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 どうやら自分の持ち物は既に確認済みらしいフレデリックは、ふっと小さく笑う辰巳に問いかけた。 「わかった。僕に恋人がいるという事だけは信じようか。それで、その相手がキミだと?」 「ああそうだ」 「僕を納得させるだけの何かがあるのかな。このカードには、キミの名前も何も書かれてはいないね? 辰巳一意」  やっと名前を呼んでくれたと思えばフルネームときて、困ったように笑いながら辰巳はポケットから小さな小箱と財布を抜き出した。箱をフレデリックの膝の上に放り投げて辰巳は財布を開くと、中から一枚の小さなカードを抜き出して差し出す。 「お前がそのカードをくれた時に俺がやった時計はもうないが、今お前が腕にしてる時計には同じGPSが入ってんぞ」 「GPS? 僕がそんなものを受け取る訳がない」 「じゃあそのカードは誰が書いたってんだ?」  言われてようやくカードを開いたフレデリックの目が見開かれる。カードには、手書きで書かれた二つの言葉が並んでいた。  ひとつは『時計、ありがとう。』もうひとつは『Je t'aime, Tatsumi. Frederic』 「自分の筆跡くらいは分かんだろう?」 「有り得ない…」 「有り得るからお前の目の前に俺がいんだろぅが」  くつくつと笑いながら、辰巳は煙草に火を点けた。記憶を無くしていても、やはりフレデリックが可愛く見えて仕方がない。吸うか? と、一本差し出せば、フレデリックの表情が僅かに硬くなるのが見て取れた。 「僕は煙草を吸わないよ」 「俺に隠す必要はねぇよ。そう多くはねぇが、たまに吸うだろお前」 「本当にキミは僕の恋人だとでも?」 「その指輪に彫ってある日にお前は俺にすべて明かしたんだ。メッセージも入ってるぜ?」  開けてみろよと、辰巳はそう言って顎をしゃくった。指輪には、フレデリックがマフィアであると辰巳に明かした日付と、それぞれにあてたメッセージ、そしてイニシャルが刻み込まれている。  まさかこんな事のために使うとは思わなかったが、今となってはフレデリックの我儘が役に立ったという訳だ。まあ、今辰巳の目の前にいるフレデリックからすれば、自分で自分の首を絞めたといったところだろうか。 「ブラックゴールドの方が俺んだ。つまりお前が俺にあてたメッセージってこった」  黒い指輪を摘み上げたフレデリックが内側を覗き込む。 「…Stay by my side forever.…F to K…」  小さく呟かれたフレデリックの言葉は、辰巳も初めて内容を知ったものだ。オーダーした時に、互いに何を書いたのか誕生日まで内緒にしておこうと言ったのもフレデリックである。  まさか記憶のないフレデリックの口から聞かされるとは思わなかったが、『ずっとそばにいて』というその言葉に辰巳は思わず微笑んだ。 「……信じられない…」 「日付を確認したきゃ、お前のボスに電話して聞いてみろ。アドルフに報告したのはその日だからな」 「父上も知ってるっていうのか?」 「当たり前だろうが。お前が俺んとこ嫁ぐっつって我儘通しにフランス行った帰りが今だ。お前は忘れてっかもしれねぇが、記憶失くす前のお前は新婚旅行だって喜んでたくれぇだよ」  ふるふると肩を震わせるフレデリックに、辰巳は愉しそうに笑う。記憶があろうがなかろうが、辰巳に態度を変える気はなかった。 「あとお前、この船のグリルの料理長に料理教えろって頼んでたからな?」 「馬鹿な!」 「おう、今のお前の方がまだ気が合うかもしんねぇな。新婚生活のためにイギリス着くまでに料理覚えるってお前が言い出した時は俺も阿呆かと思ったからよ」  信用できなければ携帯の発信履歴を見てみろと、そう言った辰巳にフレデリックは電話を取り出したが、その機能は落下の衝撃で失われてしまっていた。それにはまあ仕方ないかと、そう思う。 「イギリスか、日本に戻ってからでも新しいのを買ってやる。何かあれば俺の携帯使え」  まあでも自分で頼んだからにはしっかり教えてもらえと、そう言って辰巳はフレデリックの肩を叩いた。その手がしっかりと叩き落とされた事は言うまでもない。  辰巳の嫁としてのフレデリックの姿を全て知ったなら、今目の前にいるフレデリックはどんな反応をするのだろうかと、そんな事を思う。