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船に乗った初日にテーブルマナーを叩き込まれたと辰巳が白状すれば、フレデリックは微笑んだ。
「それなら緊張する必要はないよ。どこに出ても恥をかく事はない」
「阿呆か。ふたりしかいねぇのにずっと気ぃ張ってんのが疲れるっつってんだよ」
「別に僕しかいない場所でそこまで気を遣わなくても構わないよ」
にこりと微笑むフレデリックの笑顔は胡散臭いと、そう思う辰巳である。思わずじっと見ていれば、無遠慮に見つめる方が失礼だと視線すら寄越さずに怒られた。普段は逆だと、そう言って辰巳が返せばフレデリックの雰囲気が幾分か崩れた。というより、崩したというべきか。
フォークを持ったまま片手で頬杖をついたフレデリックが、辰巳を眺める。グラスを傾けていた辰巳はぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じた。
「首締める想像すんな」
「ふぅん? よく分かったね」
「お前のそういうとこは変わらねぇな。そんで甘いもん食うと盛んだろうが」
「なるほど。本当にキミは僕の事を良く知ってるみたいだ」
愉しそうにそう言って残りの食事をあっという間に済ませてしまうと、フレデリックはケーキを引き寄せた。切り分けるかと尋ねた辰巳に小さく首を振って、フレデリックは丸いケーキにフォークを差し込んだ。二、三口頬張ったところでふと手を止めたフレデリックが辰巳に尋ねる。
「うん。とても美味しいね。キミも食べるかい?」
「俺は甘いものは苦手だ」
「まったく食べないのかな?」
「まったくって訳じゃねぇがな」
そう…と、そう呟いてフレデリックは小さめに切り分けたケーキの欠片を辰巳に差し出した。
「なら、一口だけあげるよ」
言いながら、フォークの柄の部分ではなくケーキが乗っている方を口許に向けられて、辰巳は堪らず項垂れた。記憶を失くしていても同じ事をされると、頭の中が混乱しそうになる。勘違いしそうになる。
戻ってきて欲しいと、そう願ってしまうのだ。
「ったく…そりゃあお前反則だろぅが…」
「どうして? 僕に甘やかされるのは嫌い?」
「本当に…お前は質が悪ぃよ」
そう言って辰巳は差し出されたフォークに乗った甘い欠片を口に入れた。
満面の笑みでつい先日ケーキを頬張っていたフレデリックの顔が脳裏を過ぎる。今と同じように、フレデリックはケーキをそのままつついて食べていた。
ただ、その表情だけが、今はあまりにも違う。
辰巳はケーキをつつくフレデリックをぼんやりと眺めた。同一人物だと分かっているのにどうしても比べてしまうのは、時間が解決してくれるのだろうか。今の辰巳には分からなかった。
生きていればそれでいいなど、ただの強がりでしかないと気づく。すべてを失うよりは確かにマシかもしれないが、記憶というのは代償にしても大きすぎた。
「なあ…フレッド」
「なにかな?」
「旨いかよ?」
「とても美味しいよ」
にこりと、上品に微笑むフレデリックを見ているだけで、締め付けられるほど胸が痛いのは何故だろうか。
ケーキを食べるフレデリックの頬を、辰巳は指先でなぞった。不意に言葉が零れ落ちる。
「戻ってこいよ…」
「泣くほど僕が好き?」
「ああ」
残酷だと、そう思う。同じ顔で、声で、躰で、仕草で。今、目の前にいるフレデリックが嫌いな訳じゃない。ただ、一から始めるには、辰巳はまだ心の整理が出来ていなかった。
行き当たりばったりで、考えなしで、無謀だと、辰巳にそう言ったのもフレデリックだ。
「俺は…お前がいないと生きていけねぇよ…フレッド」
◇ ◇ ◇
フレデリックは、目の前で涙を流す辰巳をただ眺めている事しかできないでいた。十二年と、クリストファーの口にした言葉がフレデリックの頭を過ぎる。
クリストファーの言った通り、確かにクロゼットの中にはキャプテンである事を示す、袖に四本のラインが入った制服が掛かっていた。サイズからしても自分のものに間違いはないと、そう思う。だが、それよりも同じクロゼットに並んだ幾分かサイズの違う男物のスーツに、フレデリックの目は釘付けにされた。
『冗談なんかじゃない。お前には、溺愛してる恋人がいる』
クリストファーの口から聞かされた言葉。有り得ないとフレデリックは思う。クリストファーは、すべてを思い出した時に後悔したくないのなら、辰巳一意という男だけは傷つけるなと、そう言ったのだ。馬鹿らしいと吐き捨てた時に腕を掴んだクリストファーの力強さは、彼が本気で言っているという事を十分物語っていた気もする。
