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【鬼神、瞬殺。KO勝利!】
スポーツ紙の1面に血まみれでリングに伏せる男と、その男を見下ろす男の写真に、そんな煽りが大きな文字で書かれている。
スポーツニュースやボクシング雑誌だけでなく、週刊誌や女性誌でも「ボクサー南田純平」のスーパーフェザー級日本タイトル連続14防衛KO勝利のニュースで持ちきりだった。
普段ボクシングを見ない層も名前を知っているという人は多い。
インタビューには殆ど応じず、見た目はさわやかでスポーツマンそのもの。しかしそのさわやかな外見とは打って変わって、鬼の形相でリングに上がる。
ボクシングファンやミーハー連中によれば『そのギャップもまたいい』のだそうで。
それでもボクシング関係者は口を揃えてこう言った。
「見た目は確かに整っているが、口を開けば暴言を吐く」
「リングに上がれば、途端にその凶暴性を剥き出しにする」
「南田と戦った選手はみんな壊れる。喰われた、と言うんだ」
「確かに強いが、スポーツマンシップの欠片もない」
「鬼神だなんだと言われてるが、あいつはただの狂犬だ」
エトセトラ、エトセトラ……。
『ああ、うるせえ。どうでもいい。だからなんだよ、その通りだ』
事実、世間が鬼神だなんだと言う南田純平こと俺は、さわやかなスポーツマンでもなんでもない。
俺はただ闘うことが大好きで、目の前のもの全てを潰したい衝動で動いている。練習も、その目的のためにしている手段に過ぎない。
しかし俺の欲求を満たすにしては、このボクシングという競技は足枷だ。
手しか使えない。こんなルールに守られた闘いは楽しくない。
本当はボクシングなんてやりたくない。誰が強いだとか、チャンピオンだとか、そんなのどうでもいい。
俺はただ完成された頑丈で脆い人間を破壊したいだけなのに、ボクシングでは満たされない。
でもボクシングという手段じゃないと、あいつが人間を破壊することを許してくれない。
だから俺はボクシングをしている。
俺を褒めるのはただひとり。あいつだけでいい。それ以外の評価はどうでもいいことだ。
俺は手にしていたスポーツ新聞を公園のごみ箱に捨ててまた走り出した。
もちろん練習は楽しい。中でも自分自身のからだを虐めぬく練習が大好きだ。
一日中、こうやって走って、筋力トレーニングをして、サンドバッグやミットを打つ。
心臓や肺が破裂しそうになるまで、自分の体を追い込む。
これだけは俺の意思でできることだ。練習はボクシングにおいて、俺の唯一の自我だ。
要は考え方だ。ボクシングは俺の破壊衝動を少しでも慰める……一種の自慰みたいなものだと思う。
そんなことを考えながら走っていると所属する青柳ジムへ帰りついた。
中へ入るとジム独特のいろんな人間の汗のにおいがする。
棚の上に置いていたスクイズボトルを手に取り水をひと口飲んだ。
からだを酷使した、ひとりきりの練習が終わった夕方17時。他のジムから、今日のスパーリングパートナーがやってきた。
俺よりも階級が上の奴ということしか知らない相手だ。そいつがウォームアップを終えるのを待つ。
「今日の相手、あれだれ?」
「えっと……村上ジムさんとこの、ミドル級の山田選手です」
アップが終わったらしい山田を確認しリングに上がる。
「知らねぇな」
「あっ南田さん、ヘッドギアです」
リング上で12オンスのスパーリング用グローブを装着しながら呟くと、練習生がヘッドギアを持ってきた。
「いらねぇ」
ヘッドギアを持ってやってきた練習生に、俺は拒否を伝える。
「で、でも今日のスパーの相手、南田さんより5階級も上ですよ! 怪我でもしたら」
「いらねぇって、言ってんだろうが」
反対側のグローブを着けながらジロっと練習生を睨みつけた。睨まれた練習生は何も言えず大人しく引き下がる。それでいい。
「み、南田選手、本当にヘッドギアを着けないんですか?」
俺の対角線上で準備をしていた山田が困惑の滲んだ声で尋ねてくる。こいつは分かってない。山田の言葉に俺は鼻で笑った。
「あんな邪魔なモン、俺は必要ねぇよ」
ニタァと笑ってやると、山田は不快そうに顔を歪めている。その顔が面白い。
「それよりアンタこそ、そのフワフワなグローブでいいのか? いいぜ、10オンスで来いよ」
「そ、そんな。俺だけ試合用で、だなんて」
「ハンデだよぉ、ハンデ」
そう吐き捨てて空調で乾燥した唇を舌で舐め、マウスピースを咥える。
