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「やったらぶん殴るからな」
即座に拒否した辰巳がフレデリックをじろりと睨む。どうしてこう突拍子もない事を思い付くのか不思議でならない。内腿程度なら許せるが、至る所につけられるのなど御免被りたい辰巳だ。
「じゃあ明日教会に行ってくれたらやらない」
「しつけぇんだよ。あんま言ってっと本気で行かねぇぞてめぇ」
「っ!!」
がばりと、フレデリックは辰巳に抱きつく。その勢いに、押し倒されそうになった辰巳の手にはグラスがあった。取り落としはしなかったものの、勢いで揺れたグラスの縁から辰巳の胸へと中身が滴り落ちる。
「冷てぇんだよ阿呆」
「あ…」
「あ、じゃねぇだろこのタコ」
すぐさまタオルで辰巳の躰を拭くフレデリックである。嬉し過ぎて辰巳がグラスを持っている事さえ気付かなかったのは不覚だった。拭き終えた後で、フレデリックは思わず床に正座する。
「ごめんなさい…」
しゅんと項垂れるフレデリックの頭を、辰巳がペシッと引っ叩いた。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「でけぇ図体で飛びつくんじゃねぇよ。犬かお前は」
「嬉しくてつい…」
「行くとは言ってねぇからな」
「うう…」
せめてもの意思表示にフレデリックが辰巳の脚に縋りつけば、容赦なく足蹴にされた。旦那様の愛が痛いと、そう思うフレデリックである。
大袈裟に床に転がってみても何の心配もされないのはやはり体躯のせいだろうかと悲しんでいれば、立ち上がった辰巳にあっさりと跨ぎ越えられた。上から呆れたような辰巳の声が降ってくる。
「わざとらしく転がってんじゃねぇよこのタコ。さっさと服出しやがれ、腹が減った」
「嫁を足蹴にするなんて酷いじゃないか」
言いながらフレデリックが立ち上がれば、寝室の手前で立ち止まった辰巳に鼻で笑い飛ばされる。
「そんくらいで怪我するようなヤワな嫁を持った覚えはねぇよ」
「たまには心配してくれてもいいと思うんだけどな!」
「旦那投げ飛ばして言う台詞じゃねぇな」
くつくつと嗤いながら寝台の端に腰掛ける辰巳をフレデリックは押し倒して、がぶりとその首筋に噛みついた。
「痛ぇよ」
「愛情表現」
「犬か嫁かどっちかにしろ」
「僕は欲張りだからどっちも譲らない」
そういう意味じゃねぇだろう。と、呆れたように言う辰巳の唇を自らのそれで塞いで、フレデリックは躰を起こした。いい加減食事に行かないと辰巳の機嫌が悪くなる。気紛れな旦那様を持つ嫁は大変なのだ。
フレデリックは、クロゼットから適当な服を抜き出して辰巳に着させていく。タイを結び終えて上から下まで眺めまわせば、男前の旦那様が目の前にいる。それがフレデリックには何よりも幸せだった。
◇ ◆ ◇
翌朝。辰巳が目を覚ませば先に目覚めていたフレデリックが胸の上から顔を覗き込んでいた。おはようと、いつものように声をかけられて短く返す辰巳の唇に、フレデリックのそれが重なる。
普段と変わらない遣り取り。それなのに何故か辰巳は起き抜けから照れくさかった。理由はもちろん、フレデリックの誕生日だからである。
生まれてこの方、誰かの誕生日を祝った事など一度もない辰巳だ。だが、先日の自分の誕生日には、フレデリックは起き抜けにおめでとうと言っていた記憶がある。そんなものかと、胸の上へと戻ってしまったフレデリックを辰巳は手招いた。
「フレッドちょっと来い」
「うん?」
ごそりと躰を引き上げて同じ高さに視線を合わせるフレデリックに辰巳は口付けた。
「Bon Anniversaire」
「ッ!!」
誕生日おめでとう。と、フランス語で告げられた祝いの言葉に、フレデリックが辰巳に飛びついた事は言うまでもない。首筋に埋められたフレデリックの顔が熱いのは、辰巳にもしっかりとバレていた。
フランス語など話すことも出来ない辰巳ではあるが、偶然にもケーキを頼んだパティシエがフランス人だった。出来ればメッセージプレートをフランス語で頼みたいと言った辰巳に、発音を教えてくれたのである。
上手く発音出来ているのかどうかは定かではなかったが、フレデリックが喜んでいるならまあ伝わったのだろうと、そう思う辰巳だ。会話など意味が通じればそれでいい。
