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青柳の犬。別に不名誉なことじゃない。事実俺は青柳に褒められるためにボクシングをしているのだから。
ボクシングをしていたら青柳は俺のことを褒めてくれる。
自分以外の人間は鬱陶しい。いつも俺の邪魔をするから。
でも、青柳は特別だ。俺が心を許せるのは、青柳だけだ。
俺のほんのわずかに残っている優しさは、全部青柳にやろうと思うくらいには好きだ。
体についた泡を落とすと、レバーハンドルを捻りシャワーの湯を止めた。体を拭いてシャワー室を出る。
頭にタオルを乗せて濡れた髪を適当に拭く。ジムのロゴの入ったジャージを着て練習スペースへ戻ると、さっきまで汚れていたリングの上はきれいになっていた。もう別の練習生たちがスパーリングをしている。
「あ、南田さん、お疲れ様です。山田選手、ついさっきタクシーで帰りました」
「あっそぉー」
どうでもいい報告をくれた練習生へ適当に相づちを打ち、青柳を探した。
青柳は受付のところにいた。選手連中や練習生たちがその周りにハエのようにたかっている。
「吉井くんはもう少し塩分量を減らすことを心がけてみて。あとタンパク質は大目に」
「わかりました!」
「蓮さん! 俺試合決まったんで、また減量メニュー組んでください」
「うん。明後日には持ってくるね」
青柳は受付周りの掃除をしながら練習生たちに食事のアドバイスをしていた。
「蓮さん、南田さん以外の選手のマネージャーはしてくれないんですか?」
「ふふ、純平くんはうちのジムの出世頭だからね。特別なんだよ」
トクベツ。悪い気はしない。
俺に気が付いた、確かフライ級の選手だったかが「あ、」と声を出した。青柳がこちらを見て微笑む。
手をひらひらと振りながら青柳に「お待たせぇー」と心にもないことを言いながらジムの受付まで向かう。
「もう、純平くん、髪の毛まだ濡れてるよ?」
「うっせぇ。早く行こうぜ」
そう言ってハエたちから引き離すように、青柳の腕を掴んでジムを出た。
ひとり暮らしの俺の家へ帰る前に、ジム近くのスーパーへ歩いていく。
「新聞見た? 純平くん1面に大きく載ってたね」
「どうでもいい」
「え~。すっごくカッコよかったのに」
そう言って笑うと青柳は俺の数歩前を歩く。青柳の一つに束ねた栗色の髪がふわふわと揺れた。その後ろ姿について行く。
青柳が着ている薄手のネイビーのニットの袖が手の半分くらいを隠している。それもそうだ。あのニットは元々俺の服だ。俺の身長はライトフェザー級にしては大きめの178㎝ある。対して青柳は165㎝も無かったはずだ。
よく分からないが、青柳は俺の買った服を着たがる。とはいえ俺はジャージを着ていることの方が多いので、別に私服が減ろうがどうでもいい。
青柳がそうしたいなら、それでいい。
「痛っ」
そのままぼんやり歩いていると青柳のそんな声が聞こえた。
「気ィつけろや! コラ!」
青柳といかにも『ヤンチャ』をしてそうな男がぶつかったらしい。
「ごめんなさい」
困った顔で男に謝る青柳の肩を掴んで引き、俺の後ろにやる。
「ア? なんだテメー……っ?!」
青柳にぶつかってきた男を睨みつけた。
「テメェが気ぃつけろや、クソが」
男は真っ青な顔で「スンマセン」と謝って走って逃げていった。
ボクシングをしていて、こういう時に手が出せないのも足枷のひとつだと思う。
ボクシングさえしていなかったら、青柳にぶつかってきた男を殴り殺せていたのに。
そんなことを考えていたら青柳が俺の手を握ってきた。
「なんだよ」
「純平くん、手を出さないでえらかったね……いい子」
喉が鳴る。ドクドクとたくさん走った後みたいに全身の脈が響く。
「別に」
「じゃ、行こっか」
そうして青柳に手を引かれてスーパーの中へ入った。
インスタントの袋麺が陳列されているところで色んな種類のラーメンを眺める。いつもは醤油ラーメンを買うが、今日はとんこつラーメンのパッケージがやけに目を引いた。
「トッピングも買っちゃおうか。何がいい?」
「チャーシュー。あ、おい今日は」
「とんこつラーメンの気分、でしょ?」
そう言って青柳は黄色いパッケージのとんこつラーメンを手に取って買い物かごに入れた。