あまり混乱させるのも良くないのかもしれないが、辰巳に隠す気がない以上いずれ知れる事になるだろう。  誕生日のプレゼントに買った指輪を嵌めてやろうかと、そう言った辰巳はフレデリックに物凄い勢いで睨まれた。だがしかし、その顔には諦めと、困惑と、僅かな興味の色が浮かんでいたのである。辰巳には、それだけでよかった。  いつでも朗らかに笑っているフレデリックも辰巳は好きだが、欲求に忠実で本性を剥き出しにするフレデリックも好きである。相手がフレデリックである以上、辰巳が惚れた男に違いはないのだ。 「それにしてもお前、本当に頭以外に怪我はねぇのかよ?」 「ない」 「あの高さから落ちてよくそれだけで済んだもんだな。上から覗いた時は心臓止まるかと思ったっつぅんだよ」  包帯の巻かれた金色の頭を撫でようと辰巳は腕を伸ばしたが、届く前に叩き落とされた。どうやら触れさせてくれる気はないらしい。じろりと睨まれて辰巳が肩を竦めれば、フレデリックは小さな溜息を吐いて俯いた。 「ひとつ、聞いてもいいかな」 「あん?」 「キミが僕の恋人だと信じるとして、キミは僕をどこまで知っているんだい?」 「さあ? お前の本心は俺にも分かんねぇな」  ふぅん…と、小さく相槌を打って俯いたまま黙り込むフレデリックの様子を、辰巳は背凭れに腕をかけたまま穏やかな表情で眺めていた。  甲板から覗き込んだ時は本当に心臓が止まるかと思った辰巳である。それが頭を縫って記憶を失くしてしまったとはいえ、こうして隣にいて話が出来るだけマシだと思う。  テーブルの上に置かれた小さな小箱と、その下に挟まれた二枚のカードが目に入る。そのすべてはフレデリック自身が残したものだ。クルーからのメッセージも、指輪のメッセージも、そして十二年前の手書きのメッセージも。  それがなかったら今目の前にいるフレデリックは、もしかしたら自分の前から姿を消してしまったかもしれないと思うとゾッとする辰巳である。こればかりはフレデリックの我儘に感謝せねばなるまい。  教会で指輪を受け取りたいとあれだけ騒いでいたくせに、記憶を失ってしまうなどどれだけ人騒がせなのかとそう思う。挙句にこの警戒心の強さだ。  髪も撫でさせてくれないのなら、抱き締めるなどもってのほかだろう。だが、惚れた相手を目の前に触れる事も出来ないのは、辰巳にはつら過ぎた。投げ飛ばされる前に一応聞いておくかと口を開く。 「なあフレッド…お前を抱き締めさせてくれ」 「キミは、いつもそうやって僕に断りを入れながら過ごしてきたという訳かい?」 「んな訳ねぇだろ。お前が人の手ぇ何度も叩き落とすから聞いてやってんだよ」  ドン…と、フレデリックの胸を辰巳は拳で叩いた。 「悔しいが、俺はお前に力じゃ敵わねぇ。無理矢理どうにかして怪我させられんのは俺としちゃあ構わねぇんだがな、俺が怪我すっと怒られんだよ」 「キミがもし、僕のものだというならそうかもしれないね。僕は自分の玩具を他人に壊されるのが許せない」 「その通りだ。お前の独占欲と執着心は半端じゃねぇからな。それを全部こっち向けられてんだ、断りくらい入れたくもなんだろう?」  なるほど。と、フレデリックが小さく呟く。するりと、フレデリックの長い指が辰巳の喉を撫でた。 「僕は、そこまでキミにご執心という訳かい?」 「跡取りの立場ほっぽり投げて日本に来ようって程度にはご執心なんじゃねぇのか?」 「ふふっ、本当に? 確かに、キミの顔も躰も僕の好みではあるけれど…何があったらそうなるのか興味があるね」 「本当にな。会って二度目に強姦した男だぜ? どこに惚れたんだお前」  くつくつと可笑しそうに辰巳が笑えば、フレデリックは目を見開いた。その指先に顎を捉えられる。探るように覗き込む碧い瞳を辰巳は見返した。  辰巳と会ってからの記憶がないというのなら、それまでのフレデリックは男に抱かれた事がない。なにせ本当に辰巳は二度目の逢瀬でフレデリックを無理矢理犯したのである。 「冗談だろう?」 「お前の躰に聞いてみろよ。抱くのも抱かれんのも、ついでに言うなら苦痛も大好きな変態だぜ?」  辰巳とフレデリックの関係は、元々オトモダチと言いながら性欲処理に近い。フレデリックは出会ったその日に興味を惹かれたようだが、辰巳には恋愛感情などまったくなかった。まあ、それも今となっては昔の話だが。  ともあれフレデリックの事である。正直なところ辰巳としては、躰を繋げたら記憶を取り戻すのではないかという予感があった。