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ⅰ ①

「近藤さんコレ、行きませんか?」  パソコンから目を離し背中を大きく仰け反らせた近藤春樹(こんどうはるき)を見て、隣の西島(にしじま)が口の前で人差し指と中指を立てて前後に動かして見せる。腕時計に目を落とせば丁度午後の三時になるところだった。  春樹は僅かに口角を上げ席を立つ。西島もそれに倣い早足でエレベーターに向かう。  途中売店に寄ってホットの缶コーヒーを買い手の中で転がしながら喫煙所へ向かう。西のエレベーターに乗り、降りたところの売店でコーヒーを買って東の喫煙所に行く。一服終われば東のエレベーターで戻る。一連の流れだ。  二人が喫煙所に出ると、冷たい風が頬を刺す。  本当は一階の暖かい喫煙室に行きたいところだが、職員が職務中喫煙出来るのはこの二階のバルコニーだけ。 「そろそろコートが要るな」  春樹は缶コーヒーを灰皿の角に置き震える手で煙草に火を着けながら、横でしきりに体をさする西島に呟く。 「昨日初雪観測したらしいですよ。本格的に冬ですね」  空を見上げれば薄い雲が覆っている。今日の天気予報では何と言っていただろうか。  春樹はコーヒーを右に左に持ち変えながら外に出た事で一気に冷えてしまった手を暖める。そのうちコーヒーも冷めてしまい、出来るだけ袖に手を隠して冷たい風から守る。 「そういや近藤さん、彼女さんとはどうですか?」  こう冷えて来ると、バルコニーに出て一服する職員は一気に減る。皆名札を取って一階の喫煙室へ行くのだが、いつもそれを目敏く見ている市民からの苦情が耐えない。同じ喫煙者と言うだけで、こうして暑さや寒さに耐えてバルコニーに来る職員までも同列に見られてしまうのが腹立たしい。  しかし人が少ないのも好都合なもので、こうして堂々と職務以外の話も出来る。 「ああ……まぁ、上手くやってると思う。今度プロポーズしようと思ってんだ」 「マジですか! 確かもう五年って言ってましたっけ? 彼女さんも随分待ちましたね」  西島は寒さに顔をしかめているが、にやにやと歯を見せる口元は隠せない。春樹は西島を小突いてそっちこそどうなんだと返す。 「順調ですよ。来年の春には産まれますよ~」  去年結婚した西島はそろそろ新しい家族が出来る。今度はふにゃりと緩ませた表情は幸せそうだ。 「お前まだ二十歳ちょっとだったっけ。奥さんの妊娠中に浮気なんかしてないだろうなぁ」 「そんな事しませんて! 僕は妻一筋なんですからね」  妻、と言った西島は照れ臭そうに笑う。まだ新婚の初々しさと照れの混じる様子は微笑ましい。 「近藤さん、プロポーズはこれでもかって位ロマンチックにして攻めるんですよ。女の子はそうゆうの好きですから」  ゆっくり煙草を吹かす春樹と違い、まるで呼吸のように煙を吸い込む西島は二本目に火を着けて人差し指を立てる。  どちらかと言えばリアリストの春樹は、参考までに西島がどんなプロポーズをしたのか聞いてみる。 「僕は……まぁ、良くある夜景の見えるレストランでってヤツでしたけど」 「何だ、芸が無いな」 「近藤さんはそれさえ出来なさそうですけどね」 「俺にだって、それくらい出来る。他には? 女性はどんなシチュエーションが好きなんだろう」  女性の好みや機微に疎い春樹は、かつて多くの女性と付き合ってきた西島にアドバイスを求める。恥ずかしながら、十も年下の西島より女性経験は圧倒的に少ない。 「そうですねぇ、ああ、丁度クリスマスの時期に入るから、テーマパークのイルミネーションの点灯式でバーンと」 「とんだ恥さらしだな」 「えー昔の彼女はそれ見ていいなーってうっとりしてましたけど」  実際にそんな大袈裟なプロポーズをした人が居ると聞いて、春樹は世界は広いと感じた。自分には逆立ちしたって無理だな。 