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神の仕事 ③

「何だか楽しそうですね?」  屋敷で煌隆と一旦別れ、響は着替えの為屋敷の自室に来た。婚儀の時よりは軽いものの、やはり複雑で重い衣を着付ける秌が、くすりと声を洩らした響に背中から声を掛ける。 「神様も完璧なわけじゃないんだと思ったら、何だか可愛くて」  混沌に散らかした部屋、毎度それを将極から叱られているだろう煌隆を頭に浮かべれば、自然と笑みが溢れた。  美しく、威風堂々として人々の畏敬を集める愛しい人の、隙を見付けた。それは煌隆を身近に感じさせ、一層愛しく思わせる。 「ふふふ、主上は人の頃から大勢が付き従ってましたから、一人では満足に部屋の整理整頓さえ出来ないのですよ。主上を可愛いと仰る事が出来るのは媛响様だけですよ」  秌はくすくす静かに笑い響に羽織を掛け、腰飾りと首飾りを選ぶ。煌隆と揃いの腕輪を重ねれば、しゃらしゃらと澄んだ音。 「将極さんがあんなに怒ってるのも意外でした」 「あら、まだご存知ではないですか?宰相様は元は武官ですから気性が荒いのですよ」 「武官って言うと……」 「武の者です。宰相になられてからはすっかり落ち着きましたが、未だ鋭い爪と牙は錆び付いてはいません」  その屈強な男はかつて我が神を武をもって守り、常世の秩序が整えば堕ちた魂を力で捩じ伏せたのだとか。未だ一部では「武神」だとか「鬼神」などと呼ばれ恐れられているのだそうな。  確かに厳つく険しい顔をしているし、体も大きく逞しい。しかしいつも黙って煌隆に仕えている姿しか知らない響にはにわかに信じられない。 「時折、暇を見付けて衛士の訓練をしてらっしゃいますから、いずれ訪ねてみてはいかがです?」 「そうですね、その時は教えて下さい。秌さんも何か特別な愛称があるんですか?」  やっと飾りを決めた秌は姿見に映る響を満足気に眺め、一つ肩を叩く。 「私は只の女官尚ですから、特別なものはありませんよ。さ、参りましょうか」  何だかはぐらかされた気がして腑に落ちないものの、時間が圧しているらしく急ぎ足に会話は途切れてしまった。  屋敷の渡り廊下に差し掛かれば、広場の喧騒がさわさわと届く。廊下の先では書類を探し当てたらしい将極が一層険しい顔で待ち構えていた。  将極が居なかった為下女に着替えを手伝ってもらっていた煌隆は、いつもと勝手が違い随分手間取ってしまった。  黒い空気をまとわりつかせる将極と一緒に待っていた響らと合流し、広場に向かうべく屋敷の廊下を急ぐ。いつもは滑るように静かに歩く秌と将極も、足音を消せずにいる。歩きながら段取りを確認しているが、響は長い裙の裾を引き四苦八苦しながらついていくのが精一杯で、ろくに耳に入らない。  そうこうしているうちに玄関に着くと、響は秌から旒の下がった冠を受け取り、一同は呼吸と姿勢を整え敷地を出た。敷地を出ると衛士達がぐるりと囲み、響は思わず身がすくむ。  屋敷の塀沿いに歩けば、広場からあぶれたのであろう広場に近い道に固まっていた民衆が、一斉に路肩に避け平伏する。先程将極に叱られ小さくなっていた煌隆はどこへやら、威風堂々とした背に響も背筋を伸ばした。  槍を携えた衛士を先頭に広場に着けば、道を開け額づいた民衆の間を縫って小さな舞台に向かう。舞台は露台が張り出す断崖の岩にめり込むように設けられていて、屋根から下がる色とりどりの斑幕は、現世の五色幕に似ているが色が多い。中央には漆の椅子が二脚。それに螺鈿の細い卓が一脚、椅子の前に据えられている。露台からは死角になる位置で、婚儀の時にはこの、小さな社寺のような舞台があるとは気が付かなかった。  一緒に舞台に上がった将極に促され、響は向かって左手、下手側の椅子に座った。卓の前に立った煌隆は、秌に乱れた衣を整えさせている。  秌が舞台から捌け、小脇に書類を抱えた将極が下手に控えれば、待ち構えていたかのように広場東側の陣幕から下女が五人程出てきて将極の後ろへ並んだ。その手にはそれぞれ、大事そうに抱えた鮮やかな衣の柄が見える。  これで準備は整い、煌隆の美しい澄んだ声が広場中に響き、これまでひたすら地面を睨んでいた民衆が重々しく顔を上げた。  見れば舞台正面に集まった民衆は他と幾分様子が違う。夫婦と思われる男女が五組。溢れる喜気を隠せずにいる。 「さて、皆この日を待ちわびた事と思う。先に達した通り、今日は五組の夫婦へ子を授ける。親となり、この子らに嘘偽りなき愛と徳を与える誓いを、ここに」  響は将極の後ろで控える下女達をちらりと見やる。  そうか、これは子どもを授ける政なのか。  色鮮やかな衣の隙間から、小さな頭が僅かに動いたのが見てとれた。  