ただの勘だが。  だがしかし、辰巳の勘は記憶を失くす前のフレデリックも認めるところである。不確かではあるが、辰巳としては賭けてみる価値はあった。但し、今のフレデリックが許すかどうかが問題ではあるが。 「まあ、確かめたくなったらいつでも言えよ。俺はお前が相手なら、抱くのも抱かれるのも歓迎だからな」  瞳を覗き込んだまま動かずにいるフレデリックの唇を奪う。その瞬間、捉えられた顎がミシリと軋んだ。 「痛ぇよ」  辰巳が顔を顰めれば、クスクスとフレデリックの笑い声が耳に流れ込んできた。ついでに、冷たい声も。 「キミが僕のものだというのなら、他人に壊されるのは許せない。けれど、僕が壊すぶんには何の問題もないんだよ? ねえ、辰巳一意。あまりおイタが過ぎると僕はキミを壊したくなる。言っている意味は分かるね?」 「恋人を色っぽい目で煽っておいて言う事がそれかよ? だからお前は質が悪ぃっつぅんだ」 「そんなに顎を砕かれたいのかい?」 「フレッドよ。砕きてぇなら砕けばいい。俺はお前には殺されたって本音しか言わねぇって決めてっからな」  ギリギリと締め付けてくる指先に構わず、辰巳はニッと口角を上げる。それは辰巳の本心だった。それを確かめるためにフレデリックが顎を砕くと言うのなら、それはそれで構わない。骨を砕いたくらいで信じてもらえるなら安いものだとそう思う。  無感情な碧い瞳がじっと辰巳を見つめていた。変わらぬ強さで顎を捉えられたまま、辰巳が鼻で嗤う。 「どうした? 迷う事ぁねぇだろう。砕いたからには俺の言った事を信じねぇとは言わせねぇからよ」  すっ…と、フレデリックの指から力が抜けた。触れるだけになったその指先が、辰巳の顎を辿る。 「キミに興味はある。けれど、それは恋愛感情じゃない」 「今度は、会った頃とは逆って訳だ。そんで? お前は俺に触れさせてくれんのかよ?」 「嫌な時は遠慮なく断る事にするよ」  フレデリックらしい物言いに、辰巳は喉の奥で短く嗤った。  ゆっくりと伸ばした辰巳の腕が、叩き落とされる事なくフレデリックの肩を引き寄せる。僅かに眉根を寄せたフレデリックは、だが興味を浮かべた瞳で辰巳を見ていた。  包帯の巻かれた金色の頭を抱き寄せ、撫で梳きながら辰巳が囁く。 「フレッド…お前を失くさずに済んで良かった」 「忘れられているのに?」 「俺の事を覚えていようがいまいが、お前はお前だろうが。生きてりゃそれでいい」  クスリと、小さく笑ったフレデリックがどんな顔をしているのかは、辰巳には見えなかった。  いつまでこうしているつもりだと、そう言ったフレデリックに、嫌なら押し退けろと返した辰巳が即座に押し退けられたのは言うまでもない。まったくつれない嫁だと苦笑を漏らす。  やがて、朝のうちにフレデリックが頼んでおいたルームサービスが届けられた。スタッフの手で綺麗にセッティングされたテーブルを見たフレデリックは、広いテーブルに隣り合って並べられた食事を見て呆れたように肩を竦めてみせる。 「これも僕が頼んだという訳か…」 「ああ。イギリス出る時に言ってたな」 「いつもキミはどちらに座るんだい?」 「右だな」 「なるほど。キミは右利きという訳だ」  小さな溜め息を吐いて左側の席についたフレデリックが、テーブルに乗ったケーキの箱を視線で示す。 「これは?」 「そりゃあお前の好物だろうが」  誕生日だろう? と、そう辰巳が言えば、フレデリックはにこりと微笑んで箱を引き寄せた。蓋を取り去ってケーキを眺めるフレデリックに、辰巳は座りながら告げた。 「Le Bon Anniversaire Fred」 「Merci」  クスクスと笑いながらフランス語でさらりと返され、辰巳は小さく首を振った。さすがに甘いものを先に食べるつもりはないのか、フレデリックはケーキを一旦横に退けてカトラリーを優雅な仕草で持ち上げる。  二人で食事を摂る事など珍しくもないのに何故か辰巳が緊張してしまうのは、テーブルマナーにフレデリックが煩そうだからに他ならない。ふぅ…と小さく息を吐くと、フレデリックに首を傾げられた。 「どうかしたのかな?」 「いや、ガラにもなく緊張しちまってな」 「緊張? どうして?」 「お前がマナーにうるさそうだからだよ」 「キミは随分と僕に甘やかされていたのかな?」

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