできたのだ。それと、守りたいものを守るために…だ。腐らせるためじゃない。  胸の上に乗った旦那様は、命に代えても嫁を守ってくれると知っている。怖がる必要はなかった。 「本当に…僕の旦那様は男前で参るね」 「嫁が男前過ぎて苦労してっけどな」  まだ辰巳は『おかえり』と、そう言いはしない。けれどフレデリックは着実に辰巳の元に戻りつつあった。  クルーズの残りはもうあと僅かしかないが、船がサウサンプトンに着く時にはフレデリックにすべてを取り戻させるつもりで辰巳はいる。  嫁が自分を取り戻すためならば、協力するのが旦那の務めだ。フレデリックのすべてを知っているのは、辰巳しかいないのだから。  その夜。辰巳とフレデリックの姿は船の最後尾にあるデッキにあった。昼間はカフェとしても利用される広い場所である。フレデリックの手料理を食べた後で、辰巳は言った通り散歩に連れ出した。  さすがに左舷側のデッキは通らなかったが、フレデリックは過度な反応を示すことなく辰巳の隣を歩いていた。その姿を辰巳は横目で見遣り安堵する。  あの日メディカルセンターに後から運ばれてきた男は既に息絶えていた。どうするかと聞いたクリストファーに辰巳はどうでもいいと答えたが、本気で殺しても殺したりないと今になって思う。  あの時はまだ、フレデリックが記憶を失うなどとは思ってもいなかった。  小さな溜め息を吐く辰巳を、フレデリックが首を傾げて見る。 「疲れたかい?」 「いや、ほっとしてよ」 「僕のせいで迷惑をかけてしまったね…」 「お前のせいでも迷惑でもねぇよ。それに、こういう事が起きても仕方がねぇのは元より分かってるこった」  そのために、辰巳もフレデリックも躰をしっかりと作っている。いざという時に頼れるのは自分だけしかいないと、そう分かっていた。だからこの二人は、互いに出会うまで他人と深く関わってこなかったのである。  辰巳は失うのが怖かった。フレデリックは他人に価値を見出せなかった。そんな二人が惹かれ合い、互いに守ると誓い合うようになるには、十二年を要したのだ。  失うのは、たった一瞬だというのに。  この船に乗って初めて二人が散歩をした場所は、この場所だった。  最後尾の手摺に腰を凭せ掛ける辰巳の横に、手摺に片手をついたフレデリックが立っていた。今と同じ、触れそうなほど近い距離に。あの時も月と無数に瞬く星だけが二人を見下ろしていた。違うのはフレデリックが辰巳の右側に立っている事くらいだろうか。  あれからもう、半年以上が経っている。 「なあフレッドよ。お前、前ここに来た時に自分が言った言葉覚えてるか?」 「僕たちは…伝えられる時に伝えておかないと後悔する」 「そうだ。だから言っといてやる。俺はお前を愛してる」 「ッ!!」  色気もへったくれもなくあっさり告げる辰巳に、フレデリックは思わず項垂れる。コツン…と、ふたりの額があたり、フレデリックの口から不満が漏れた。 「酷いなぁ…雰囲気も何もないじゃないか」 「ああ? 星空の下なんて最高だろぅが。しかもお前の大好きな船の上だぞ? 感謝しろ」 「もう…キミは本当に僕を驚かせるね」  腰の後ろに回した腕で、フレデリックは辰巳の左手を引き寄せる。長い指先で薬指の指輪をなぞると、左手を重ね合わせた。 「僕も…キミを愛しているよ、辰巳」 「ああ、知ってっけどな」 「っ……照れてるね?」 「ガラじゃねぇからな」  寄り掛かっているせいで普段より低い位置から視線だけを向ける辰巳の頤を右手で持ち上げると、フレデリックはその唇に口付ける。愛しむように。  艶やかに濡れた辰巳の唇を指で拭って、フレデリックは囁いた。 「指輪に刻まれたキミの願いを…僕はもう二度と裏切らないと誓うよ」 「お前は、まだ一度も裏切っちゃいねぇだろ」  おかえり。と、辰巳はそう小さく囁いた。『お前を失いたくない』と、辰巳が指輪に込めた願いを、フレデリックは裏切ってなどいない。こうして辰巳の隣にフレデリックは立っている。 「ただいま。傷付けた分…愛したら許してくれる?」 「それ以上お前に愛されたら重くて潰れちまうよ」 「でも僕は愛したい」 「本当に…我儘な嫁だなお前は」  くつくつと喉の奥で笑いながら、辰巳はフレデリックの頭を撫でた。ソファにふんぞり返る姿は新鮮だったと言う辰巳に、フレデリックは困ったように微笑んだ。バレたところでどうなるものでもないが、あまり辰巳にそういうところは見せたくなかったところである。  記憶を失っている間の事は、もちろん全部覚えているフレデリックだ。自分が何をし、何を言ったのかも、すべて。そして何を見たのかも。  申し訳ないと思う反面、辰巳がそばにいて支えてくれた事がフレデリックは何よりも嬉しかった。  そろそろ部屋に戻ろうかとフレデリックが言えば、辰巳が肩に腕を回してくる。ふたり並んでデッキを歩きながら囁き合う。 「辰巳のお嫁さんで良かった」 「ああ? 何だ急に」 「だってキミほど僕を理解してる人はいないから」 「はぁん? お前の考えてっ事はさっぱり分かんねぇよ」  酷い! と、そう言ってむくれるフレデリックに辰巳は笑う。急にマンションを買うなどと言い出し、料理を習い始める嫁の気持ちなど辰巳には分からない。辰巳はただ、フレデリックがしたいようにさせてやりたいだけである。  だが、次の瞬間、フレデリックの言葉を聞いた辰巳が思いっきり顔を顰めた事は言うまでもなかった。 「僕の考え…出来なかった結婚式をしたい…」 「そりゃあお前、出来なかったのは自業自得だろうが。諦めろ」 「したい…」  しくじったと思う辰巳である。というより、やはりきたかと、そう思う。フレデリックは、一度言い出した事はテコでも遣り遂げる。良い意味でも悪い意味でも。  どうせ記憶喪失になるのなら、それだけは思い出さなくて良かったと半ば本気で思う辰巳だ。 「もう指輪してんだからいいだろぅが」 「それとこれとは話が別だよ辰巳」  食い下がるフレデリックに”諦める”という選択肢がない事は、辰巳も良く分かっている。分かってはいるがそう簡単に首を縦に振れる筈がなかった。出来る事なら諦めて欲しい辰巳である。  辰巳とフレデリックの挙式をめぐる押し問答は、部屋に戻ってからもなお続いていた。煙草を吸う辰巳の隣でフレデリックが喚き散らす。 「一緒に行ってくれるって言ったじゃないか!」 「ああ? だから行く気になってやっただろぅが。それを行けなかったのはお前の都合だろう」 「酷い! 僕だってなりたくてあんな事になった訳じゃないのに!」  大袈裟にがばりとソファの背凭れにしがみ付き『酷い。辰巳は意地悪だ』と、そう言って泣き真似をするフレデリックである。が、念のため言っておくならば、彼の身長は百九十センチを超える。悲壮感など漂う筈がなかった。  すぐ横で繰り広げられる猿芝居を見遣る辰巳の視線に浮かぶ色はもはや憐みである。 「お前…そういう事すんのは構わねぇがよ…ちっとは自分の体躯考えろよ」

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