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溶け合う心 ②
屋敷に戻った響は、夕食に座敷に向かう前に、秌からこっそり椿油を分けてもらった。何に使うのかと聞かれたが、適当に誤魔化して凌いだ。
居室に置きに行く暇もなく、袂に忍ばせたまま夕食を摂れば、何だか落ち着かずろくに喉を通らない。
俯きちまちまと夕食をつつく響の頭に心配気な声が降ってくる。
「響? どうした、どこか悪いのか?」
「いや、その……」
「具合が優れないのなら、先に休んで良いぞ」
「……えっと、じゃあそうします」
言って箸を置くと、素早く立ち上がった将極が響に手を貸す。響はちらりと煌隆を見て、優しく微笑んで送り出す姿に笑みを返し、内裏に向かった。
寝室に入れば、すぐに秌を呼んでくるからと一人待たされた。
響は袂から出した椿油を畳に置いて、涼の話を思い出す。
ドコにナニを入れてくれなんて、自分が言える自信は全くない。しかしこのままずっと、中途半端なまま悶々として眠る日々に終止符を打ちたいなら、勇気を出すしかない。
ごくりと喉を鳴らした所で、控えめに襖を叩く音と静かに声を落とした秌の声。
「ご気分が優れないとか」
寝間着を持って入ってきた秌は、心配気に眉を下げ、響の体を気遣う。響はふるふると首を振り、仮病を使った申し訳なさに小さく謝る。
「緊張しちゃって……喉を通らなくて」
「緊張?」
「……今日ほら、現世に行ったから」
秌は響の言わんとする事に気付き、ころりと笑い一つ手を叩く。
「まぁ! それでは方法が分かったのですね! それで、今夜にでも?」
「う……うん……何言ってんだオレ……」
「では、こんな地味な寝間着じゃ興が削がれてしまいますね。すぐに違うものを用意しましょう!」
そんな大事にしないでくれと響が止めるのも聞かず、秌が持ってきた寝間着は、黒地に真っ赤な牡丹の刺繍が入った派手なもの。
「えーと……こう言う時って真っ白な服着るんじゃないの?」
「いいえ! ここは派手に押して行きましょう!」
鼻息荒く、興奮する秌にされるがまま、響は派手な寝間着を着せられ煌隆の寝室に押し込められた。
ちょこんと布団の真ん中に座り、段取りを頭の中で繰り返せば恥ずかしさに今すぐ逃げ出したくなってしまった。
響の事を心配したのだろう、まだ夕食を終えるには早い頃合いに寝室の襖が開く。見上げれば、屏風の向こうで不思議そうに目を見開き響を見下ろす煌隆。
「起きていたのか?」
「あの、煌隆、ごめんなさい、仮病だったんです」
特に咎める事もなく、煌隆は響の正面に座り額を撫でる。
「ならば良い。それで、その格好は?」
袂を摘まんでまじまじと派手な寝間着を眺める煌隆に、響はずっと掌に握っていた椿油を渡す。
「……これ、どうぞ」
「うん? これは……椿油か」
「煌隆、その、何て言ったらいいのか」
科白は何度も頭の中で練習した。あとは口に出すだけだ。ちらりと煌隆を見上げれば、優しく笑む黒い瞳と目が合う。途端心臓が喧しく騒ぎだし、頭に血がのぼってくる。口の中はからからに渇いて、用意していた言葉を吐き出そうにも喉からは細い息しか出てこない。
しっかりしろ、たったの一言じゃないか。
響は意を決し、正座に揃えた膝を握る手に力を込めた。
「あの、それ、使って、して欲しい……です」
「……何を?」
顔を伏せたまま絞りだした科白は、何度も頭で反芻したものとは全く別のものだった。これだけ言うにも随分疲弊してしまったのに、少しの間があり煌隆が囁く。いっこうに顔を上げられない響の髪に手を差し入れ、耳朶をくすぐってくる。