煌隆が椅子に座ると、将極が卓に小さな硯箱と五枚の書類を並べ煌隆の前に御璽を置く。御璽と同じ箱から出した掌程の大きさをした漆の、蓋には金蒔絵の丸い器を開け、器にまんべんなく詰められた朱色の塊をへらで鮮やかに練り上げる。丸く饅頭のような形に整えたそれを御璽の横に静かに置き、将極は元の立ち位置に戻り誓いの規定を説明する。いよいよ五組の夫婦はそわそわ腰を浮かせ、ちらちらと五人の下女を盗み見ている。  最初の夫婦が舞台に呼ばれ卓の前に立ち、響と煌隆に平伏しようと膝を折ったところで、煌隆から無用と言われ掌を合わせ低頭する。先に説明のあった通り、夫婦は並べられた書類の一組に其々署名、硯箱の朱肉から拇印を押する。記された誓いの文言を揃って読み上げ、書類──誓約書を煌隆に反し二人は固唾を飲む。 「子の名は? 決まっておらんのか?」  誓約書には夫妻の──両親の名と、新たに授かる子どもの名を書く欄があるが、この夫婦はそこを空欄にしたままだった。  問われた夫婦はお互い見合わせ、そわそわと落ち着かない。何かを言い掛けては言葉を呑み込んでしまう。 「何だ、何なりと申してみよ」  煌隆がやんわりと促すと、妻の方が色が変わるほどに強く組んだ手を胸に当て、つかえた言葉を振り絞るように話し始めた。 「あの……大変、図々しく無礼な事と承知の上で、願いがあるのです」 「それは今要する事か?」 「はい……その、今日、后妃様もいらっしゃるとは存じ上げず……お近くで拝見する后妃様はとてもお美しく、感動が尽きません。どうか、后妃様に子どもの名前を頂きたいのです」  つまり、響に子どもの名前をつけて欲しいと。  黙って座っていれば良いと事前に煌隆から言われていた響は、この突然の申し出に戸惑い小さく声を漏らす。  響の戸惑いに返事は無く、首を傾げた煌隆に夫婦は平伏し、震える声で願いを重ねる。夫婦の言葉に僅かにどよめいた広場も、今はしんと静まり成り行きを見守っている。 「ふむ……確かに我が妻がこれに加わるのは初めてだ。ひび……媛响よ、お前はどうしたい」 「え。お、お、私は……」  そう言えば、民の前では煌隆を何と呼べばいいのだろう。煌隆も響と言い掛けて訂正したのだ、名を呼ぶわけにはいかないのだろう。  言い淀んでいると、それを察した将極がこそこそと教えてくれた。 「私は、御前様が許すなら、良いと思います」  おまえさま、何だかむず痒いひびき。  教えられたまま口に出したが、何だか気恥ずかしくなりちらと煌隆を見上げれば、ひどく嬉しそうな顔をしていてますます、むずむずと恥ずかしくなってしまう。  煌隆は将極に手を振り、夫婦に子を授けるよう指示する。立ち上がった夫婦は始めおずおずと赤ん坊を抱き抱えたが、赤ん坊が新たに父母となる夫婦に笑顔を見せると顔を綻ばせ、壊れてしまわないよう優しく抱き締めた。 「では媛响、名は何とする」 「本当に、お……私が付けてしまって良いんですか?」  旒越しに夫婦を見れば、二人は赤ん坊を抱いたまま膝を着き平身低頭にお願いしますと繰り返す。  抱き締められ声を上げて笑う赤ん坊、小さな手が握る鮮やかな衣は深い青と新緑のような緑。誓約書をちらりと見やれば「男児」とある。 「何か……名付けに決まりはあるんですか?」 「無い。良い名を付けてやれ」 「じゃあ……涼……」  それを聞いた煌隆はぴくりと眉を動かし手を伸ばすも、それより早く夫婦が歓喜の声を上げてしまい、口を挟む機会を逃してしまった。 「これは、もう会えないけど……私の大事な友達の名前です。大切にしてあげて下さい」  夫婦の手を取り優しげに微笑む響の横顔を見て、煌隆はしようがないかと扇子で手を打った。  夫婦は目に涙を溜め、響に何度も頭を下げた。正直、夫婦と自分のあまりの温度差に響は自分が場違いな気がしてくる。  ただ名前をつけただけなのに。  神の妻──それはそんなに重い存在なのか。旒でろくに顔も見えないのに。  神の妻。頭の中でもう一度呟いてみても、よくわからない。響はただ、愛しい人と一緒になっただけなのだから。  思考の海に溺れていた響は、煌隆が小気味良く鳴らした、御璽が卓を叩く音で現実に戻ってきた。将極が練った印泥をとんとん叩いてもう一枚。誓約書は二枚一組で、一枚受け取った夫婦は神と后妃に何度も礼を述べ、涼と名付けられた赤ん坊をあやしながら舞台を降りて行った。  続く残りの四組の夫婦も響に名付けを願い、響はそのすべてに名前をつけてやった。  それからと言うもの、子の名付けはすっかり后妃の──響の仕事になったわけだが、毎度名前を考える事に頭を抱えるようになるのはまだまだ先の話。

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