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 だが、辰巳のそんな思いはデッキに響き渡った子供の泣き声にかき消された。男とは反対の側で転んだ子供が泣き声を上げて、フレデリックがそちらを見る。辰巳は走り出した。  フレッド。と、辰巳が名を呼ぶのと男の手がフレデリックに伸ばされるのは同時だった。一瞬揉み合うようにフレデリックと男が絡み合い、次の瞬間二人の姿が手摺の奥に消える。明らかに最初からフレデリックを巻き添えにするような動きだった。  落ちたのだと、そう把握するのに時間はかからなかった。目撃した幾人かの悲鳴がデッキに響き渡る。 「ッ!!」  辰巳はコーヒーを投げ捨てて手摺から下を覗き込んだ。倒れたフレデリックの上に男が乗っているのが見える。飛び降りられる高さではなかった。すぐさま踵を返し、走りながら携帯でマイケルを呼び出す。  コールが切れると同時に辰巳は用件だけを伝えた。 「左舷側の下甲板に救護を回してくれ、フレッドが落ちた」 『なっ!?』 「上層の甲板からだ。もうひとり男が一緒に落ちてる」 『わかった。すぐに手配する』  頼む。と、短く告げて電話を切る。辰巳が下甲板へと出たのは、フレデリックの落下地点から少し前方の扉だった。既に人だかりが出来ているのが見える。全力で走りながら辰巳は吠えた。 「退けッ!!」  日本語で放たれたその言葉は、だが気迫で意味は通じたようだった。人垣が割れた先にフレデリックの金色の頭が見える。金糸の髪が赤黒い体液で濡れているのが見えて、躰から血の気が引くのを辰巳は感じた。  僅かに眉間に皴を寄せて目を閉じたフレデリックの上に乗った男を持ち上げて横に退かせば、微かにフレデリックの眉が動いた。呼吸が止まっている訳でない事に安堵する。辰巳はすぐそばに膝をついた。 「フレッド!! 聞こえてんだろぅが! 返事しろフレッド!!」  辰巳が名を呼ぶその背後で、再び人垣が割れてメディカルスタッフが到着する。その場で脈拍を確認し、すぐさま担架に乗せられてメディカルセンターへと運ばれるフレデリックの後を辰巳は追った。  メディカルセンターには、マイケルとクリストファーの姿があった。どちらも沈痛な面持ちで辰巳を見る。口を開いたのは、クリストファーだった。 「何があった」 「男が…フレッド巻き添えにして飛び降りた」 「そいつは? 生きてるのか」 「知らねぇ。そのうち運ばれてくんじゃねぇのか」  辰巳の言葉通り、幾分か遅れて男は運び込まれた。既に息をしていない男の顔をクリストファーが確認する。 「死んでるがどうする」 「どうでもいい。俺はお前らとは違う」 「わかった」  そう言ったきり、クリストファーは黙った。  処置室の前で三人は立ち尽くしていた。誰も何も言わず、ただ時間だけが過ぎていく。  やがて処置室の扉が開いて出てきた医師は、命に別状はないと、そう告げた。意識も回復しているというその言葉に、辰巳は大きく息を吐いた。だが。 『ただ、記憶に欠落が生じているようです。恐らく一過性のものだと思われますが、特定の期間の記憶がありません』 『記憶喪失? 特定の期間ってのは、どの程度だ』 『定かではありませんが、話を聞く限りでは十年近く…と思われます』  身体上の怪我は頭部を数針縫った程度で、これ以上の処置はメディカルセンターでは不可能だと医師は言った。記憶喪失を除けば安静にしていれば問題はないという。  とりあえず話も出来ると言われ、辰巳はクリストファーとマイケルと共に処置室へと入った。中のベッドには、既に上体を起こしたフレデリックが座っている。その姿に辰巳は安堵した。  処置室へと入った三人を、フレデリックが見る。その顔には何の表情も浮かんではいなかった。そして、その口から吐き出された言葉は、医師から聞かされていたとしても辰巳には衝撃的なものだったのである。 『クリス。事情を説明して欲しいところだけれど、先ずはそちらの二人が誰なのか聞いてもいいかな』 「ッ!? フレッド…お前」  フレッドと、そう呼ぶ辰巳をフレデリックの冷えた視線が射抜く。その意味にいち早く気付いたのはクリストファーだった。 『辰巳、それとミシェル、お前たちは少し外に出ていろ。今のフレッドは、お前たちの知ってるフレッドじゃないかもしれん』 「どういう事だよ」 『いいから話は後だ。今は黙って言う事を聞け』  辰巳とマイケルは、食い下がる間もなくクリストファーに力づくで処置室から追い出された。