青柳は俺のことは何でも知っているみたいだ。
高くも安くもない2Kのマンションの1階に俺の家はある。
青柳が買った食材を冷蔵庫へ入れていく。ほぼ毎日この家に来るのだから一緒に住めばいいのにと思う。
それを青柳に言ったら、俺の顔が知れているからここには住まないと言った。ボクサーも人気商売だから、らしい。別に週刊誌でどうこう書かれても俺は気にしないのに。
「じゃあ作るね。ネギ、冷凍してるの、まだあったよね」
台所で鍋を出してラーメンを作る準備をしている。
俺は青柳の作るラーメンが好きだ。ただのインスタントの即席めんなのに、青柳が作ると美味しい。
でも今はラーメンよりも欲しいものがある。
「メシはあとでいい。褒めろよ、なあ。青柳ィ。俺まだ昨日の、もらってねぇ」
「うん。純平くん、おいで」
青柳は小さくて細い、そして軽い。俺は青柳に褒めてもらうため、青柳の前に跪いて、そのウエスト部分に腕を回して抱き着く。
青柳の薄っぺらな胴体に体重を預けると、青柳は弱々しい声で「重いよ」と言った。
青柳に比べると重いのは当たり前だ。それでも確かに試合が終わった今は試合前日に計量したときの58キロから、ナチュラルウェイトの64キロに戻っているだろう。
「試合、終わったからな」
元々過度な減量はしていないが、それでもナチュラルウェイトより落とした階級で試合をする。それが一番動きやすい俺の適正体重だからだ。
「試合、頑張ったね。純平くん、いい子、いい子。もう日本には純平くんに勝てる人はいないだろうね」
そう言って俺の頭を撫でてくる。昔から変わらない柔らかい手だった。
ふと、そろそろ許してくれるんじゃないかと思った。
青柳の親父の言う『結果』を俺は残している。
きっと青柳も認めてくれると思う。そしてまた、俺を褒めてくれるだろう。
「な、青柳。やっぱ俺さ、総合もやってみたい」
「総合って、なんのこと?」
ぴたりと俺の頭を撫でていた青柳の手が止まる。
「総合は、総合格闘技に決まってんだろ?」
「どうして?」
「どうしてって、なあ……わかるだろ? 手しか使えねぇんだ、ボクシングってのは」
「だから?」
「足枷のない状態で、俺はやりてえんだよ」
昔、同じことを青柳に言った。あの時俺は13歳だった。だからこれは10年越しの懇願になる。
「まあ別に、純平くんがそうしたいならいいよ」
優しい声に、俺は顔を上げて青柳を見る。青柳は笑っていた。
「でもさ」
そう口を開いた青柳の声音に、ぞわりと、いつかの時と同じ危険信号が体に走る。
「そうするともう、僕は純平くんのこと、捨てなきゃいけなくなるよ?」
「捨てる? リングの上で闘って、誰かを壊すのは同じじゃねえか! なんで俺は、お前に捨てらンなきゃいけねえんだよ!」
「当り前じゃない。だってそうすると純平くんは青柳ボクシングジムを辞めて、別の……総合格闘技のジムに所属することになるよね?」
ぞわり、ぞわりと、痛いくらいに危険信号が全身に駆け巡る。
「どうする? もし純平くんが総合格闘技をするとして、純平くんは誰からも指示をもらえなくなって、どうしたらいいか分からないまま、ひとりぼっちで生きていかないといけないんだよ?」
青柳が俺を捨てる。もう青柳に褒めてもらえない。
青柳は俺のことを好きだと言ってくれた。それは嘘だったのだろうか。
今立っているはずなのに、平衡感覚が失われていく。
「純平くんは、ひとりで生きていけるの?」
「壊すのは、どっちも同じだろ。なんで、俺は捨てられるんだ?」
問いに問いで返された青柳は優しく微笑んだまま「自由に、なりたい?」と俺に尋ねた。
青柳の言う自由が俺のことを捨てるという意味であれば、それは俺にとって死刑宣告のようなものだ。
「僕のこと、壊せば自由になるよ」
どうすればいいのか分からないでいると、青柳はそう続けた。
青柳を壊す。そんなことは考えもしなかった。
青柳のからだを頭のてっぺんから順番に見ていく。小さくて筋肉の感じられない細い体。
ボディを殴るか、頭を殴るか。
それもちょっとの力で。
きっと俺は青柳を、とんでもなく簡単に壊すことができるだろう。
……続きは本編でお楽しみください。……
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