116 / 116

番外編2:Theobroma エピローグのその後

赤道直下にあるその島まで足を運んだのは、どうしても顔を見たい相手がいたからだ。 ユァン――以前聖クリスピアヌスにいた修道士だ。 彼がルカの目の前から消えて、もう一年になる。 島はさぞかし暑いんだろうと思っていたが、 上陸してみるとカラリとした風が吹いていた。 夏の都会のコンクリートジャングルに比べたら、むしろ涼やかな方だ。 今日がそれほど暑くない日なのかもしれないけれど……。 港で油くさいフェリーを下り、島の教会を訪ねていく。 とはいえ現地の言葉はわからないから、ユァンから送られてきた絵はがきの住所が頼りだった。 「おい、そこのちびっこ! ここに書いてある教会の場所を教えてくれよ」 暇そうな何人かに身振り手振りで示した。 が、そもそも彼らは英語が読めないみたいだ。 「どうする俺!?」 港の前に広がる商店街で山羊を見つけ、ついて行ってみる。 ユァンの山羊かと思ったが、この辺じゃ山羊や羊は普通にウロウロしているようだった。 他に牛やアヒルや、名前のわからない派手な鳥もいる。 「英語がわかりそうなやつを探すしかないのか……」 ルカがため息をついた時。 「バルト、食べちゃダメだよ! それは売り物なんだから!」 聞き覚えのある声が聞こえてきた。 振り返ると、八百屋の店先に突進しようとする山羊を、ユァンが押しとどめていた。 「ユァン?」 「……ルカ!?」 白いローブを着たユァンが駆けてきて、ルカはいきなり抱きしめられる。 「会いたかった」 今度は耳元でユァンの声を聞いた。 野菜を狙っていた山羊も、何事かとこっちへやってくる。 会いたいのは自分だけじゃなかったのか。そう思ったら涙が出そうになってしまった。 * 「あいつは元気にしてるのか?」 島の教会に続く道を歩きながら、隣にいるユァンに問いかける。 「まさかそいつがあいつじゃないよな?」 ユァンの股にやたらまとわりついて歩く、焦げ茶色の若い山羊を顎で示した。 「バルトは元気にしてるよ。この子は去年ユキが産んだ子ヤギで“小さなバルト”」 「そうなのか」 “小さなバルト”が警戒するようにルカを見る。彼はユァンが自分のものだと主張しているみたいだった。 「可愛くないヤツ……」 「えっ、可愛いよ」 「どこが?」 「元気なところとか、甘えん坊なところとか」 ユァンは目尻を下げている。 「お前ってさ……」 「……?」 「本当に山羊が好きだよな」 「それは好きだけど……」 ルカが何を言わんとしているのか、ユァンにはわからないようだった。 「だからさ、山羊と暮らせればそれでいいと思ってるのかもしれないが……本当にあいつでよかったのか?」 ユァンは不思議そうにまばたきを繰り返す。 「バルトは優しいよ?」 「いや、俺も悪いやつじゃないと思う。けど、言葉もわからない国に連れてこられて、頼れる相手があいつひとりって……」 心細い思いをしているんじゃないかと、ルカは心配していた。 さっきのユァンの「会いたかった」が、どうしても胸に引っかかる。 何しろ相手はあのバルトロメオだ。自由奔放なふるまいで、ユァンを不安にさせてやいないか。 そして案の定……。 「あれ、バルトはいないの?」 牧草地に囲まれた島の教会に行くと、十歳くらいの女の子が、年下の子たちに絵本を読んで聞かせていた。 彼女曰く、先生は用事があると言って出ていってしまったらしい。 「どこに行ったんだろ……」 ユァンは困り顔で、彼女から読んでいた絵本を引き取る。 「じゃあ、僕が読んであげるからきみは座って」 片言の現地語で話し、ユァンが絵本の続きを読み始めた。 女の子の朗読のたどたどしさも、ユァンのそれも端から見た感じはどっこいどっこいだ。ただユァンが島へ来て一年ということを考えると、現地語が読めるというのはすごいことなのかもしれない。 子供が何か質問して、ユァンは優しい口調でそれに答えた。 教会での読み書き教室は和やかな空気に包まれている。 (問題はあいつだよな!) 子供向けの絵本を見ていても退屈なので、ルカはそっと後ろのドアから教会を出た。 バルトロメオを見つけたら苦情を言ってやろう。そんな思いで教会の周囲を見て回っていると、奇跡的に彼らしき姿が見つかる。 牧草地の先に広がる農園に、ドレッドヘアに修道服の男がいたのだ。独特の髪型のせいですぐに彼だとわかった。 「何やってるんだよ、アンタは!」 牧草地との境界を示す柵のところまで行って声をかけると、ナタを持ったバルトロメオが振り返った。 中途半端に持ち上げられたナタを見て、ルカは思わず後ずさる。 「何って、カカオの収穫」 「カカオ?」 確かに足下にある麻袋に、色づいたカカオの実がいくつも詰め込まれていた。 ここはカカオ畑だったのか。 「いや……なんで先生、授業やんねーでそんなことしてんだよ」 「それはまあ、いろいろと事情があってだな」 バルトロメオが後ろに視線を向ける。 少し離れた場所で現地の人らしき女性が、同じようにナタでカカオの実を摘んでいた。 「ま、まさかユァンやガキどもをほっぽって女と浮気とか!?」 「バカ、そんなわけがあるか」 バルトロメオは(あき)れ顔になる。 「そっちじゃなくて、向こうのちっこいのだ」 さらに奥へ目をやると、父親とおぼしき男と十歳くらいの子供が働いている姿があった。 「昼間子供を読み書き教室にやるよう交渉中」 「そのために手伝いをしてんのか?」 「農家に読み書きなんて必要ねーって人は多いんだよ」 島の修道士はそれだけ言うと、またナタをふるい始めた。 遠くで波の音がする。昼間の農園は静かだ。 バルトロメオが汗を拭った。 「なあ、一人一人の親を説得して教室に子供を集めてるのか? 布教活動の一環なのはわかるけどさ、労力に見合わないだろ」 ルカには彼の考えが理解できない。 「別に布教とかはどうでもよくて」 大きなカカオの実の側面に、バルトロメオがナタを振り下ろした。 「俺は子供が幸せな世界を目指してるんだ。ユァンのために」 「え……?」 「ほら」 皮を()いだカカオの中の、白い実の部分を寄越される。 「食えよ、美味いぞ」 「カカオって普通に食えるのか。っていうかコレ人んちの……」 ――バルト、食べちゃダメだよ、それは売り物なんだから! 一時間ほど前に聞いた、ユァンの言葉を思い出した。 「お前ってほんと無茶苦茶だよな」 ルカは白い実のひと粒を恐る恐る口に入れる。 「あれ、案外……」 「美味いだろ?」 「島にもこんな美味いものがあるんだな」 さっぱりした甘みと酸味が口の中に広がって消えた。 ルカは柵にもたれかかって空を見る。 「なあ、ユァンだけは幸せにしてくれよ。それが一生の、俺の想いだから」 初めて想いを口にできた気がした。 「頼まれなくても」 ナタをふるいながらバルトロメオが笑う。 「あのな、人が真面目に話してんのに。もうちょっといい返事できねえのかよ」 「憎まれ口はルカの専売特許だもんな」 「アンタほどじゃねーっつの!」 風に乗って子供たちの、朗読の声が聞こえてきた。 カカオの学名“Theobroma”は古代ギリシャ語で“神の食べ物”を意味するらしい。 豊かな未来がきっと、ここにある――。

ともだちにシェアしよう!