24 / 27

24

 再び頭に口付ける辰巳に、フレデリックはどこか困ったような顔をして笑った。サウサンプトンに着くころには、記憶を取り戻す事が出来るのだろうかと、そう思うフレデリックである。自分をよく知る人間がすぐそばに居るというのは心強くもあるが、怖いと言ったのも本心だった。  辰巳は、フレデリックがマフィアであるという事を知っているという。それどころか自分はこの男のためにボスの腕を撃ち抜いたのだ。どうしてそこまで辰巳を守りたいと、そう思ったのだろうか。  すべてを思い出したなら不安は消え去るのだろうか。こうして辰巳の隣に居ると不思議なくらい安心してしまう自分が、フレデリックには分からなかった。  時折り煙草を吸う辰巳の肩にぼんやりとフレデリックが寄り掛かっていれば、ノックの音が部屋に響いた。辰巳が立ち上がって、思わず倒れそうになる。  ドアの方から聞こえてくる話し声は英語だ。そしてフレデリックは不意に思い出した。料理を教えてもらうと言っていた事を。がばっと立ち上がると、フレデリックは大股で部屋を横切る。案の定、辰巳の背中の向こう側に料理長のサムを発見してフレデリックは声をかけた。 『やあサム。突然のお願いで悪かったね。部屋のキッチンでご指導願えるかい?』 『フレッド! 聞いたぞ。デッキから落ちたそうじゃないか! 大丈夫なのか?』 『ははっ…まあ、立ち話も何だし、取り敢えず中へどうぞ』  サムをリビングへと招き入れると、フレデリックはコーヒーを淹れにキッチンへと入った。食器の置き場所などは、昨日部屋に戻った時点で確認していたので問題はない。コーヒーメーカーも、記憶よりも随分とスマートに見えたのが不思議な感覚ではあったが使えない事はなかった。  ともあれ朝にセットしたコーヒーをカップに注ぎ、フレデリックはリビングへと戻った。カップを差し出せば、サムが礼を言いながら頭の包帯を見る。 『ところでフレッド、怪我はそれだけなのか?』 『そうだよ。僕は日頃の行いが良いからね、こういう時に大怪我はしないんだ』 『毎日のようにチーフに叱られてたキャプテンが良く言うな』 『マイクは厳しすぎるんだ』  確かに。と、そう言ってサムは笑いながらフレデリックに料理はどれくらい出来るのかと問いかけた。 『それが残念な事にまったく出来ないんだ…』 『おいおい包丁くらいは握れるんだろうな?』 『ナイフを使う自信はあるけど、食材を捌いた事は一度もないよ』 『こりゃあ骨が折れそうだ』  そう言いながらもサムは立ち上がると、食材の袋を持ってさっさとキッチンへと入ってしまう。フレデリックが隣に並ぶと、見上げて笑った。 『お前はデカイからここのキッチンじゃ腰が痛くなりそうだな』 『そうだね。キッチンの高さも考えないといけないか…』 『サウサンプトンに着くまでと言ってたが、どの程度覚えたいんだ?』  サムの真似をしながらフレデリックは食材に包丁を入れる。希望は和洋中すべてをマスターしたいところだが、さすがに期間が短いだろうかと問えば、サムは少しだけ考えて家庭料理程度なら飲み込み次第では大丈夫だと請け負ってくれた。  見様見真似で切りそろえた食材は些か不格好だが、初めてにしては上出来だと合格点をもらい、フレデリックは微笑んだ。 『さすがに物覚えが良いな』 『色々と覚えるのは昔から好きなんだ。出来る事が増えていくのは愉しいだろう? 教えてもらえてとても感謝しているよ、サム』 『その素直さが、お前の上達の秘密という訳だな』  小一時間でサムに基礎を教えてもらって休憩を挟み、簡単な煮込み料理とサラダ、ドレッシングの作り方を習う。サムの教え方は初心者にも分かりやすく、確かにこれなら二か月でもそこそこマスター出来るかもしれないと思うフレデリックである。  帰り際、比較的時間のあるのが今の時間だと言うサムに、フレデリックは時間は合わせるからなるべく覚えたいと答えた。案外、料理は愉しいと思うフレデリックだ。  サムを見送ったフレデリックがリビングに戻ると、辰巳の姿はバルコニーにあった。そろそろ日が落ちる時間だ。