――辻褄は合うけれど。
辰巳がフレデリックに見せた品物の数々は、確かにフレデリックと辰巳の関係を示すものだろう。だが、どうしてそこまでの関係になったのかがフレデリックには理解できないでいた。
だがまあ、弄ぶには適した玩具かも知れないと、そう思う。自分がいないと生きていけないなどとのたまう程に心酔しているのなら、遊び甲斐もあるかもしれない。そう思えば、顔も躰も好みである辰巳を選んだ理由は納得できるフレデリックだ。
ただ、僅かに軋みを上げる違和感は何だろうか。辰巳が涙を流している様を見ているのがつらい。それと同時に、フレデリックは苛立ちを感じていた。それがどこからくるものであるのか、その答えを自分は持っていない。
慰めたいのか、嘲りたいのか、優しくしてやりたいのか、手ひどく扱いたいのか、ともすればそのすべてを自分はこの辰巳一意という男に向けていたとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しいとフレデリックは思う。
執着心の行きつく先を恋愛感情と勘違いでもしているのではなかろうか。
頭痛がしていた。酷く頭が痛い。目の前の男に八つ当たりをしてしまう前に、この場を離れた方がいいかもしれないとそう思う。クリストファーの目は、本気だったから。
立ち上がったフレデリックは、脱いだ上着を無造作に辰巳の頭に掛けて踵を返した。
◇ ◆ ◇
ばさりと、頭に掛かっていた上着を取り払われて辰巳は目を覚ました。ぼんやりと覚醒しきらない意識のまま顔を上げれば、フレデリックが腕を組んで見下ろしている。その表情は怒りに満ちていた。
「いったいキミはいつまでそこで寝ているつもりだい? だらしがないにも程がある」
「ああ? そんな怒ってっと傷開くぞお前…血圧あげんな」
「だったら僕をイラつかせるような行動をしないでくれないか。さっさとシャワーを浴びてその情けない顔をどうにかしてくるんだね」
浴室を視線で示されて辰巳は腰を上げた。一晩中椅子に座って寝ていたせいか、躰が軋みを上げる。昨夜の醜態を忘れた訳ではなかったが、とりあえず今はフレデリックをこれ以上不機嫌にさせない方が得策だろうとそう思う。
ガシガシと頭を掻きながら先ずは一服とばかりに点けた煙草は、フレデリックの長い指先に掠め取られた。挙句咥え煙草で裸に剥かれ、浴室へと放り込まれる。勢いよく閉められたドアを見つめて辰巳は呟いた。
「マジかよ…」
鬼嫁。と、そんな言葉が辰巳の脳裏を過ぎる。ともあれ確かにフレデリックの言う通り、泣き腫らしたおかげで顔が重い気がした。情けないと思いながらも勢いよく出したシャワーの下に躰を曝す。顔を洗おうとして、辰巳はその手をピタリと目の前で止めた。
辰巳の左手の薬指には、黒いリングが嵌められていたのである。
「ッ!!?」
頭の中が真っ白になる。次の瞬間、辰巳はシャワーも出しっ放しに浴室のドアを開けた。そこには、腕を組んで洗面台に寄り掛かるフレデリックの姿があった。組んでいた左腕を持ち上げて、フレデリックが微笑む。その手には、しっかりと銀色の指輪が嵌っていた。
「I don't want to lose you. K to F」
「フレ…ッド…?」
「ただいま。辰巳」
フレデリックは濡れたままの辰巳の躰を抱き締めた。黒い髪からぽたぽたと水滴が滴り落ちる耳元に囁く。
「つらい思いをさせてしまってごめんね…でも、嬉しかった…」
「お前は…本当に心臓に悪ぃんだよ…このタコ」
「うん。ごめん…」
長い指先が濡れた頤を持ち上げて口付ける。辰巳の顔を間近に見たフレデリックは、クスリと笑った。
「男前が台無しだね」
「誰のせいだよ」
「僕のせい…かな。責任もって男前に戻すから許してくれる?」
ああ。と、そう短く応えた辰巳はフレデリックとシャワーを浴び直し、リビングのソファで無事煙草にありついたのだった。
フレデリックは、記憶を失くしていた間の出来事もしっかりと覚えているという。お前がいないと生きていけないと、そう言った辰巳の言葉はしっかり覚えられていた。
記憶喪失など他人を振り回しておいて浮かれまくるフレデリックを、辰巳が足蹴にした事は言うまでもない。
「怪我人を足蹴にするなんて酷いじゃないか」
「ああ? あんな高さから落ちて頭縫っただけで済むような奴が何言ってやがんだ」