「っ……分かるでしょう」
「どうかな」
言いながら煌隆は顔を近付け、響の髪をかきあげ耳朶に唇を寄せる。吐息が耳にかかり、くすぐったさとは違うぞわりとした感覚が響の全身を襲う。
「ひゃう、う、んっ」
耳を濡れた熱いものが這い、湿った音が頭に響く。自我を持っているように這い回る舌は、耳を離れ首筋をなぞっていく。背中がぞくぞくと粟立ち、体を強張らせていた力が抜けていく。響は煌隆の胸元を両手で掴み、ひっくり返ってしまいそうになる体を支える。
「艶っぽい寝間着だ。お前の白い肌がよく映える」
「んっ……秌さんが、無理矢理着せたんです」
煌隆が寝間着の合わせから手を差し入れると、わざと帯をゆるく結んでいたのだろう、絹の柔らかい寝間着が響の肩からするりと落ちた。
秌や将極の前で着替える事には何も感じないのに、煌隆に肌を晒すのはこの上なく羞恥に抵抗がある。
肩に乗せられた手が、するすると響の頬を包み顔を上げさせる。あまりの恥ずかしさと、じわじわと与えられる小さな快感に濡れた瞳で愛しい人と視線を絡める。煌隆は一度目をそらし、すぐに戻して響の唇を親指でなぞる。
「まさかと思うが、私は響を待たせ過ぎたのだろうか?」
「……そうです。オレ、ずっと待ってたんです。でも、煌隆はいつも途中でやめちゃうから、オレの体のせいかなって……」
勿論そうでない事はすぐに分かったが、それでも一度心に付いた染みはなかなか消えてくれなかった。今回勇気を振り絞って響の知り得た事を伝えて、それでも煌隆がためらう事があれば染みは二度と消えないだろう。
その不安はいまだ頭の片隅にちらついており、濡れた瞳から一筋涙がこぼれた。
「それにオレ男だから、どんなに頑張っても子どもはできないし、だから煌隆の望みを叶えてあげられないから、だから」
一度不安を本人にぶつけてしまうと、それはとめどなく溢れてきた。
それまで黙って響の言葉を聞いていた煌隆は、それ以上言うなとばかりに優しく抱き寄せた。
「私が言葉足らずでまた響を不安にさせてしまったな。下手に見栄を張ろうとせず、響と二人で解決すればよかった」
煌隆は掌で響の頬を流れる涙を拭い、視線をはずしてぼそぼそ呟く。
「不様だろう……お前と肌を合わせたいと心底願うが、作法がわからなんだ」
「……知ってました、秌さんが将極さんから聞いたって」
「口の軽いやつめ」
この場合、煌隆から咎められる事になるのはどちらか。
煌隆は響の額を撫で、目尻に軽く口づけた。
「響、前にも言ったが、私はお前の性別など厭わん。ただお前が、響が欲しいのだ……私は永い事一人だった。私と同じ時を、誰も共にはしてくれなかった。だからせめて、己の血を分けた子が欲しかった。だが響、お前が私と悠久を共にすると言うなら、ほかには何もいらんし、望みもしない」
響は握りしめたままの煌隆の胸に顔を埋めた。先程とは違う、別の涙が溢れて止まらない。暖かい腕、優しい声、心地よい心臓の音色。言葉は少なくとも、いつも愛おしそうに見つめる瞳。
ああ、この人を好きになって、愛してよかった。何を不安に思うことがあったろう。愛しい人はこんなにも、自分を愛してくれている。
声を殺して嬉しさに泣く響の後頭部を、煌隆は優しく撫でた。暫くそうして煌隆の胸に顔を埋めていたが、細く開いた窓から入った風が露にしたままの響の肩を撫で、すっかり冷えてしまった体を震わせた。
今まで半裸だった事に気付き、身を潜めていた羞恥が顔を出す。
「煌隆……寒い」
「なに、すぐに温まる」
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