ともあれ喜んでるのは良いのだが、些か苦しい辰巳である。フレデリックの力は、結構強い。
「加減しろよお前、肋骨が折れる」
「あ…」
「ったく、朝っぱらから俺を絞め殺す気か?」
「だって辰巳があんな事を言うから…嬉しくてつい」
”つい”で肋骨を折られては堪らないと、そう辰巳が言えば、フレデリックはごめんと小さく謝った。素直な嫁は可愛いものである。金色の頭をくしゃくしゃと撫でて、辰巳は躰を起こした。
いつものように先に寝台を降りるフレデリックの足取りは、いつもよりも愉しそうである。
リビングでフレデリックの手から煙草を受け取った辰巳は、ソファから声をかけた。
「そういやフレッド、お前教会以外で何かしてぇ事あんのかよ?」
「辰巳にたくさん甘やかしてもらう予定かな」
「ああそうかよ…」
甘やかせと言われても、いまいちピンとこない辰巳である。そもそも普段からフレデリックのしたいようにさせている辰巳にとって、プレゼントや言葉以外に何か特別な事など思い浮かぶ筈もなかった。
コーヒーの入ったカップをテーブルに置いて肩に寄り掛かるフレデリックの頭を撫でる。とりあえず、何のトラブルもなく今日一日を過ごせればそれでいいかと、そんな事をぼんやりと思いながら辰巳は黒い液体をカップから啜った。
「辰巳にフランス語でお祝いされるとは思わなかったよ」
「一言くらいならどうにでもなんだろ」
「その一言が…僕にとってはとても嬉しいんだよ」
肩に寄り掛かりながら、辰巳を間近に見上げてフレデリックがありがとうと微笑んだ。
やはり何故か照れくさくなる辰巳である。普段からフレデリックは辰巳が何かすれば礼を言う。それで照れくさくなった事など一度もないというのに、どうしてこうも今日はこそばゆい感覚になるのか辰巳は不思議でならなかった。嫌な訳ではないが、どことなく恥ずかしい。
甘えるように大きな躰を寄せるフレデリックに飯はどうするのだと問いかければ、今日はもうすべてルームサービスをオーダーしてあるとの返事が返ってきた。相変わらず準備が良いというか、抜かりがない。
ならば部屋で一日中ゆっくりしようと辰巳が言えば、少しだけ拗ねた顔でフレデリックが見上げてくる。フレデリックが拗ねる理由などひとつしかなかった。教会だ。
「くくっ、拗ねんなよ。ちゃんと付き合ってやっから」
「辰巳っ!」
満面の笑みで抱きつくフレデリックに押し倒されて、辰巳はソファに寝転がった。多少位置をずらしてやれば、フレデリックが胸に金色の頭を乗せてくる。辰巳は髪を撫でながら問いかけた。
「で? いつ行くんだよ?」
「んー…今日は天気も良いし…午後に行きたいな。あそこは、昼間の方が綺麗だから。それと散歩がしたい」
「仰せのままに」
午後といっても、朝がゆっくりな二人にとってはそう先の事ではない。ダラダラと二人で戯れ合いながらシャワーを浴びて着替えれば、昼食が届けられた。
スタッフが丁寧にセッティングしたテーブルの上には、食事と共に一枚のメッセージカードが乗っている。二つ折りのそれをフレデリックが片手で開くと、中には『誕生日おめでとう』という言葉と『末永くお幸せに』と、そう英語で綴られていた。
どうやらフレデリックがマイケルに言った我儘は、クルーたちにも知らされているらしい。フレデリックの手元を横から覗き込んで、辰巳が困ったように眉根を寄せる。
「本当にお前は甘やかされてんな」
「僕の…最後の我儘だからね」
「そんな事言っていいのか? まだ二か月あんだぞ?」
最後と言うには早すぎるんじゃないのかと、そう辰巳が揶揄うように言えば、むっとした顔のフレデリックに睨まれる。カードを綺麗に二つ折りに戻して内ポケットに入れながら、フレデリックは腰を下ろした。
「キミは僕を我儘だって言うけれど、僕が家族たちにこんな我儘を言ったのは今年が初めてなんだよ」
「つまりは俺のためと、そういう事かよ?」
「僕のため。僕が辰巳と幸せな時間を過ごしたいから、これまで積み上げてきた貯金をはたいて家族に我儘を聞いてもらったという訳だね」
真面目に働いてきた証だと胸を張るフレデリックに、辰巳は頭を撫でてやった。ありがとうと、そう言って。
