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「僕を年寄り扱いした罰として、少しだけキミと遊んであげるよ辰巳」
圧し掛かるように関節をきめようとするフレデリックの腕を、辰巳が掻い潜る。腕や脚を取られないようにするだけで精一杯の辰巳に、クスリとフレデリックが笑った。
「そろそろ本気で行くよ?」
言い終わると同時に腕を掴まれ、捻り上げられそうになって辰巳が躰を捩る。だが、それはあっという間にフレデリックの膝に阻止された。躰を逃がせる場所もなく寝台に押し付けられ、腕を捻り上げられる。
捉えられていない方の腕は、起き上がろうと寝台について肘が上がっていたが、少しでも躰を浮かせようものなら逆に痛みが増すのは分かりきっていた。しかも腕を戻そうにも戻すゆとりさえない。さすがに、辰巳の口から呻きが漏れた。
「痛ってぇ…」
「辰巳? ごめんなさいは?」
「っ…悪かった…」
「駄目。ちゃんとごめんなさいって言って?」
妙に愉しそうに言うフレデリックに、辰巳が顔を顰める。その間もギリギリと関節を締め上げられて、辰巳は痛みに全身を強張らせた。片腕を犠牲にして抜け出そうかと、そんな考えが一瞬頭を過ぎる。だが、そんな事をしたらフレデリックは確実に怒り狂うだろう。
勝ち目のない勝負に犠牲を払うなど馬鹿げている。しかも身内相手にそんな意地を張ろうものなら、罵られる事は目に見えているようなものだ。悔しくはあるものの、辰巳は大人しく口を開くしかなかった。
「ッ……ごめんなさい…」
「もう言わない?」
「言わねぇ…」
「ふふっ、良く出来ました」
ふっ…と躰の拘束がなくなって、辰巳はぐったりと寝台に沈んだ。勝てる気がしない。
うつ伏せのまま動こうとしない辰巳の頭をフレデリックが撫でる。
「よく…無理に抜け出そうとしなかったね…」
「お前を本気で怒らしてどうすんだ」
「考えた癖に」
クスクスと笑うフレデリックは、辰巳の考える事など大抵見通している。辰巳はごろりと仰向けにひっくり返ると、フレデリックの長い脚に頭を乗せた。変わらず髪を撫でるフレデリックを見上げる。
「まったく、うちの嫁はおっかねぇな」
「旦那様を上手く掌で転がすのも嫁のお仕事だよ」
さらりと言ってのけるフレデリックに、辰巳は小さく笑って目を閉じた。フレデリックの膝にこうして頭を乗せていると、辰巳は安心して眠くなる。
やがて規則的な寝息をたてはじめる辰巳が再び目を覚ますまで、その髪をただただ撫でる時間がフレデリックは好きだった。自分の腕の中で安らぎを得てくれる男は辰巳しかいないのだ。信じ切ってすべてを預けてくれる辰巳は愛おしい。
小一時間程で、辰巳は意識を眠りの底から浮上させた。髪を撫で梳かれる感覚がはっきりと認識できるようになって、辰巳はようやく目を開ける。穏やかな表情のまま手を動かすフレデリックが黒い瞳に映り込んだ。
「おはよう」
「ああ」
「食事はできそうかい?」
その前に風呂だ。と、そう言って躰を起こす辰巳が脱衣所を通り過ぎてリビングへ向かうのを見遣り、フレデリックは浴室へと入った。湯船に湯を張るためだ。
基本的にはシャワーで済ませてしまう事の多い二人だが、辰巳はたまに湯船に浸かりたいと言う。そういう言葉を聞くと、やはり日本人というのは風呂が好きなのかとそう思うフレデリックである。
脱衣場で濡れた手を拭きながら、フレデリックは日本に帰ったら購入すると決めているマンションの間取りを考える。やはり風呂は広い方がいいだろうと、そう思う。辰巳とフレデリックが二人で浸かれる浴槽を備えたマンションなど果たしてあるだろうかと考えて、フレデリックはその動きを止めた。
あるにはあるだろうと、そう思いはするが、かなり限られるのではなかろうか。職場と辰巳の本宅、それに辰巳の事務所の所在地を考えるとなると、そう悠長に構えていられない気がするフレデリックである。
サウサンプトンに着くまでに何とかしなければならない。
ソファで煙草を吸う辰巳の横をすり抜けて、カウンターに置いたままの携帯電話をフレデリックは取り上げた。即座にアドレスから引っ張り出した番号へと発信する。その様子を、辰巳が珍しいものを眺めるような顔で見ていた。
数コールで繋がった回線に、フレデリックは穏やかな声で挨拶をして用件を切り出す。日本語で交わされる遣り取りは辰巳の耳にも入っているだろうが、そんな事はどうでもよかった。
