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神の仕事 ④

「そりゃあそうですとも。尊き御方の奥方様なのですから。少しは自覚なさって下さいまし」  屋敷に戻り重い衣を脱いだ響は、秌と二人、庭園の見える茶室の縁でお茶をしていた。煌隆と将極はまだ仕事があるだとかで執政棟に籠ってしまい、夕べからの事もあり疲れてしまった響は夕食までのんびり過ごす事にした。それに秌が付き合ってくれ、今日の政で感じた事を話してみたのだ。 「うーん……こうして毎日普通に生活してると、実感薄いなぁ。今日みたいな事が頻繁にあるならまだ違うんでしょうけど」  太陽の無い空、澄んだ空気。果ての見えない霧のような雲海にぽつりと浮かぶように顔を出す大陸──常世。桃源郷とは程遠い、平穏と不穏、天国と地獄、生と死が表裏一体のこの地。  在るのは時代を巻き戻したような街並みや人々、古城のような大きなお屋敷。そこに住まう、唯一の存在。秩序と魂を管理し護る神。  現世と違う所は多いが、ただそれだけ。環境がいくら変わっても、響の心の中と愛しい人は変わらない。 「ふふ……まぁ、長く后妃様不在の時が続きましたし、加えて媛响様がお美しいものだから民衆も張り切っているのですよ。じきに慣れます」 「その、美しいってのちょっと恥ずかしいんですけど……第一、顔も見えないのに」 「あら? 町では大人気ですよ? どこへ行っても媛响様のお話を耳にします。”今度の后妃様はとても御美しく淑やかで、大変お優しい。拝見するだけで心が洗われるようだ”だそうですよ。お顔が拝見できずとも、その御心の清らかさは伝わるものです」  響は「過大評価し過ぎだ」と、茶請けの饅頭を口に放り込んだ。 「あれ? この饅頭」  それはいつか口にした味。そう遠くない、そう、常世へ来てから味わったもの。そもそも現世に生きていた頃は饅頭もケーキも母が作ってくれたものしか食べられなかった。 「秌さんが買ってきてくれたの?」  買う、と言うと少し語弊があるが、こちらの生活に馴染むまでは仕方がない。 「いいえ、あの茶屋のお女中さんが媛响様にと、届けてくれたのです。言うなれば、献上ですね」  聞けば屋敷に物を届けるだけでも大層な手続きが必要なのだとか。民は屋敷には入れないため謁見を逃すと献上は極めて困難。窓口があるわけでもなし、ご近所さんにおすそ分けするのとは訳が違う。  それなのにわざわざ届けてくれるとは、素直に嬉しい。 「媛响様が民に慕われて、私も嬉しく思います」  そう言って秌がにこりと微笑むから、つられて響も微笑む。  基本的に屋敷に籠り、時々町に降りたりして、政がある時は黙って煌隆の隣に座る。それだけで民が喜ぶのなら、それでいいのだろう。后妃の何たるか、常世での在り方などは少しづつ知っていけばいい。以前煌隆も言っていたように、時間はたっぷりとある。それこそ永遠とも言える時間が。焦る必要はない。  響は少し気が楽になったように思い、秌が点ててくれた抹茶をすすった。  いつもは緑茶や中国茶だが、初めて点てて貰った抹茶を口に含めば濃い茶の風味と後味の良い苦味が、舌に残った饅頭の甘味と混ざり滑らかに浚っていく。現世とは違い、観光客のない美しい庭園を眺めながらの一服は、景色を独占しているようでなんとも贅沢に感じる。  春の気配が其処此処に芽吹く庭園の上に薄灰に広がる空は、暫くしてぽつりぽつりと雨を降らす。地面を濡らす程度の雨に滴を落とす庭園は、春と初夏を折り合わせたようで風情がある。 「響、ここに居たか」  するすると裾が板張りを撫でる音が近付き顔を上げると、隣に煌隆が座る所だった。 「煌隆。仕事は終わったんですか?」  響の腹時計によれば夕時がなるにもまだ早い時間。煌隆が仕事を終え屋敷に戻るには早いはずだが。 「執務室を掃除するからと、将極の奴に追い出されてしまった」  今日までに終わらせなければならない、例えば政の事後処理等を済ませた後、何をするにもあの混沌では出来る事も出来やしないと、将極が集めた官吏達が掃除を始めると煌隆は完全に蚊帳の外になってしまった。  またぞろ小言を聞かされ、少しは反省しているところを見せようかと手伝いを申し出たものの、将極は余計頭を沸騰させ、怒鳴り散らす将極を取り抑えた官吏達からどうか外してくれと懇願され、煌隆はそそくさと屋敷に戻ってきたのだ。 「全く、そう怒らずとも良いものを。私も散らかさぬよう努力していると毎度言っているのだが」  毎度、同じ事を繰り返しているのか。これには響も苦笑しか返せず、少し将極を憐れに思った。 「やれやれ、今日は朝から将極の小言ばかり聞かされすっかりくたびれた。秌、私にも茶を頼む」 「煎茶にしますか?お抹茶もございますよ」 「抹茶か、久しいな。そちらをもらおう」  雨の音に混じり、茶碗をこする軽快な茶筅の音。それは、いつか涼と華、聖の四人で行った海の音を思い出させる。もうずっと昔の事のようで、海のない地に来た響にはもう縁のない世の事なのだと、最早懐かしく思う。 「海? そうか、そう言えば現世にはそのようなものがあったな」 「見た事あるんですか?」 「いや……私の居た地は山や林ばかりでな。私は旅から帰ってきた民から聞いたものしか知らぬ。こちらに来てから海のような物をこしらえてはみたが……お前も見たろう、この地に延々と広がる雲海……海のまがいものだ」  煌隆は、人ならざる力で作ったと言うこの地の理の外、果ての見えない白い霧のような雲海を脳裏に浮かべ瞳を伏せる。雲海は波もなく、匂いもなく、ただただ延々と白が広がるばかり。旅人から伝え聞いた、煌隆の想像する海があの雲海なのだろう。しかし本人はあれで満足している様子はない。  秌から差し出された抹茶を一息にすすり、ほうっと息をつく。 「ふむ、やはり抹茶は秌の点てたものが良い。将極の奴はいつまで経っても上達せぬ」  おかわりのために煌隆が茶碗を押し出すと、秌は満足げに微笑み、鼻唄混じりにそれを受け取る。ついでに響のぶんも点ててくれ、二人は小雨の舞う庭園を見ながら茶碗を掌に包んだ。 会話もなく、しかし心地よい柔らかな時間の過ぎるなか、煌隆がぽつりと言葉を漏らした。 「……響、海を作ってみらぬか?」 「え?」  人ならざる力──神通力は、神である煌隆のみに与えられたもの。いくら后妃とは言え、響はただの人間。もっとも、いささか長寿ではあるが。しかし煌隆の持つものを響が使う事はできない。煌隆は雲海を本物の海に近づけて欲しいと言うが、響には方法がない。 「なに、私が作り変える雲海に響は意見するだけでよい。お前の言葉をもとに海を作りたいのだ」  煌隆は響の肩を抱き、こめかみに優しい口づけを落とす。 「響の見たもの、記憶に残るもの、感じたもの、どうか私にも見せて欲しい。それを私が顕そう。私は、響の体を我が物としただけでは足りぬようなのだ」 「……わかりました、やってみます。煌隆にそう言われたら、オレに断る言葉はありません」  こんな甘い果実のような約束のおかげで、これから幾年か雲海の大荒れによる嵐で常世はおろか、現世までが大混乱に陥る事を、誰もまだ知らないのだった。

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