暇をさせてしまっただろうかと、そう思ったところでフレデリックはふと我に返る。どうしてそこまで気に掛けてしまうのだろうか。  手摺に寄り掛かって夕日に染まる海を眺めている辰巳の背中を、フレデリックは僅かな時間眺めていた。大きな背中が少しだけ寂しそうに見えるのは、自分の記憶が失われているからだろうか。  ガラス窓を開ければ、辰巳が振り返る。バルコニーへと出ようとするフレデリックを、辰巳は手摺に寄り掛かったまま待っていた。それはまるで隣に来るのが当たり前のような、そんな態度だ。 「料理は愉しいかよ?」 「そうだね。何かを覚えるのは、嫌いじゃない」 「お前は何でも器用にこなしそうだもんな。料理もあっという間に覚えそうだ」  言いながらフレデリックが歩み寄れば、辰巳の大きな手が優しく頭を撫でる。子供にするような仕草だが、フレデリックは何故か嫌ではなかった。不思議だと、そう思う。どうしてか辰巳には、素直に思っている事を伝えてもいいような気になるのだ。 「覚えておいて損をするものは、この世界にはそう多くないよ。銃を撃つことだって、出来ないよりは出来る方がいいと…ただそう思っていたけれど、出来てよかったと……父上の腕を撃った時に初めて思ったんだ。キミを守るための力があって良かったと…確かにあの時の僕は思ったんだ。ただ、どうして僕はそんなにキミを守りたいと思ったのかが思い出せない…。その時の感情が……今の僕の中に見当たらないんだ…」  ぼんやりと海を見ながら思い出すように喋るフレデリックの言葉が、辰巳には痛々しい。中途半端に思い出した記憶の断片が、フレデリックを苛んでいた。 「記憶に気持ちが追いつかねぇのは…仕方がねぇよ」 「キミは…優しいね」 「惚れた奴に優しくすんのは当たり前だろ」  記憶がなくても? と、そう問い掛けたフレデリックの声は、途中で途切れた。痛みを堪えるように眉根を寄せたフレデリックを、辰巳が心配そうに覗き込む。 「大丈夫か?」 「っ……見た事がある…」 「ッお前…」  フレデリックの視線を追って海を見た辰巳は息を呑んだ。夕日に染まり金色に輝く大海原を、辰巳とフレデリックは確かにふたりで眺めた事がある。 「あの夜……僕は…キミに嫌われたくないって…そう思ったんだ…。キミを失うのがとても怖くて…とても…つらかったんだよ…」  あの日、辰巳はフレデリックに言ったのだ。どんな人間でも構わないと。すべてを寄越せと。自分が惚れているのはフレデリックというすべてだと。 「キミの言葉を聞いたあの時…僕は泣くほど嬉しかったんだ…。それなのに僕は忘れて…っ」 「仕方がねぇだろう。お前が悪ぃ訳じゃねぇ」 「辰巳…!」  しがみ付くように首筋に顔を埋めるフレデリックを抱き締めながら、辰巳は安堵の息を吐いた。 「そこまで思い出せば上等だフレッド」 「僕を嫌いにならないで…」 「なる訳がねぇだろう。少しくれぇ忘れてる事があっても、お前はお前だよ」 「辰巳…そばにいてくれてありがとう」  フレデリックの言葉に、辰巳は喉の奥で小さく笑う。 「阿呆。それじゃ終わりみてぇだろうが」 「…Stay by my side forever」 「それでいい」  くしゃくしゃと、金色の頭を辰巳が撫でる。夕闇に沈みつつある海に、そろそろ中に入るかとそう言って、辰巳とフレデリックはリビングへと戻った。  右肩に寄り掛かりごそごそと頭の座りを直すフレデリックが可愛くて仕方がない辰巳である。傷に触れないように頭を抱えて、辰巳はごろりと横になった。胸の上にぺたりと頬をつけるフレデリックの髪を撫でながら、辰巳は小さく笑う。 「本当にお前は人騒がせだな」 「寂しかったくせに…」 「ああ。寂しかったよ」 「僕がいないと生きていけない?」  ああ。と、辰巳が短く応えれば、フレデリックは嬉しそうに微笑んだ。 「僕も…辰巳がいないと生きていけない」 「いてやっただろ?」 「もっと…ずっと一緒にいて」 「我儘な嫁だな」  ようやく取り戻した穏やかな時間が、何よりも嬉しい辰巳とフレデリックである。  記憶は全部戻ったのかと、そう問いかけた辰巳に、フレデリックはまだ少し空白があると言った。