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中編

 朧は鬼の里から追放された鬼だった。  人間を食うのが嫌で、のらりくらりと仲間の誘いを断っていた。ある時「人間臭い」と指摘され、時折人間の里へ行って人間に混じって生活していた事が露呈してしまった。  罰として角を折られ、妖力を失った身では、もはや鬼としても人間としても生きられない。そこで鬼の頭領は、せめてもの情けで狭間の守護をやるよう朧に命じた。  鬼の里と人間の里は本来交わらない。しかし時折ほんの少し繋がることがある。それは人間から見れば、鬱蒼とした山や森であったり、行灯の明かりが届かない常闇であったり、路地の先の賑やかな声であったり、使われなくなった蔵であったりする。そこから迷い込む人間を鬼はとって食う。  しかし鬼は人を食らわないとやがて妖力を失う為、それを待ってはいられない。それで二つの里の間に道を作った。鬼しか通れない道なのだが、やはり人間にはちょっとした冒険心をくすぐるものに見えるらしく、これに入り込むものがある。生きて鬼の里に辿り着けばよし、ほとんどは道から外れて落ちてしまう。  その落ちた先というのが、狭間というわけだ。  実のところ、狭間は守護が必要な場所ではない。元は何もない空間だったし、落ちてくるのは決まって死体だからだ。ところがいつの間にやら海や空が見えるようになり、とうとう島までできている。頭領曰く、狭間に落ちた人間の残留思念のようなものだろう、と。狭間はそれ以上何か作り出すことはなかったが、島が発生した事で一つ問題ができてしまった。  死体は島に落ちてくる。要は死体処理が必要になったのである。  そうして朧は島に溜まった死体を埋め、あるいは流し、狭間に留まっているであろう人間の魂が、故郷に帰れるよう祈った。  島での衣食住は、頭領が海や林を介して与えてくれるので、日々の生活に困ることはなかった。同じ事を繰り返す毎日に飽きてきても、島でやれることは山ほどあった。  しかし十年、二十年と経つうち、話す相手もなく、時折ある訪問は物言わぬ死体ばかりで、朧の毎日は気がどうかなってしまいそうな自分との戦いになっていった。  海に身を投げてみた。林で首を括ってみた。首と胴を切り離してみた。なにをやっても絶命することはなかった。与えられた命令を全うするまでは死ねないのだ。  それはあと一年か、十年か、それとも。陽も暦もない狭間では、知りようもない。  それでもいつかは終わる。それだけが朧の正気を保たせていた。  いいかげんで自殺行為もやめ、いつ終わるともわからないものを考えることをやめ、日々を怠惰に過ごしはじめた頃のことだ。島に人間が落ちてきた。  落ちてくる、と言っても実際は空から降ってきたりはしない。ある時前触れもなく、島のどこかに死体が発生するのだ。海から流れ着くこともある。今度は木の実を取りに来た林の、老木のウロで発見した。  やれやれ、どうせならもっと分かりやすいところにして欲しいね。  思いながら死体の腕を掴んだ。しかし、狭間に来て初めての感触に朧は一瞬恐怖し、掴んだ手を投げるように放した。衝撃で倒れた人間は、ウロから飛び出した半身を捩らせ、薄っすら目を開けて朧を見た。  暖かい。柔らかい。動いている。なんだこれは。まさか、生きているのか。  朧は背負っていた籠を放り投げ、しばらくすると動かなくなった泥だらけの人間の子どもを背負い小屋に走った。  小屋に入るなり布団を引っ張り出し、簀巻のように子供にぐるぐるに被せ、囲炉裏に炭を放り込む。井戸から水と、干していた手拭いを引っ掴んで、倒けつ転びつ子どもの元に戻る。乾いた泥でばりばりになっていた顔を拭いてやると、なんとも綺麗な顔をしている。  しばらく呆然と子どもの顔を見ていた。持ったままの手拭いから泥水が子供の顔にぽたりと落ちたところで、はっとして水滴を拭った。  とりあえず泥でぼろぼろになった着物を脱がせ、身体を拭いて自分の羽織を被せた。熱はないようだし、これ以上どうしていいかわからないもんで、目が覚めるまで側で様子を見ていることにした。  まだ十かそこらの子どもだ。狭間に落ちてくる割合は、子どもが多い。危険よりも好奇心が勝るのだろう。そこは鬼も人間も同じらしい。  朧は食べることも忘れ、囲炉裏で炭が弾ける音を子守歌に、やがてこっくりと眠ってしまった。  しばらくしてぐらぐらと頭が揺れるので、何事かと目を覚ますと、布団にくるまった子どもが朧を揺り起こしていた。  目が合うとにっこりと笑い、何やら喋りかけてくる。何と言っているのかよく聞き取れない。体はもう大丈夫なのかと聞くと、子どもも朧が何を言っているのかわからないようで、首を傾げきょとんとしている。  そうか、人間に化けていた時は、妖力によって人語を解していたのだ。それを失って久しい朧は、人語がわからないし、子どももまた、鬼の言葉など解るわけがなかった。  それから奇妙な同居生活が始まった。  