偉そうに言っておきながらもいざそう礼を言われるとやはり照れるものなのか、フレデリックの頬に僅かに朱が挿すのが分かって辰巳は苦笑を漏らした。どうやら妙に気恥ずかしいのは自分だけではないらしい事に安堵する辰巳である。
ふたりきりでゆっくりと食事をして、バルコニーで食後の紅茶を愉しむ。普段としている事は変わり映えがなくとも、その時間はいつもより幸福に満ちていた。
恥ずかしげもなくテーブルの上で絡ませた指を擽り合う。フレデリックの長い指先が、ふと辰巳の薬指を辿った。
「早くここに嵌った指輪を撫でたい…」
「今すぐ嵌めてやろうか?」
「キミは意地が悪いね」
拗ねたようにぎゅっと手を握られて、辰巳は困ったように肩を竦める。拗ねるにしては、力が強いフレデリックだ。
「指輪を嵌める前に骨が折れる」
「大丈夫。辰巳が意地悪を言わなければ…ね」
「おっかねぇ嫁だな」
「僕は甘やかされたいだけだよ」
半ば脅しのような気がしなくもない台詞をフレデリックは平然と言い放つ。だが、そんなところが可愛く見えてしまう辰巳なのだから、この二人はどうしようもなかった。
くだらない事を話し、ひとしきり笑い合ったあとで、辰巳が立ち上がる。右手を差し出せば、フレデリックが嬉しそうにその手を掴んだ。勢い良く引き寄せて抱き締める。自分よりも僅かに大きな嫁の躰を抱き締めて、辰巳は耳元に囁いた。
「先に言っとくが、誓いの言葉なんてもんを言いやがったらぶん殴るからな」
「っ…この態勢でそれを言うのは反則だよ辰巳」
「あん? 甘い言葉でも囁いてもらえると思ってたのかよ?」
「ちょっと…期待したのに」
残念だったな。と、そう言って辰巳はフレデリックの躰を離した。拗ねるフレデリックに構う事なく辰巳はリビングへ戻ると、テーブルの上に置かれたままだった小箱をポケットに落とし込んだ。
ぶつくさと何やら不満を漏らすフレデリックを振り返る。
「早くしねぇと気が変わるぞ」
「嫌だ!! どうしてそうキミは意地悪を言うのかな! 僕は甘やかして欲しいって言ってるのに!」
「お前のそういうところが可愛いからじゃねぇか?」
「ッ!!」
顔を赤くして口許を押さえるフレデリックに、辰巳はくつくつと愉し気に笑う。
飛びついたフレデリックが辰巳の首筋に噛みついた事は言うまでもなかった。
教会に行く前に散歩をしたいと言うフレデリックの申し出により、二人は上層の甲板を歩いていた。『Queen of the Seas』の甲板は幾つかの層に分かれているが、その中でも一番上層に位置する場所である。
下層の甲板とは違い広場のような趣のあるその場所には、スタンド式のコーヒーショップがあり、公園と言った感じに似つかわしく子供の姿も見られた。天気がいいからか、結構な人出がある。
散歩というよりは風に当たりながら海を眺めるのに最適なそこで、辰巳とフレデリックは腰程までの高さの手摺に並んで寄り掛かっていた。晴れ渡る空の下に広がる海は、とても穏やかだ。
「どの辺に居るんだか見当すらつかねぇな…」
見渡す限り広がる大海原に思わず辰巳が呟けば、フレデリックがクスリと笑った。
「正確な位置は分からないけど、そろそろシンガポールだね。もう少し行くと、リアウ諸島が見えてくる筈だよ」
「何も見なくても分かんのかよ?」
「スケジュールは把握しているからね。次の寄港地が分かっていればだいたいは分かるだろう?」
さすがにスケジュールも分からず、何も見ずに答えろと言われたら無理だと、そう言ってフレデリックが笑う。確かに言われてみればその通りなのだが、辰巳は次の寄港地すらまったく意識していない。
世界一周と言いながら、日本以外に船を降りもしないひきこもりな二人である。
喉が渇いたと甘えるように言うフレデリックに、辰巳は『仰せのままに』と、笑いながらそう言って踵を返した。
広いデッキを横切ってコーヒースタンドへと向かう。アイスコーヒーを二つ受け取り、辰巳が振り返った時だった。フレデリックの背後に、妙に気を惹く男が近寄っていく。嫌な予感が辰巳の全身を包んだ。気付いているだろうかと、そう思う。フレデリックは、辰巳などより余程周囲を見ている。
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