辰巳の本宅の場所は相手も分かっている。その付近で間取りと浴室の希望を伝え、マンションの下見を頼む。価格帯の問いかけに、どうでもいいと答えるフレデリックに、相手は呆れたように笑って探しておくと了承して通話を終えた。
携帯を再びカウンターに置いて振り返れば、辰巳が呆れたような顔でフレデリックを見ていた。
「お前…本気でマンション買う気かよ」
「無論だね。僕は辰巳に触れられない生活なんて考えられない」
「そりゃあ構わねぇが、お前飯どうするつもりだ?」
ピタリと、フレデリックの動きが止まる。そう。フレデリックは料理だけは出来ないのである。もちろん、辰巳が出来る筈もない。正直な話、フレデリックも炊飯器など触った事もないのである。
だからといって使えない訳ではないだろうと、そう思うフレデリックだ。要は覚えればいいのである。料理にしてもそうだ。出来ないのなら習えばいい。
「日本に帰ったら僕は料理を習う」
「あぁん?」
「それまでは本宅で済ませるか外食で我慢してくれるかい? 辰巳…」
「いや、お前そりゃあ無理だろぅが。外食は構わねぇがよ、習うったって時間がねぇだろう。専業主婦でもあるまいし」
あっさりと辰巳が言えば、フレデリックは黙るしかなかった。部屋を沈黙が支配する。黙りこくってしまったフレデリックに、辰巳は笑い声をあげた。
「ばぁか。冗談だ。そんなに本気で固まんじゃねぇよ。まあ、休みの日にでも習うってんなら止めねぇよ。お前の手料理も食ってみてぇしな」
手料理という響きに、フレデリックがハッとなった事は言うまでもない。辰巳に食べてみたいと言われているのに出来ないなど嫁として失格ではなかろうかと、そう思う。日本に帰ってから習うなんて考えは悠長過ぎたのだ。
フレデリックは再び携帯電話を取り上げると、アドレスから一件の番号を呼び出した。相手は、この船のグリルで料理長を務める男である。船がサウサンプトンに着くまでに料理を教えてくれとフレデリックが言えば、二つ返事で引き受けてくれた。
幸い、船室のキッチンには調理器具も揃っている。二か月の間にフレデリックは出来得る限りの料理を覚えようとそう思う。愛する旦那様のために。
準備は整ったとばかりに携帯をカウンターに勢いよく置いたフレデリックに、辰巳は額に手を遣って項垂れた。どうやら自分は余計な事を言ったらしいと、辰巳が気付くのには十分な会話だ。
「お前は本当に思考が歪んでるよな…」
「そうかな」
「まあ…好きにしろ…」
思えば出会ってすぐにGPSを内蔵した腕時計を渡した時も、嫌がるどころか喜んで受け取るような男である。フレデリックの思考回路は、辰巳のそれとも違う方向を向いている事にもっと早く気付くべきだったと後悔したところで遅かった。
「辰巳との新婚生活のためなら料理くらい覚えてみせる!」
「ああ…そうかよ…。俺はお前の愛が重てぇよ…」
「僕の愛にやっと気付いてくれたかい?」
「そうじゃねぇよ阿呆」
何の相談もなくあれこれと話を進めていくフレデリックに、辰巳が逆らう事など出来はしなかった。というより、フレデリックが決めたのならそれに付き合う覚悟は出来ているというべきか。嫁の我儘を聞いてやるのも旦那の仕事だと…思いはするが些か嫁がパワフルすぎる夫婦である。
ともあれフレデリックが楽しそうなのでまあいいかと、そう思っていれば浴室から音が聞こえてきて湯が溜まった事が知れた。
メラメラとやる気を漲らせているフレデリックを放置して辰巳は脱衣所へと向かう。辰巳はさっさと服を脱ぎ捨てると、浴室へとひとりで入った。シャワーで躰を流して湯船に浸かる。どうしてフレデリックが急にマンションの下見だ何だと動き出したのか、辰巳にはさっぱり分からなかった。
久し振りの風呂はやはり気持ちが良いと両手で掬い上げた湯で顔を洗っていれば、フレデリックが遅れて入ってくる。四十近いとはとても思えない躰だと、そう思う。
辰巳とて躰にたるんでいる場所など未だひとつもないが、気を抜くとつい眺めてしまう程度にはフレデリックの躰は無駄がなくて綺麗だ。ぼんやりと髪を洗うフレデリックを眺めていれば、不意に振り向かれた。
「ねえ辰巳?」
「あん?」
「明日…キミと行きたい場所があるんだ」
「教会以外なら行ってやる」
ピタリと、フレデリックの手が止まるのが辰巳にもはっきりと見えた。やはりそうかと苦笑が漏れる辰巳である。
前回のクルーズで辰巳とフレデリックは一度、諸事情があって船上にある教会へと行った事があった。その帰りに、二人だけで結婚式がしたいとフレデリックは言ったのだ。それを、辰巳はしっかりと覚えていた。