「じゃあ、ドーンと花火を打ち上げるとか」 「金が掛かり過ぎだろ」 「ヘリをチャーターして……」 「それも金が掛かる、却下」 「もー、女の子にとっちゃ大イベントなんですよ? もう少し頑張ってみたらどうなんです」  西島は呆れて白いため息を吐いた。  そんな事を言われたところで所詮春樹はロマンよりリアルを大事にする男なのだからまるで理解出来ない。取って付けたようにロマンチックを演出したところで、すぐにボロが出てろくでもない事になってしまうだろう。  結局西島と同じく「夜景の見えるレストラン」案で落ち着いた。  気付けばもう二十分も話していたらしく、二人は室内に入ってすぐのゴミ箱に空き缶を捨て急いでエレベーターに乗り込んだ。  仕事に戻った春樹は、手ではパソコンで作業をしながらも頭はまだ西島との会話を繰り返していた。  彼女にプロポーズをすると決めたものの、頭の中ではまだぼんやりと形が定まらず現実味が無い。事実、なんとなくそろそろだと思っただけでまだ指輪の用意さえしていない。  春樹は夜景の見えるレストランで彼女にプロポーズする様子を想像してみる。  何気ないいつもの調子で食事を済ませ、ボーイにちょっと上等なワインなんか頼んだりして、デザートも終われば指輪を出して「結婚して下さい」。彼女はどんな反応をするだろうか。喜ぶ? 笑う? 泣く?  全く想像出来ない。元々の想像力が乏しすぎるのか、それとも。  しまった、指輪のサイズがわからない。  そう言えば、世の男達は女性の指輪のサイズをどうやって調べるのだろう。あからさまにサイズを聞いたのでは無闇に期待を持たせるだけだろうし。いや、そもそもそれが前振りなのか。  春樹は考えるうちに、急にプロポーズが面倒に思えてきた。ただでさえ承諾されればその先に更に面倒な結婚式が待っているのだ、あれこれ小細工せずに簡単に済ませたっていいじゃないか。  ふと彼女の言葉を思い出し、自嘲気味に息を漏らす。  春樹のそう言うところ、ホントつまんないよね。  春樹の在籍する課に臨時の職員としてやってきた彼女。暇潰し感覚でやってくる他の臨時職員と違い、彼女は真面目でいつも何か仕事を探して課内をごそごそやっていた。何となく興味を持ち話しているうちに仲良くなり、半年の契約期間を終えた彼女に告白され付き合うようになった。  こんなおじさんで良いのかと聞いたら、歳上が好きなんだと答えた。  付き合い始めの頃に、自分は記念日とかイベントに興味がないから期待しないでくれと前置いて、彼女もそれに承諾した。  けれど付き合いが長くなってくるとしばしば不満を言ってくるようになった。友人を例に取り、誕生日に恋人がサプライズをしたらしいとか、毎年記念日には旅行に行くらしいだとか。  曖昧に返事を返す春樹に、いつも彼女は言った。つまらない、と。  それでも何だかんだでもう五年も一緒に居る。勿論彼女の事は嫌いではないし、安定した空気に居心地の良さも感じている。だからそろそろ、結婚してもいいかと思うのだ。 「近藤さんさっきから溜め息ばっかですね。普通もっとにこにこするもんでしょ」  とてもプロポーズを控えた男の顔じゃない、と西島が眉を寄せる。 「だって、面倒だろ」 「近藤さん、今全国の女の子を敵に回しましたよ」 「言ってろ」  西島の頭に軽く手刀を喰らわせ、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。しつこく最新機種の自慢をしてくる彼女の遠回しな要求にとうとう折れ、スマートフォンを買ってから約一年。未だ扱いに慣れない。  その慣れない手付きで彼女にメッセージを送り、仕事に戻る。すぐに胸ポケットでスマートフォンが震えたが、無視して仕事を続けた。

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