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第六章『 春怪の解式 』 - 01 /03

       初日から落ち着きのない夜を経て迎えた翌朝。  僕は、あの狐たちに再び謝罪の言葉を貰った。  そんな彼らは、どうやら女将さんにこっぴどく叱られたらしい。  謝罪を述べてきた際の彼らの自慢の尾は、その先が床にぺったりとくっついていた。   僕は、そんな彼らを気の毒に思った。  だが、だからといってどうしてやる事もできないので、ただ、もう大丈夫ですからお気になさらず、とだけ答えた。  またその後、女将さんからもこれでもかと言わんばかりに頭を下げられてしまい、僕は一層慌ててしまった。  そして、そんな一連の事を経て、付喪神に言われた言葉を改めて思い出し、先生のお守りはいつ何時も手放さないと誓った。  今回の事は、彼らだけでなく、僕の“気”のせいでもあるのだ。  自分の体質を分かっているなら、自分で出来る事をするというのは、彼らを思うならこそ必要な事だ。  僕はそう思い、これ以上先生に迷惑をかけない為にも、これまで以上にお守りを肌身離さず持つようにした。  そして、そうしたお蔭か、その後の日々は特に怪とのトラブルもなく、研究の一環として京都の各所を巡ったり、旅館内の怪に研究への協力をしてもらったりと、非常に有意義な時間を過ごした。  そんな中、東京に戻るまで残り二日ほどとなったある日。  僕の心が大きく乱される出来事が起こった。  それは、京都に来てから五日目の夜のこと。  その晩僕は、酷い悪夢を見たのだった――。        ―第六章『春怪の解式』―   その夢を見たのは恐らく、その晩眠る前にとある事を考えてしまったのが原因だったのだろう。  僕はこの数日の間。  こんなにも先生と一緒に過ごしているにも関わらず、ついに先生の心を読み解く事は出来なかった。  僕は、その事実に落胆していた。  そして、そんな事から、これだけ一緒にいても先生の恋心が見出せないという事は、そんなものはそもそも存在しないのではないかとも考えるようになった。  またそこから更に、あの付喪神の言葉は、実は単なる僕への励ましだったのではないかとも思うようになり、その結果――、僕は先生への告白を更に恐れるようになっていったのだった。  そうしてそんな事を考える中で、僕はふと、初日の晩に先生が言った言葉を思い出したのだ。 ――その子は俺のだから駄目だよ  あの時に発された、僕を助ける為だけに紡がれた空っぽの言葉。  本来ならば、愛する人や独占したい人を自分のものだと誇示する為の言葉。  そして、僕には縁のない言葉。  そう。  僕がその晩に考えてしまったのは、その言葉がいつしかしっかりと意味の込められた形で、僕ではない他の誰か――、つまりは先生が未来で愛する事になる女性の為に使われるのだろうという事だった。  そもそも、僕が今先生に特別視されているのは、この気――つまりはこの体質があるからだ。  つまり、先生は僕の外見や内面が好みだから気にかけてくれているのではない。  それゆえに、先生の好みに合った女性さえ見つかってしまえば、こんな僕はすぐに忘れられてしまうだろう。  だからきっと、告白なんてしたところで、希望なんぞ持ったところで、何の意味もないのだ。  僕がその晩に考えてしまったのは、そんな事だった。  そして、そんな考えに至ってしまった事から、僕は更に酷く落ち込んでしまい、布団の中で泣きそうになってしまった。  だが、先生が隣で寝ている中で、泣き出すなど出来るはずがない。  それゆえに僕は、なんとかその涙をこらえながら、必死で眠りについたのだった。  だが、そうしてしまったからこそ、僕はその悪夢を見てしまったのだろう。  その悪夢は、先生が僕の知らない女性と幸せになるという夢だった。  もちろんの事、人が幸せになる夢は、普通ならば悪夢ではない。  だが、今の僕にとっては、それは十二分に悪夢だった。  