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後編

 およそまる一日眠っていた男は、何かに急かされた気がして目を覚ました。不思議なことに、この数日意識を保つのがやっとだった程の苦しみが、今はない。そうか、その時が来たのか、と、男は悟った。  腹が重いので頭を起こしてみると、泣きつかれた鬼が眠っている。 「おにいさん、起きて」  揺り起こされた朧は、血色の良い顔を見て思わず抱きしめた。 「お前さん、よくなったのか」 「いいや、そろそろお迎えが来るんじゃないかな」  血色がよく見えたのは囲炉裏の炎が反射して作っただけのものだった。弱々しく微笑む男は、よく見ればやはり血の気がない。 「……おにいさん、最期に、名前教えてよ。もう見た目、僕の方が年上なのに、おかしいでしょう」 「けれどおれは……お前さんが、狂って死んでいくのなんざ見たくない」 「だったら、おにいさんが僕を殺してよ。その手にかかるなら、僕は笑って死ねるから」 「そんなこと! できるわけない!」  しばらく、炭が弾ける音と、朧が啜り泣く声が小屋を満たした。やがて半身起き上がらせていた男がばったりと倒れた。 「お願い……もうあんまり、時間、ないみたいだ。名前、知らないまま死にたくない……」  賭けだ。朧に妖力はない。だから影響はないかもしれない。けれど、「かもしれない」は信じられない。朧にはそんな危ない賭けに乗る勇気はなかった。  それでも、それでも男の望みを叶えたいと思った。  心臓はまばらに動き、喘鳴に同調して朧まで呼吸が苦しい。男の意に反して手足は震え、抑えてみれば冷たいばかりでとまらない。顔はいっそう青白く、動悸や喘鳴に反して穏やかな男の様子は、いよいよ終焉を予感させた。  男の、ああ、一度も名前を呼んでやらなかった。  望みを、最初で最期の望みを、叶えたいと思った。 「朧だ……おれは、朧と言う」 「朧……おにいさんに、よく似合ってる。かっこいいね……」  男はもう目も見えていないらしく、手探りで朧の顔をまさぐった。 「朧、僕はね、一目惚れだったんだよ。鬼のくせに優しくって、人間みたいで……孤独を恐れる朧を、ずっと支えていきたかった……まぁ、一番は、そのかっこいい顔だけど……なんて。だから、帰りたくなかったんだ。だから、帰り道はなかったんだろうね……」  焦点の合わない瞳で必死に朧を探し、そう呟いてから、朧の頬に触れていた手がどさりと落ちた。  男の耳は落ちなかった。気も狂わなかった。  それを確認する前に、死んでしまった。 「おま……葦! 葦!! あああ! 臆病な鬼で……ごめんよ……!」  かっこいいのはお前さんだ、ばかやろう。  男が死んで一晩。墓も作らず布団に入れたまま、朧は側に居た。今更、自分が男に多大な感情を持っていた事に気付いた。そして男もまた、同じ思いでいた。  いつもは風のように心身を駆け抜けていく時間も、この時ばかりは酷く緩やかに感じた。  男が落ちてきてから今まで。こんなに満たされた時はなかった。狭間に来てからだけでなく、生きてきた上で、一度も。  いつしか男は朧の全てになっていた。朝起きて、土間で朝餉の支度をする男の背中に安心するようになった。突然、人間の里に帰るのではないかと、幸せと同じ量の不安を感じていた。それでも、男が「おにいさん」と呼べば、すぐに安心していた。  はじめは、親が子を想うようなものだと感じていた。しかし、男が成長するうち、それとは違うものだと確信した。  朧は男を愛していた。逞しい背中に、安心を感じていた。その背に無性に飛びつきたくなることもあった。なにより男は、暖かかった。肌を重ね合わせたい衝動は、孤独な時が長すぎた為、生き物の温もりを感じたいがだけのものなのだと、圧し殺していた。  すべては気付くのが遅かった。朧は生きる意味を、失ってしまった。 「……葦、知っているか。鬼の頭領の一族にだけ伝わる、秘術があるのだよ……」  男の死体に話しかけた朧は、鬼にとっても、人間にとっても、最大の禁忌を犯してしまった。 「なに、なに、禁忌って。うわぁ、鳥肌立ってるよ。ねぇ、子どもの名前が僕と同じなのは、物語を盛り上げる為の演出?」  一人語りをしていた朧は、間近から幼い声が聞こえて現実に戻ってきた。 「ああ……そうだ。その方が話に入り込みやすいだろう」  耳の裏で聞こえていた男の声が、急に遠くに去っていった。そう、もう、遠い思い出なのだ。 「それで、朧は何をしたの。禁忌って何?」  ここで朧の思考は再び過去に戻る。この一人語りは、朧の昔にあったことなのだ。朧と、男以外には、誰も穢すことのできない、朧の大切な思い出と、忘れてはいけない罪の記憶。