2 / 33

ⅰ ②

 仕事も終わり、役所前のバス停に立てば既に空は夜の気配。チラチラと氷雨が降っている。春樹はマフラーを掻き寄せバスの到着を待つ。 そう言えば昨日初雪を観測したとか西島が言っていた。本格的に雪が降るのはもうすぐだろうか。  いつもは駅で降り、真っ直ぐ帰宅するが、この日春樹は途中にあるデパートでバスを降りた。並んだジュエリーショップのうち一つに適当に入り、ショーケースに並んだ指輪を見て回る。 「何かお探しですか?」  無表情で指輪を眺める春樹に気付いた店員がショーケースを挟んで話しかける。 「婚約指輪はどれが良いでしょうか」  途端顔を綻ばせた女性店員が、今年の新作だと言う指輪をいくつか出して並べてくれた。しかし春樹の目にはどれも同じに見える。  あれこれ特徴や人気度を教えてくれたが、結局一番オーソドックスなタイプのダイヤの指輪に決めた。  彼女からの返信でサイズを確認し、今日持ち帰れられる物だと言うことですぐに購入手続きをした。  痛い出費だなんて言えば、流石に怒られてしまうかな。  春樹は手渡された小さな箱をコートのポケットに押し込み、この日はこれで帰宅する事にした。 「今週末の夜会えるかな」  帰宅後すぐに風呂を済ませた春樹は、スマートフォンを耳と肩の間に挟み缶ビール片手にベッドで電話をしていた。薄い機械の向こうから聞こえる彼女の声はいつもと変わらず、明るく優しい。 「うん……じゃあ金曜日の夜、駅で待ち合わせで」  簡単に用件だけ言って、すぐに電話を切る。それも彼女はつまらないと言うが、会えばいくらでも話は出来るのだから電話で長々と話すのも時間の無駄だ。  春樹はベッドにスマートフォンを投げ、正面のローテーブルの真ん中に置いた指輪の箱を眺める。もう一度彼女の反応を想像しようとするも、やはり想像出来ない。  窓の外に目を移せば、氷雨がただの雨に戻っていた。  迎えた金曜日は、朝から雨が降っていた。  随分冷えるし足元はすっかり濡れてしまうし、プロポーズを控えた朝だと言うのに気分は最悪。昼休みに市民課に用があったため一階に降りれば何故かクリスマスツリーの飾り付けの手伝いをさせられるし、午後には直接訪ねてきた市民の苦情に数時間付き合わされて。やっと仕事が終われば溜まった疲れに溜め息しか出ない。  いっそプロポーズは別の日にしようか考えながら外に出ると、昼にはまだ降っていた雨がすっかり雪に変わっていた。  しばらく市役所の玄関前に立ったまま、しとしととアスファルトに吸い込まれる雪の音に聞き入る。  雪は好きだ。静かで、儚く、綺麗だ。  まだ積もるには早いか何て考えていると、目の前の道路をバスが通り過ぎ、春樹は慌ててバス停に走った。これを逃すと約束の時間に遅刻してしまう。  閉庁後すぐは乗客が多いため、バスを待たせる事なく乗り込む事が出来た。 「春樹! お疲れさま」  駅に着けば、バスの中からでも分かる場所で待っていた彼女が駆け寄り笑顔で迎えてくれた。鼻の頭が赤くなっている。 「お疲れ。どこか中で待ってれば良かったのに。寒かっただろ」 「ううん、平気。私寒いの得意だから」 「どうする? まだ飯には早いけど、どっか見て行くか?」  走った時にずれたマフラーを春樹は直してやり、腕時計を見やる。 「お腹空いたし、先にご飯しよ」  言って鞄を持ち直した彼女の横に並び、春樹は西島に教えて貰った夜景の見えるレストランを目指して歩く。レストラン位自分で探せばどうだと言われたが、適当に理由をつけて聞き出した。流石に正直に面倒だからとは言えなかった。  レストランは駅から少し離れたホテルの最上階にあった。事前に予約していた窓際の席からは確かに、見事な夜景が一望出来る。店内の薄暗い照明と、はらはら舞う雪で、春樹でもこれがロマンチックと言うものかと感じる事が出来る。  乾杯して夜景に見とれる彼女は成程、うっとりと溜め息を吐いている。 「春樹がこんなロマンチックな場所に連れて来てくれるなんて、一体どんな心境の変化? 毎年プレゼントもないのに」  にこにことワインを傾ける彼女の台詞に、春樹はハッと思い出した。  そうだ、今日は付き合って五年目の記念日にあたる。  別に狙ったわけではないが、と言うより完全に忘れていたが、これはこれで良いタイミングかも知れない。 「今年はプレゼントもある」  春樹は預けていたコートを持ってきてもらい、ポケットから箱を取り出しまたボーイに預ける。ボーイが充分に離れた事を確認してから箱を彼女の目の前に差し出す。 「え、ホント? どうしちゃったの春樹。開けて良い?」 「勿論」  不思議だ。これからプロポーズをすると言うのに、心は至って落ち着いている。  彼女は断らないと自信があるのか、それとも緊張で麻痺してしまっているのか。緊張も無いから前者かも知れない。  リボンをほどき、箱からまた箱を取り出した彼女の表情が、何故か強ばる。 「これって……」  箱を開いて春樹を見る彼女の目を見詰め、用意していた台詞を言う。 「俺はロマンも無いし面白い事も言えないし、地方公務員で平凡な稼ぎしかない男だけど、結婚して欲しい」  彼女は箱を持ったまま固まり、暫く春樹を見詰めて箱を閉じる。指輪を取らないまま。 「……春樹だったら、そんな風に言うと思ってた」

ともだちにシェアしよう!