また、それを悪夢だと認識しているという事は、僕は先生の幸せを素直に祝う事すらできない人間だという事だ。  僕は、その事もまた不運にも自覚する事になり、それで更に落ち込んだのだった。  そして、そんな悪夢と酷い落胆を経て、六日目の朝を迎えた。  だが、その気持ちを引きずりながらも、その日はなんとか普通通りに過ごす事ができた。  それゆえに僕は、その晩もまた、特に問題もなくに眠れるだろうと思っていた。  だが、それは大誤算であった。  僕は結局その晩も、どうにもできないほどの不安に駆られ、眠りにつくのに一苦労する事となったのだ。  しかし、例え夜が苦しくとも、きっと朝になればまた少しは楽になっているだろうと思った。  だから僕はその希望にかけ、なんとか眠る努力をした。  すると、その努力が功を奏し、その晩もなんとか眠りにつく事ができたのだった。  だが、あの悪夢だけは、僕を逃がしてはくれなかった。  その悪夢は、その晩もまた、僕を苦しめたのだ。  そんな悪夢の中の事。  夢の中の先生は、幸せそうにしながら、またあの女性と話していた。  そして僕は、少し離れたところからその二人の様子を無感情に見ている。  この悪夢は、この状態が延々と続くというものだった。  どんなに耐えられないと思っても、夢の中の僕は彼らから目を離さない。  そんな状況がただひたすら続く。  目が覚めるまでずっと、ずっと続く。  ただ、遠くから先生の幸せそうな笑顔を見つめるだけの夢。  これは、ただそれだけの夢――のはずだった。  だが、その夜に見たその悪夢は、それだけでは終わらなかった。  なんと、その夢の中で先生が僕の存在に気付いたのだ。  そして先生は、僕の方を見て微笑んだ。  夢の中だというのに、僕の心臓はその光景に酷く強く締め上げられた。  だが、そんな僕の心境を知らない先生は、その優しい笑顔のまま僕の目の前に来て言った。 ――君も幸せになれるといいね  僕はその直後。  心臓を抉り出されるかのような苦痛で覚醒した。  またその感覚は、夢から醒め、飛び起きた後もしばらく続いた。  その為、僕は悪夢から脱する事ができた後もまた、身を縮めるようにしてその苦痛に耐える事となった。  そして、そんな悪夢から逃れ出てから幾分かの時間が経ち、乱れた呼吸が徐々に整い始めた頃。  僕ははっとして隣の布団を見た。  これだけ大袈裟な覚醒をしてしまった為、先生を起こしたのではないかと思ったのだ。  だが、幸いな事に先生は眠りが深いタイプらしく、多少の物音を立ててしまった中でも、先生を起こす事にはならなかったようだった。 (良かった……)  だが、その安心は得られても、僕の心はすぐに痛みを訴えた。  二晩続いた悪夢で、僕の心は限界にきていたのだ。  夢の中とはいえ、自分の事を赤の他人として断定する力を持つあの言葉を紡がれた今。  平常心などでいられるわけがなかった。  僕は、その苦しみから逃れたい一心で、布団からそっと抜け出した。  そして、あくまでも先生を起こさないようにしながら、窓際の椅子に静かに腰かけた。 「………………」  ふと思い出せば、この旅館に着いた直後も僕はこの椅子に座り、向かい側に座る先生の話を聞いていた。  だが、今はもう、そこに先生は居ない。  もちろん同じ室内には居る。  だが、――僕の目の前には――居ないのだ。  そして遅かれ早かれ、この状態が永遠に続く事になる。  同じ室内に居ても、僕の目の前に居なければ、居ない。  そして、同じ世界に居ても、僕の目の前に居なければ――、居ない。  居ないのだ。 「………………」  先生が居ない。  そんなの、耐えられない。  僕は、そんな人生など耐えられない。  僕はもう、先生の居る人生を手に入れてしまっている。  恋人同士ではないが、先生とこんなにも多くの時間を共にする人生を、生活を、毎日を、僕は既に手に入れてしまっているのだ。  その後に、先生の居ない毎日なんて考えられるわけもなければ、それに耐えられるわけもない。  僕はもう、先生が居る毎日に、先生の存在に、酷く依存してしまっている。  