山田がギリギリと奥歯を噛み締めながら14オンスのグローブを外し、自身のスポーツバッグの中から10オンスのグローブを取り出した。山田はグローブを付け替えリングへ戻る。
ヘッドギアの向こうから、山田は俺を睨みつけてくる。本気で来てもらわないと俺が面白くない。
ジムの中は空調の音と、俺がリングの上で飛び跳ねる音しか聞こえない。
「えっと、次のラウンドから始めます」
スポーツタイマーの近くにいる練習生が、自分がするわけでもないくせに緊張した顔で俺と山田に声をかけた。
開始まで残り20秒。リング上でマウスピースを咥えて時間が経つのを待っていると、あいつの気配を感じてジムの出入り口付近を見る。
ボクシングジムには似つかわしくない、運動とは無縁そうな男……青柳の姿をリングの上から見つけてほくそ笑んだ。
「あ、蓮さん! 買い出しお疲れ様です!」
俺の視線の先に青柳を見つけた練習生たちが次々と挨拶をする。
青柳は「お疲れ様」と返事をしながら買い物袋を受け付けのところへ置いて、まっすぐに俺のいるリングの側へやってきた。
それを確認して俺は青柳から視線を外し、対角線上の山田を見る。
ピピピッ、と甲高いデジタル音が鳴り、スポーツタイマーが第1ラウンド目の開始を告げる。
練習用のグローブとバンテージ越しというのが残念だ。拳に当たる他人の肉の感触を味わう。
『結局これもオナニーだな』
ブン、と振り下ろされてくる山田の拳は当たらない。ほんの少し後ろに下がれば拳は避けられる。
簡単なことだ。
相手の拳が当たる前に、自分の拳を軽く当てるだけでいいのだから。
3分が経つとタイマーがインターバルの時間を告げる。山田に背を向けて自分のコーナーへ戻っていくと青柳はまだそこにいた。
「純平くん、お疲れさま。昨日が試合だったのに、もうスパーしてるの?」
1分のインターバル中に青柳が話しかけてくる。
「よお、青柳ィ。たりめぇだろ。昨日のなんて試合したうちに入らねぇよ」
「今何%?」
「20%だ。てめぇが命令したんだろうがよ」
「うん、ちゃんと守ってえらいね。お利口さん」
青柳が許さない限り、俺はスパーリングで20%以上の力を出すことを禁じられている。
青柳は対角線上の相手を見ながら、「うーん」と考えるそぶりを見せたあと、俺ににこりと笑いかけた。
「昨日の試合も勝ったし、相手は他ジムの人かあ、だったら……60%でもいいよ」
「いいのかよ」
驚いた。たまの気まぐれでこうして俺への管理のひもが緩む。
「ヨシ」
そんな青柳の声とタイマーの音が同時に鳴った。
俺は舌でマウスピースと上あごの境目をなぞると、対角線上にいる山田まで一瞬で間合いを詰めた。
2ラウンド目、開始数秒。山田の頭をヘッドギア越しに最短距離で打ち抜く。
出した右拳を引くと同時に、山田は前のめりで倒れる。時間差で漂うアンモニアの臭いにわざと眉間にしわを寄せて不快感を周りに知らせる。
「汚えなぁ、クソが」
そう吐き捨てて青柳のいるコーナーへ戻り、リングを降りる。
「うーん、ちょっと見誤ったかなぁ。40%でよかったね」
そう言ってリング上で倒れた山田を介抱しバタバタとリングの掃除をする練習生を見ながら、青柳は優しく笑った。
青柳はいつもきれいに笑う。
俺がボクシングをする理由はこの青柳だ。
ボクシングをすれば青柳が俺を褒めてくれる。
「知るかよ」
グローブを外し、バンデージをほどいていく。
使い古してほんの少し黄ばんだ練習用の白色のバンデージがジムの黒い床に落ちる。それを青柳が拾い上げた。
「純平くん、もう練習終わりでしょう? 今日の夕飯何食べたい?」
「ラーメン」
「また? それ、好きだね」
「ああ、好きだ」
青柳が俺の返事に柔らかく笑う。
「シャワー、浴びておいでよ」
青柳に促され、俺はシャワー室へ向かった。
水色のタイルで囲まれたシャワー室は、ジムの備品の安っぽい石鹸のにおいがする。
レバーハンドルを捻ると頭から冷たい水が降り注ぐ。だんだんと水が温かくなり頬にお湯が伝うと、なんとなく昔のことを思い出した。
青柳とは中学時代からの付き合いだ。
青柳は優しい。
この世でただひとりだけ、俺に優しい人間だろう。
そもそも青柳みたいな人間は、本来であれば俺と関わることのない人種なはずだ。
正直鼻くそみたいに弱いのに、どうにも青柳から目が離せない。
俺の目の前で、いじめられていたあの時から。
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