あっさりと考えを看破されたフレデリックが、不満に満ちた声を上げる。
「どうしてキミはそういう意地悪を言うのかな!」
「先手打って何が悪ぃんだよ」
「誕生日くらい我儘を言いたい」
「はぁん? お前の我儘は年中だろうが」
部屋に戻ってきた時に、マイケルが愉しそうだった理由はこれだろうと辰巳は思う。きっとフレデリックの我儘の理由を知っているのだ。いつの間に呼び出したのかと呆れてしまう。
髪についた泡をさっぱり洗い流したフレデリックは、辰巳の元にやってくると膝を折った。湯船に浸かる辰巳の髪をそのまま洗い始める。
「どうしてウエディングバンドは良くて教会は駄目なのかな?」
「男二人であんなとこ行って何が面白れぇんだよ」
戦法を変える気になったのか、優し気に問いかけるフレデリックに、辰巳はだが容赦はなかった。ならばとばかりにフレデリックがストレートに打って出る。
「辰巳と二人きりで挙式がしたい」
「阿呆か」
「したい!」
わしわしと髪を掻き回すフレデリックに辰巳は苦笑を漏らした。
「ガキかお前は」
「僕をお嫁さんにしてくれるって言ったじゃないか」
「そういう意味じゃねぇだろうが」
髪を洗うフレデリックを、辰巳が呆れたように横目で見遣る。どちらにしてもフレデリックが駄々を捏ねるのは目に見えている辰巳だ。この男は一度言い出したらテコでも実行する。
だが、悪足掻きだとわかっていても、男二人で挙式など想像もできない辰巳だ。フレデリックはロマンチックだなどと言っていた気がするが、辰巳からすればまったく滑稽だろうとそう思う。
「指輪で我慢しろよお前…」
「僕は教会で指輪を受け取りたい!」
「あー…もうわかった。ならコイントスで勝負しようぜ。お前が勝ったら行ってやる」
「嫌だ!」
はっきりきっぱり言い切るフレデリックは、辰巳が頷くまでひたすらに髪を洗っていそうな雰囲気である。
これ以上湯に浸かっていたら逆上せてしまいそうな辰巳は諦めたように溜め息を吐いた。
「今日一日考えさせろ」
「……狡い…」
「じゃあ行かねぇ」
「嫌だっ!!」
「だったら考えさせろ」
今にも唸り出しそうな顔のフレデリックである。これは完全に引き下がるつもりなどないと、辰巳は内心で既に諦めていた。だが、そう簡単に首を縦に振ってやるつもりはないのだ。
ようやく泡を流し始めたフレデリックに小さな息を吐いて、辰巳は金色の頭を撫でた。まったく我儘な嫁で困ってしまうと、そう思う。
ともあれいい加減逆上せそうな気配に辰巳は立ち上がる。躰を洗うべくスポンジを泡立てるフレデリックを見遣りながら、辰巳は浴槽の縁に腰を下ろした。目の前に膝を折って躰を洗うフレデリックの首筋には、まだうっすらと鬱血が残っている。ガラにもない事をするのはもう慣れた辰巳である。
ふとそこに指先を伸ばせば、フレデリックが驚いたように辰巳を見上げた。
「辰巳?」
「もうすぐ消えるな」
「上書きしてくれてもいいんだよ?」
にこにこと笑いながら言うフレデリックに、辰巳は小さく首を振る。特に意味もなくつけたものに、上書きする必要性を見いだせなかった。自分以外に見向きもしないフレデリックに、印をつける意味などないのである。
「もう用はねぇよ」
「残念。僕は結構気に入ってたのになぁ…辰巳に俺のものだって言われてるみたいで」
「阿呆か。指輪で十分だろ」
あっさりと辰巳が言えば、フレデリックは泡を流し終えた内腿に唇を寄せた。きつく吸い上げられて辰巳が眉を顰める。フレデリックが顔を上げれば、辰巳の内腿には案の定しっかりと鬱血して痕がついていた。
「お前な…」
「これで辰巳は僕のものだね」
消えそうになったら上書きしてあげる。と、そう言うフレデリックに呆れたように首を振って、辰巳は立ち上がった。いくら湯に浸かっていなくとも長居し過ぎて暑かった。大雑把に水気を拭ってそのままソファに座り込む。
さして間を置かず浴室からあがったフレデリックは、キッチンにある冷蔵庫から冷えたビールをグラスに注いだ。空調の利いた部屋でもうっすらと水滴が浮かぶそれを、辰巳は一気に飲み干す。
「おかわりは?」
「いる」
再びグラスを差し出して、フレデリックは辰巳の躰に浮かぶ汗を拭った。甲斐甲斐しく辰巳の世話を焼くフレデリックの表情は、とても愉しそうだ。鎖骨の辺りをタオルで拭いながら、フレデリックはうっとりと呟いた。
「辰巳の躰中をキスマークで埋め尽くしたい」
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