閉まった扉を見つめて辰巳とマイケルは顔を見合わせる。 「マイク。お前、フレッドに初めて会ったのは何年前だ?」 『私は十年かそこらだ』 「俺まで知らねぇって事は、確実に十二年は記憶がねぇって事かよ…」  改めて現実を把握して辰巳は愕然とした。そもそも自分を忘れられているという事実が重すぎる。医師は一過性のものだと言ったが、最悪の場合、一生記憶を取り戻さない可能性もあるという事を辰巳は知っていた。 「嘘…だろう…?」  思わず、言葉が零れ落ちる。ついさっきまでフレデリックとふたりで部屋で寛いでいたというのに、今のフレデリックは辰巳の存在すら知らないのだ。今からやり直すには、十二年という年月は長すぎる。例えやり直したとしても、今と同じような関係に戻る保証もないのだ。  辰巳はポケットの中の小箱を握りしめた。どうしたらいいのか分からない。  唯一クリストファーだけが、記憶を無くしたフレデリックとの接点だった。辰巳とフレデリックの関係を良く知るクリストファーは、きっと悪いようには説明しないだろう。だが、フレデリックがそれを受け入れられるかと言われれば、まったく確証を持てない。  茫然と佇む辰巳の目の前に、マイケルが手を差し出した。その手には、ハンカチが乗っている。いつの間に涙など流していたのかさえ、辰巳は気付いていなかった。 「ッ…」 『まだ、記憶が戻らないと決まった訳じゃない。…何の保証にもならないが…。ただ、お前が諦めてしまったら、本当にそこで終わってしまう』  悪ぃ。と、そう言って辰巳はハンカチを受け取った。マイケルが小さく頷く。  マイケルが言う事は尤もだった。フレデリックが覚えていない以上、二人の過ごしてきた時間を知るのは辰巳しかいない。顔を洗ってくると、マイケルにそう言って辰巳はレストルームへと足を向けた。  白く消毒液の匂いに満ちた洗面台で顔を洗い、辰巳は鏡を覗き込んだ。途方に暮れたような男の顔が、ガラス越しにこちらを見ているようだった。  ――らしくねぇな。ガラでもねぇ。  ビシリと、鏡の中の顔がひび割れる。パラパラと小さな欠片を落としながら辰巳の大きな拳が離れたそこには、フレデリックが男前だとそう言った旦那様の顔があった。  忘れたというのなら、また惚れさせてやればいいと、そう思う。  辰巳が処置室の前に戻ると、マイケルの隣にクリストファーの姿があった。その表情は渋い。フレデリックは先に船室に帰ったという。本当に、身体的にはたいした怪我ではないようで安心する辰巳だ。  話があると、クリストファーは辰巳について来いと言った。ついでにマイケルを後で事情を話すと言って仕事に戻らせてしまう。  辰巳が案内されたのは、クリストファーの部屋だった。辰巳とフレデリックの宿泊しているような広い部屋ではないが、普通の船室と変わらぬそれに辰巳は驚きを隠せない。もっとこう、クルーの部屋は狭いものだと思っていたのだ。  それをクリストファーに言えば、ディーラーというのは腕次第で待遇が変わるのだと教えられた。なるほどと、そう思う辰巳である。以前フレデリックが、クリストファーの稼ぐチップの額は半端じゃないと言っていたのを思い出す。それを思えば、部屋にも納得できた。  まあ座れとソファをすすめられて辰巳が腰を落ち着けると、クリストファーは途中で寄った店から持ってきた袋からビールを取り出して寄越した。わざわざ辰巳のために買ってくれたのだろう。クリストファーは、酒を飲まない。  辰巳はありがたく受け取ると、開けた瓶に遠慮なく口をつけた。思ったよりも喉が渇いていたのか、一気に半分ほどを飲み干す辰巳にクリストファーが苦笑しながら口を開いた。 「とりあえずお前の事は説明してみたが、まったく信用してないなありゃあ」 「まあ、忘れちまってんなら当然だろうな」 「というか、前にも言ったと思うが、フレッドはお前と会うまでは誰かと深く付き合うような性格じゃなかった。その頃に、今は戻ってる」  ついでに言うのなら、人を人とも思わない性格だと、そうクリストファーは辰巳に言った。辰巳には俄かに信じられない事だが、クリストファーが嘘を吐く理由もない。 「初めて会った時でもそんな感じじゃあなかったんだがな…」 「お前たちがどこでどう知り合ったのかは知らんが、ただの気紛れじゃないのか?」 「まあいいや。何にしても俺のする事ぁ変わらねぇからよ」 「おいおい辰巳。お前、いつもみたいな扱いなんぞ今のフレッドにしたらあっさり殺されるぞ。気を付けろよ?」  呆れたように言うクリストファーに苦笑を漏らし、辰巳は確認しておきたい事を問いかけた。 