1 / 11

后妃の悩み ①

 冬の名残の最後の雪は屋敷の広大な庭園を白銀に染め、季節の終わりを美しく告げていた。  白銀の庭園を見渡す東屋に一人、静かに舞う雪を眺めれば、それはどこから降ってくるのか。軽い結晶は掌に落ちて冷たい水滴に変わった。  この美しい景色に身を埋め、自分もその一部になるかと両手を広げ空を仰げば、遠くに自分の名を呼ぶ声が僅かに届いた。 「媛响(えんきょう)様……どちらにいらっしゃいますか……」  (ひびき)は梅の枝に積もる雪を払い一番蕾の多い一本を折り、屋敷の縁を上がる。  縁をするすると早足で探し回っていたであろう秌が、やっと響を見つけて安堵に息を吐く。 「随分探しましたよ。どちらにいらっしゃったのです?」 「ちょっとね。これ、綺麗でしょう」 「まぁ、梅でございますか。仰って頂ければお切りしましたのに」  渡された梅の枝の切り口を見て、秌が眉を下げる。 「次はハサミを借りて行きます」  東屋は響と、愛しい人の秘密の場所。女官尚の(とき)にも、宰相の将極(しょうごく)にさえ決して教えてはいけないよと、柔らかく微笑む愛しい人の言葉を思い出す。 「私にも秘密だなんて、水臭いったら。媛响様、主上には内緒で教えて頂けません?」 「駄目ですよ。あそこは大事な場所だから、絶対教えません。それより、何か用だったんじゃ?」  口を割らない響に唇を尖らせる秌は、はっとして自分が響を探していた事を思い出す。 「そうそう、お昼の支度が出来ましたので、お呼びに上がったのです」 「ああ、もうそんな時間なんだ」  時計の無いこの地では時間感覚は体内時計か、時計台の管理官が鳴らす三度の鐘を目安にするしかない。鐘を聞きそびれてしまえば、こちらの時間感覚にまだ慣れない響にとって最後の頼みは腹時計のみだ。  言われてみれば少し腹も減ったようだ。響は秌について座敷に向かう。  途中秌はすれ違った下女に梅の枝を渡し、執務室に飾るよう指示した。 「今日は一日籠っておいでですから、媛响様からと言付ければ主上もお喜びになるでしょう」 「じゃあ今日も煌隆(こうりゅう)は夜までこっちには戻らないんですか?」 「ええ、まだ正月に溜まった仕事が残っていますので」  響は主の居ない隣の座椅子を見る。本来ならここで、愛しい人──煌隆と並び、秌の座る場所では厳つい宰相、将極と三人で食事を摂る。  しかし二月も半ばを迎えたと言うのに、煌隆は正月に溜まった仕事が未だ捌ききれず、朝から晩まで屋敷に戻らない。それに伴い将極も、ここのところ姿をろくに見ていない。なので年が明けてからこちら、昼は秌と二人で摂るのが当たり前になってしまっている。本来秌は別室で食事を摂る決まりだが、一人で昼食を摂るのは不憫だと、特別に煌隆が許可している。 「媛响様、何かお悩みなら秌にご相談下さいな」  大根の煮物を口に運んでいた響は、突然心配気に声を落とした秌の言葉に大根を膝に落としてしまった。  空気のように隅に待機していた下女が素早く煮汁を拭いてくれたが、きっと染みになってしまうだろう。 「何でオレが悩んでるって?」 「私の目は誤魔化せませんよ。近頃媛响様は溜め息が多くなりましたし、時折淋しそうに肩を落として。庭園の奥に行く回数も増えました。何かお悩みなんでしょう?」 「秌さんに隠し事は出来ないなぁ……その、あんまり人に聞かれたくないから、オレの部屋でいいですか?」 「勿論です。一緒に参りましょう」  居室に続く迷路のような内裏の廊下は、まだ順路を覚える事が出来ず誰かの案内がなければ入る事も出る事もままならない。  食事を終えた響は、茶器を持つ秌の後について自身の居室に向かった。  入ればすぐに、いつも開け放している格子の窓をピタリと閉める。僅かな光も射さない暗い部屋の行灯に灯を入れれば、まるで夜のよう。 「それで……お聞きしても?」  秌は茶を淹れながら、椅子で膝を揃えてそわそわ落ち着かない響を見る。 「その、秌さん……変な事聞いてもいいかな……」 「あら、私が質問されるのですね。どうぞ、私に答えられる事なら」  響は差し出された湯呑みを両手で包み、息を飲む。くるくる湯呑みを回し飲み頃に冷ましてくれた茶を一息に胃に流し込んでから、ぼそぼそと空になった湯呑みに向かって呟く。 「あの……煌隆って、その、あんまり、夜の営みって言うの?興味ないんですか…?」 「……えっ? ええと、主上は、どちらかと言えば、積極的なお方かと」  初めは言い淀み言葉を詰まらせたが、秌は聞かれた事に正直に答える。  無礼を承知で言えば、千も二千も生きているのに精力は未だ衰えず、好き者だと言うのが秌の率直な印象だった。秌は何故響がこんな質問を寄越したのか、少し考えて恐る恐る口に出してみる。 「ひょっとして……まだ主上のお手がついていないのですか?」  響は真っ赤になりこくりと首を落とす。  煌隆の元に嫁いで三ヶ月。愛しい人が求めるのは唇だけで、毎夜その先はただ眠るだけ。 「まさか、あれから毎晩主上の寝室でご一緒してらっしゃるのに?」  あれから、と言うのは年が明ける前の秋に、初めて煌隆が響を寝室に招き入れた夜の事。それからずっと、響は煌隆と枕を並べて眠っている。  お陰で今は響の寝室は着替えるだけの部屋になってしまった。 「……全く。ちょっと、良い感じの雰囲気になった事はあるんですけど、それから先に進まなくて」 「主上がまさか、二月も。どこかお体の具合が悪いのでは」 「そんな感じじゃないけど……だからオレ、ちょっと不安になっちゃって」  煌隆は響の性別など取るに足らない些細な事だと言った。晩酌の時には必ず響を膝に乗せ額を撫でてくるし、ところ構わず口付けをせがむし、二人きりになればその細長い指で、響の体をうっとり撫でる。  生殺し状態で眠った事もしばしば。  愛されていないとは感じない。むしろ大事にされている。  しかし、いざ体を重ねるとなるとやはり、響が男である事で二の足を踏んでいるのではないかと、小さな染みのような不安は少しずつ広がっている。 「わかりました! 私にお任せ下さい!」 「え、任せるって」  秌は鼻を膨らまし、大きく胸を張って拳でどんと叩く。 「主上がお手をつけない理由をそれとなく私が探ってみましょう」 「え、それってちょっと不安なんですけど」 「大丈夫です! まさか突然主上に訪ねたりしませんから!」  秌は響から湯呑みをひったくり、両手を握り瞳を輝かせる。 「その代わり、と言っては何ですが、無事解決した暁には感想をお聞かせ下さいな!」 「か、感想って」 「二千年近く生きていて初めての事ですからね、私も興味津々なのです」 「うう……」  有無を言わせぬ剣幕に、秌ではなく将極に相談すれば良かったと思う響だった。今やちょっとどころではなく大きな不安がのし掛かってていた。

ともだちにシェアしよう!