「あれは結構痛かった…」
真顔で呟くフレデリックを辰巳は呆れた顔で見遣った。死ぬかと思ったと言うならまだしも、痛かったと、それで済んでしまう辺りがフレデリックの恐ろしいところだと思う辰巳である。
いい加減床に転がっているのにも飽きたのか、立ち上がったフレデリックはいつものように辰巳の左肩に寄り掛かると、だが不意に顔を顰めた。
「痛い…」
そう呟いて辰巳の右側に回り込むフレデリックの傷は、右の蟀谷の上に出来ていた。寄り掛かれば痛いのは当然の事である。その様子を見遣った辰巳が呆れたように呟く。
「馬鹿じゃねぇのかお前…」
「もっと罵って」
「お前…頭大丈夫か?」
頭の打ちどころが悪かったのではないかと本気で心配になって、辰巳はフレデリックの顔を覗き込んだ。にこりと微笑むフレデリックの顔は、いつもと変わらない。
だがどこか違和感を感じて辰巳は眉根を寄せた。指輪を見せられたその時から、微かに感じていた違和感が辰巳の中で明確な形を持つ。
辰巳はフレデリックの頬を両手で挟んで碧い瞳を覗き込んだ。
「おいフレッド。お前、本当に記憶全部戻ったのか?」
「うん? 僕は何か変な事を言った?」
フレデリックの言葉に、辰巳は舌打ちを響かせた。もし、きちんと記憶を取り戻しているのだとしたら、フレデリックは誤魔化さない。
「正直に話せ。全部じゃねぇだろう」
「参ったね…。キミを見ていると、僕よりも僕の事を知っているようで怖くなってくる」
辰巳は手を離した。煙草を点けて背凭れに寄り掛かりながら言い放つ。
「当然だろうが、欠けた記憶の分は俺の方がお前より知ってんだ」
「いったいその自信はどこから来るんだい? 辰巳。キミは昨日、本心は分からないと、そう言っていたと思うけれど」
フレデリックは、再び辰巳の右肩に寄り掛かった。その時、違和感を感じた原因に思い当たって辰巳は苦笑を漏らす。フレデリックは、辰巳の右肩に寄り掛かると慣れないせいか必ずすぐに頭の座りを直すのだ。それが、今日はなかった。それによくよく考えれば、フレデリックは同じ事で二度謝らない。
「本心なんか分かんなくったって、お前の習性くれぇは覚えてんだよ阿呆」
些細な事だが、辰巳がフレデリックの”違い”に気付くには十分だった。それでも、いくらかの記憶をフレデリックは取り戻している筈である。
「そんで? 結局お前はどれくらい記憶を取り戻したんだ?」
「どれくらいなのかすら自分でも分からないんだよ。キミの事は一応思い出したし、好きだった事もなんとなくは覚えてる。でも、どうしてそんな気持ちになったのかも分からないし、今キミを好きかと問われても僕は答えを持っていないんだ」
「はぁん? まあ、少しでも思い出したんなら良いんじゃねぇか? 何でもいいからそうやって素直に言え」
「ただ…泣いているキミを見るのはつらかった」
辰巳はフレデリックの肩を引き寄せた。
「つらい思いをさせて悪かった。もうあんな不甲斐ねぇところはみせねぇよ」
「うん…ありがとう辰巳」
記憶と心が比例する筈もないという事を、辰巳はこの時理解した。もしかしたら記憶を全て取り戻しても、今のフレデリックにとっては辰巳を好きになる理由がその中にないという可能性もあるのだ。それを思えばつらくない訳ではないが、完全に忘れられていない分だけ昨日よりも随分と心が軽くなった辰巳である。
傷に触れないよう髪を撫で梳きながら、辰巳は金色の頭に口付けを落とした。
「俺は、お前に対する態度を今までと変える気はねぇ。だから嫌だったら言え。お前も好きにすればいい」
「どうしてかな…キミを好きだと答えられないのに、何故か嫌じゃないんだ…」
「そりゃあ上出来だな。さっさと惚れちまえよ」
「ふふっ、キミを好きだった理由が少しだけ分かる気がするね。もっとキミを知りたくなる」
フレデリックはきっと、出会ってすぐの事は思い出していないのだろうと辰巳は思った。キミを知りたいと、フレデリックは十二年前辰巳にそう言ったのだ。忘れていても同じ言葉を使うなど、やはりフレデリックはフレデリックのままという事だろうか。記憶を取り戻した時にフレデリックがどんな思いになるのかと考えれば、今もそう悪くはない。
小さく喉の奥で笑う辰巳を、フレデリックは不思議そうに見上げた。
「嬉しそうだね?」
「ああ。お前に知りてぇって言われて、嬉しくねぇ筈がねぇよ」
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