「今のあいつの記憶は、もうこの船で働いてる頃のもんか?」 「ああ。一応そうだな。二十五の時からこの船には乗ってるが、話を聞く限りじゃあまだただの航海士の頃の記憶で止まってるようだ。ミシェルもいなかったし、自分がキャプテンだった事も覚えちゃいないようだ」 「なるほど。んじゃまあ、行ってみっか」  一応、クリストファーは現状までをフレデリックに説明してくれたらしい。辰巳が部屋に戻っても不審者として急に撃ち殺される事はないと、クリストファーはそう言った。随分物騒な話ではあるが、今のフレデリックの性格が、クリストファーの言うようなものであるのなら納得も出来る。辰巳は礼を言ってクリストファーの部屋を後にした。  通路を一人歩きながら、辰巳はポケットから小箱を取り出した。蓋を跳ね上げれば、そこには黒と白のふたつのリングが仲良く並んでいる。その表面を辰巳は武骨な指先で辿った。  せっかくフレデリック本人が楽しみにしていた誕生日だというのに、またしても残念な…というより、とんでもない事になってしまったものだと思う辰巳である。  フレデリックの記憶がすぐに戻るのが一番だが、期待はしない事にした。辰巳は不確定な何かに頼るだけなどまっぴら御免である。だからといって何か策があるのかと聞かれれば、何の策も辰巳は持っていなかったのだが。辰巳は、起きた事に対処は出来るが、先の事を考えるのが得意ではない。  辰巳はパチンと小箱の蓋を閉じて再びポケットの中に落とし込むと、フレデリックの待つ部屋の扉にその手をかけたのだった。  船室の扉を開けてリビングへと入った辰巳を出迎えたのは、フレデリックの冷たい視線だった。  いつもは並んで座るソファの中央に、脚を高く組んでフレデリックがその身を預けている。当然、おかえりなどという言葉もない。というよりも、辰巳が出会った当初のフレデリックとも、今目の前に座る男は別人のように見える。怪我は大丈夫かと問いかけても、返事すらない。  どうやらクリストファーの言っていた事は正しかったようだと、そう思えば辰巳は苦笑を漏らすしかなかった。 「なんつぅかまあ、俺はお前を良く知ってるつもりだが…今のお前を見てるとはじめましてって挨拶が一番しっくりくんな。なあフレッドよ」  無言で見つめてくるフレデリックの隣に辰巳は腰を下ろす。あからさまに隣に座られるのが気に喰わないといった表情のフレデリックに構う事なく、辰巳は口角を上げた。 「辰巳一意だ」  背凭れに左腕をかけてフレデリックに躰を向ける。まさしくふんぞり返るという表現がぴったりな態度のフレデリックは、僅かに首を傾けて辰巳を見た。警戒心が強い以上、目を逸らさない事だけは分かっている。  辰巳が名乗ったところで何も言わないフレデリックはきっと、クリストファーの言う通り目の前の男が恋人だというその関係が信じられないのだろう。だが、その目はしっかりと揃いの時計を捉えている筈だった。  先ずはそこから信じさせるのが手っ取り早いかと辰巳が考えていれば、不意にフレデリックの口が動く。その言葉はフランス語だ。英語ならまだしもフランス語となると困ってしまう辰巳である。日本語が理解出来る筈なのに合わせてもくれないつれない態度に、早々に挫けたくなりながらガシガシと頭を掻いた。  辰巳は困ったように眉根を寄せてフレデリックに首を振ってみせる。 「悪ぃなフレッド。英語は理解できるが、フランス語は無理だ」  ふっ…と、フレデリックが艶やかに笑う。その顔に浮かぶのは嘲るような色だが。 「キミが僕の恋人だなど信じられないと、そう言ったんだよ。子猫ちゃん」 「ははっ、お前…そういうところは変わんねぇのな」  子猫ちゃんと、嘲るように言うフレデリックに思わず伸ばした辰巳の手は、パシリと叩き落とされた。 「気安く僕に触れないでくれるかな。僕には恋人なんていない」 「んじゃあ、取り敢えず恋人がいる事だけは信じさせてやるよ」  そう言って辰巳はフレデリックの胸を指先でトン…とつついた。 「そこに、メッセージカードが入ってる。今朝ルームサービスと一緒にお前宛にこの船の家族たちから届けられたもんだ。内容は、お前の誕生日を祝う言葉と、お前と恋人に対するメッセージ」  フレデリックはゆったりとした動作で内ポケットに手を差し入れると、長い指で二つ折りのカードを摘まみ出した。だが、それは開かれる事もなくテーブルの上に放り投げられる。

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