しかし、「忘れる程の遠い昔」なんてのは、人間にとっちゃ「昔々、あるところに」と同じものだろう。葦は御伽話でも聞くように目を輝かせている。  朧は男を葬らなかった。  鬼は人間を食らう。しかし、鬼が食らう事が出来るのは、肉だけではなかった。  鬼の頭領の一族にだけ伝わる秘術。人間の魂を食らう術。それは誰も幸せにならない、昔々の鬼が生み出した悲しい秘術。  朧は、先祖の悲劇を繰り返した。異界の狭間で、誰にも知られずひっそりと。  男は息を吹き返した。しかし、狭間に落ちて来てからの数十年のことはすっかり記憶から抜け落ちていた。朧が声をかけても反応がなく、その日はずっと、ぼんやりしていた。そして翌日にはなんの前触れもなく、人間の里に帰ってしまった。  そうして、数年に一度、当時溺れた沼を通って、狭間に落ちてくるようになった。何度も何度も、狭間に落ちては朧に笑いかけ、自己紹介をし、幸せそうに帰っていった。  子どもの姿のまま。何度も、落ちては帰った。  男は無限の時間を繰り返すようになった。朧は男を失った絶望から逃れたかった。秘術を使えばどうなるかは知っていたのに、男と共に生きたい欲求に勝てなかった。そうして、男の時間を奪ってしまった。男はもう、死ぬこともなければ、生きることもない。永久に、同じ時間を繰り返すだけの存在になってしまった。  そして、朧もまた、永久を生きる。人間を愛してしまったために、その魂を食らい、同化し、鬼でも人でもないものと化してしまった。もう、里では鬼が生きているかどうかもわからない。「お上の恵み」が尽きない間は、まだ里があるのだと思いたい。  しかし、朧自身、もうどこの時間を生きているのかわからない。男と同じように無限に時間を繰り返しているのか、秘術を生み出した鬼のように無限の命を得たのか、わからない。  どちらにせよ、そこに幸せなどありはしなかった。秘術を生み出した先祖──頭領の、朧の遠い遠い先祖は、幸せになるために秘術を生み出し、きっと今も、どこかで悲しみと後悔に埋もれ生きているのだろう。今の朧と同じように。  結果的には、朧はその手で男を殺したのだ。 「……悲しいね。ねえ、その子どもは今でもここに来るの」 「ああ、相変わらず泥だらけの汚い格好で来る」 「その子どもが来た時は、おにいさん嬉しいの? それともやっぱり、悲しい? 後悔する?」  葦は、半信半疑といった風で、物語の続きをせがむために朧に共感してみせる。  続きはあるにはある。しかし、この先はいつも繰り返しなのだ。同じ事を聞かれ、同じ事を答える。 「嬉しいよ。だからもうべったべたにあまやかすんだ」  葦は翌日、起きた頃には居なくなっていた。人間の里へ帰ったのだろう。   思えば、狭間に落ちてくる死体も随分減った。もう長いこと落ちてこない。人間の里から迷い込むものがなくなったのか、鬼の道が繋がる場所もなくなってしまったのか、それとも最早、鬼の里が滅びたのか。  朧にはもう、男──葦が来た時に必ず釣れる鯛が、頭領の意思なのか自分の意思なのかも分からないので、判断がつかない。  それでも断続的に葦は来る。忘れた頃、思い出した頃。とは言っても朧は葦のことを忘れることもないので、思い出すこともない。まるで、葦が「忘れないで」と言っているように思えるのだ。  例えいつしか、里の事も忘れ、ここがどこだかも忘れ、自分が何者なのかも忘れても、きっと葦のことは忘れないだろう。 「葦、もう来るなよ。お前さんがいちいち様子を見に来なくったって、おれは生きているし、お前さんの事を忘れたりなんかしないから」  朧は葦が現れた窯に火を入れた。長年放っていたので、酷い煤と臭いだ。 「忘れているのは、葦の方だろう……毎度お前さんの話を聞かせてやるのに、ちっとも思い出しやしないじゃあないか……」  初めて落ちて来た時だって、毎度のごとくとっとと帰っちまえば良かったんだ、ばかやろう。お前さんが来た時に、抱き締めて狭間に閉じ込めたくなる衝動を堪えて冷たくあしらうのが、ばかみたいじゃないか。  お前さんはいっつも沼から来るもんで、凍えているから、いつ来てもいいようにお前さんの着物を縫っているなんて、ばかみたいじゃないか。 「おれはこの世が終わるまで、あと何度葦に会うだろうか。そのうち一度でも、葦はおれを思い出すだろうか」  見上げた紫色の空は、なんの変化もなかった。  また一年、十年と経って、朧はウロやあなぐらを覗いて周る。(しばしば)、沼で溺れて狭間に落ちて来る葦が、凍えて震えていないか、心配になるのだ。                 終

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