だが、そんなものは辰巳にとっても、フレデリックにとっても、些細な事だ。そのうち思い出すだろうと、そう言って笑い合う。  しばらくソファで寛いだ後で、不意に辰巳は腹が減ったと言った。 「手料理食わせてくれんだろ?」 「まだ習い始めたばかりだから、期待しないでくれると有り難いんだけどな」  広いダイニングテーブルに二人分の食事を用意して、並んで座ると些か恥ずかしいフレデリックである。いくらサムに教えてもらいながら作ったとはいえ、人生初の手料理だ。 「サムもいたし、味は…大丈夫だと思うけれど…」 「いただきます」  心配そうなフレデリックをよそに、辰巳は短く言ってさっさと目の前に用意された料理を口に放り込んでしまう。  もぐもぐと黙って咀嚼する辰巳の横顔を、フレデリックは困ったような顔で見つめていた。だがしかし、感想を言う様子もなく他の皿もつつき始める辰巳にフレデリックは堪らず抗議の声を上げる。 「もう! 何か言ってくれてもいいじゃないか」 「ああ? 自分で食ってみりゃいいだろうが」  基本的に外食が主なフレデリックにとって、家庭料理はあまり馴染みがない。辰巳の本宅に滞在していた時に、若い衆が作った料理を食べたくらいのものだった。フランスの実家では、料理人を雇っている。  おずおずと自ら作った料理に手を伸ばすフレデリックを、辰巳は面白そうに眺めていた。一口食べ終えたフレデリックに問いかける。 「どうだよ?」 「美味しい…?」 「ああ」  初めてにしてはというより、初めてとは思えない出来栄えだと思う辰巳だ。まあ、『Queen of the Seas』のような大きな船で料理長を務めるような男が一緒に作っていれば当然だとは思うが。  だが、フレデリックの事だ、ひとりで作ってもそう大差はないのではないかと辰巳は思う。覚えてしまえば、フレデリックはなんでもそつなくこなしてしまう。  心配そうにしていた割に、あっという間に目の前の料理を平らげてしまったフレデリックである。綺麗に食材のなくなった皿をキッチンにさげて、フレデリックと辰巳は食後の酒を愉しんでいた。 「お前は本当に何でも出来んな」 「サムがいてくれたからね。明日は和食を教えてくれるって言ってたよ」 「そりゃあ楽しみだ」  フレデリックが料理を習うと言い出した時には正直呆れもした辰巳ではあるが、こうして手料理を食べられるのはやはり嬉しいとそう思う。 「そう言えばお前、マンションの下見頼んでたろ。連絡先教えておけよ?」  辰巳に言われ、フレデリックはそう言えばと思い出した。サムの言う通り、キッチンの低さにフレデリックはつらい思いをしたのである。さすがにフレデリックや辰巳が立ってちょうどいい高さのキッチンを備えたマンションなどないだろう。そうなると改装しなければならない。日本に帰るまでに準備を整えるには、些か時間が足りなそうである。 「日本に帰ってもすぐには入居できないかもしれない…」 「ああ? 別に構わねぇだろ。つぅかお前、もしかしてすぐ引っ越す気でいたのかよ?」  呆れたように問いかける辰巳に、フレデリックは新婚生活が楽しみなのは当然だと言ってのけた。思い出した途端しっかりと嫁として振る舞うフレデリックに、安心していいのか呆れていいのか迷う辰巳である。  ともあれ、楽しみだった新居への入居が遅れそうでしょげるフレデリックの頭を辰巳は慰めるように撫で梳いたのだった。我儘な嫁を持つと旦那は苦労するものと相場が決まっている。   ◇   ◆   ◇  その日、辰巳とフレデリックの姿はメディカルセンターにあった。フレデリックの頭の傷の、抜糸のためである。あれからフレデリックは結構な頻度で頭痛を訴えた。そしてその度に少しずつ記憶を取り戻してきたのである。  辰巳への想いを思い出した事で、感情と記憶の齟齬にフレデリックが悩まされる事はなくなっていた。  辰巳とフレデリックが部屋の外に出たのも、久し振りの事だった。頭に包帯を巻いていて見栄えが悪いと言い、部屋から出たがらなかったフレデリックである。

ともだちにシェアしよう!