そんな僕はきっと、先生が居ない日々を生きなければならないのなら、死を選ぶだろう。  我ながら、そんな自分を惨めに思う。  だが僕にはもう、この心を制御する事はできない。  先生がどんなに迷惑だと感じようとも、この欲望を、この依存心を、押しとどめる事はできないのだ。 「……ごめんなさい」  それゆえに僕は、小さく小さく、震える声で先生に謝った。  もちろん、こんな謝罪が先生に届くはずもない事は分かっている。  分かっている。  分かっているが――、言わずにはいられなかったのだ。  何も知らないまま、こんな僕に優しく微笑み、大切にしてくれた先生。  そんな先生に対し、これほどに重くなるまで、一方的に邪な気持ちを募らせた。  更にその挙句に僕は、下心をもち、酷く依存までしてしまった。  なんて自分勝手で浅ましいのか。  そう思うと、こんな形であろうとも、謝らずにはいられなかったのだ。  僕は、その謝罪と共に自分の頬を熱い雫が伝っていくのを感じながら、胸元に提げられた先生からのお守りを、両手で強く抱いた。  すると不意に、 「――それは、何に対する謝罪か……俺が訊いてもいいのかな」  と、静かな声が問うてきた。 「……えっ」  僕は、そうして突然聞こえたその声に驚き、声がした方を咄嗟に振り返った。  すると、そこでは先ほどまで寝ていたはずの先生が身を起こしていた。  そして、こちらを見つめながら心配そうな表情で微笑んでいる。 「……あ、の」  僕は、そんな先生の様子に驚き、困惑して返す言葉を失ってしまった。  ただそんな中、視界が歪んでいる事にはっとなり、必死で涙だけでも誤魔化そうとした。  だが不運にも、その涙も一向に止まってはくれず、ただただ浴衣の袖が湿ってゆくだけだった。 「――うん……」  そんな僕の様子を少しだけ見つめていた先生は、ひとつ何かを得心したようにそう言った。  そして、腰を上げては僕の方へとゆっくり歩み寄ってきた。  僕は、その事で更に慌ててしまい、ただ膝を抱えるようにして縮こまっては顔を伏せ、更に両腕で隠すようにした。  すると先生は、穏やかに言った。 「俺に触れられるのは、嫌?」 「……っ」  僕は、咄嗟に首を振った。  すると、先生はまたひとつ、 「うん」  と言い、今度は僕の髪を優しく梳いた。  僕は、その先生の手の感覚に、心も体も熱くなるのを感じた。  そのせいか、涙は更に零れてゆく。  先生は、そんな僕を宥めるように、更に優しく頭を撫でる。  そして、そうしながらゆっくりとその場に膝をつくようにして腰を下ろした。  そんな先生は、背丈の低い椅子で両脚を抱え込んだ僕と目線の高さを合わせるようにして言った。 「無理に止めようとしなくていいよ。落ち着いたら話そう。俺はただ、悩みがあるなら聞かせてほしいだけだから」  僕は、そんな先生の言葉を聞き、今この瞬間に死んでしまいたいと思った。  先生がこれほどまでに近い位置に居て、僕に触れ、僕に優しく声を掛けてくれる。  今の僕にはもうそれだけで十分だ。  だからもう、出来るならここで死んでしまいたい。 「俺が聞いてもいい事なら、聞かせてほしい」  だが、きっと未練も残ってしまうに違いない。  僕はそんな事を思いながらも、低く深く響く先生のその声の心地よさに浸っていた。  そして、その心地よさに浸っているうちに、今まで酷く苦痛に苛まれていた心が徐々に落ち着いてゆくのを感じた。  先生と初めて出会ったあの日から、先生の傍が僕の一番安心できる場所だった。  そして、その事は、あんな悪夢に傷つけられた後でも変わらないようだった。  今の今まで酷い不安と苦痛に苛まれていたというのに、先生がこうして“居る”と感じるだけで、こんなにも心が安堵し和らいでゆく。 (もしかしたら先生こそ……特別な気をもってるんじゃないのかな……)  僕は、そうして先生の存在に酷く安心させられながらも、ふとそんな事を思った。    

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