頭領は見ているのかいないのか、子どもが落ちてきた日から食料が二人分とれるようになるし、布団や着物に必要なワタが林に大発生するしで、とりあえずここで面倒見ろとの事だと解釈した。  子どもははじめ、狭間の奇妙な景色に顔を青くしていたが、すぐに慣れたようであっけらかんとしていた。朧に対しては、折れた角や牙を物珍しそうに観察するだけで、警戒も恐怖もないようだった。  言葉も通じないのにどうしたものかと頭を抱えたが、うまくしたもので、身振り手振りで意思疎通が可能だった。  賢い子どもで、朧がやる事をどこかでじっと見ていて、島での仕事をすぐに覚えた。料理も縫い物も、軽々朧の腕を超えた。  毎日会話もなく、娯楽もなく、挙げ句死体が湧くような島での暮らしを、楽しんでいるように見えた。なぜかって、朧と目が合うと決まって満面の笑顔を見せるからだ。  そうして暮らしていくうちに、子どもが朝起きた時必ず朧に掛ける言葉に気がついた。 「おにいさん、おはよう」 「……オハヨウ」  朧が挨拶を返すと、朝餉の支度をしていた子どもは、驚愕して食器を取り落とした。次いで今までにないほどの笑顔で抱きついてきた。興奮して何やら喚いているが、あいにく挨拶しか理解できない。  たかが挨拶程度とはいえ、初めて会話が成り立ったことは、朧も嬉しかった。  それなりに日常会話ができるようになった頃には、子どもは青年にまで成長していた。 「おにいさん、おはよう。朝御飯できてるよ」 「……お前さん、その「おにいさん」ってのはいいかげんやめないかい」 「おにいさんが名前教えてくれないからでしょう」 「鬼の名前なんて聞くと、耳が腐って落ちるぞ」 「妖力がないなら、大丈夫だと思うけれど。それにもう何年ここにいると思ってるの。今更影響ないでしょう」 「それでもおれが嫌なんだ」  人間の里には、鬼の名を聞くと耳が腐り落ちて気が狂う、という言い伝えがある。そんなものは迷信だと子ども──青年は言うが、実際に鬼の里で名を聞かされ耳を落とした人間を、朧は山ほど見てきた。ただ食らえばいいものを「恐怖に染まった人間を食らう方が妖力が上がる」などとして弄ぶのだ。なんて浅ましいのだろう。  青年は、鬼が人間を食う事に対して「生きていく上で必要なことだから仕方がない。人間だって生き物を殺して糧にしているから同じことだ」と言ったが、朧はとてもそうは思えなかった。 「お前さん、帰りたいとは思わないのか」  帰りたい、と言われたところで帰し方もわからない。青年からそういった話題が出ることももなかったので、朧から触れることもしなかった。  とうとう、中年に差し掛かった青年──男は、隣で竿を揺らす朧に突然聞かれたのでしばらく呆けていた。 「思ったところで帰り方なんてわからないでしょう。僕はもう、人里よりここで生きた年数の方が長いから、今更帰りたいとは思わないよ。もうずっと昔に、父母の顔も忘れてしまったし」 「こんな異界で果ててしまうかもしれないのに」 「おにいさんに看取ってもらえるなら、それも幸せかもしれないよ。ただ……それよりも僕は、僕が死んだあと、おにいさんがまた一人になるかと思うと、それだけが心残りだ」  鬼は人間より遥かに寿命が長い。あと三十年もすれば彼は寿命によって臨終を迎えるだろう。そうして朧は一人になり、また十年、二十年と、長い生を憎みながら生きていくのだろう。  そうか、もうあと、三十年程度しか一緒に居られないのか。  しかし、別れは突然やってきた。三十年どころか、およそ三ヶ月ほど経ったある日の晩だった。  いつも、落ちてきた死体は朧が葬っていた。ところがその日、偶然男が山菜を採っているところで遭遇したのだ。そうと知らず素手で死体を触ってしまった男は、悪い病に罹ってしまった。  連日高熱が続き、食事もろくにできない。見る間に衰弱し、意識も混濁している。  朧にはどうすることもできなかった。島には、薬草一本生えない。 「どうして! どうしてだ頭領殿! 今まで生かしたくせに、どうして助けさせてくれない!」 「……おにいさん、もういいよ。きっと、僕の寿命なんだろう」 「おれは、おれにとって、お前さんは生きる支えなのだよ! お前さんを亡くしっちまったら、おれはこの先どうやって生きればいいんだい。もう、お前さんが落ちてくる前の暮らしなんざ忘れっちまった!」  毎日泣いた。体中の水分がなくなってしまうのではと思った。毎日毎日、人間に縋って泣く鬼を、男は淋しそうに見つめ、愛おしそうにその頭を撫でた。  自分より早く死ぬのは分かっている。分かっていた。けれどこんなに早く、それも病でだなどと、これっぽっちも考えていなかった。別れは、男が年老いてからか、さもなくば人間の里に帰る時なのだとばかり。  淋しい、悲しい、悔しい。鬼とは名ばかりで、何もできない。いっそ殺してくれ。この子が死んだらすぐに殺してくれ。

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