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ⅰ ③

 タクシー代を渡したが彼女は受け取らなかった。俯いて目を合わせなかった彼女を見送ったあと、春樹は駅に戻り、駅から伸びる商店街をぶらぶら歩いた。手には指輪の入った箱を握ったまま。  こんな時人は、酒に身を任せるのだろうか。  通り掛かった居酒屋を覗いてみたが、今日は金曜の夜。どこも賑やかで一人では入れない。結局商店街の端まで歩いただけで、春樹は駅に戻ってきた。  何だかこのまま帰る気にもなれず、ロータリーの喫煙所でイルミネーションをぼんやり眺めた。クリスマスカラーで彩られたそれは、やけに眩しい。あまりの眩しさに、目を逸らす。  俺の心は、こんな事態になっても平坦なんだなぁ。  逸らした先に見上げた空は、厚い雲に月も星も覆われどんよりしている。街明かりがなければそれなりのものなのだろうが、今は薄暗い空から降り頻る雪だけが、とても綺麗だ。ひょっとして自分の心も、この空のように暗く、雪のように冷たく真っ白なんじゃないか。  頭に雪を積もらせながら紫煙を燻らせていると、視界の端で人影が揺れた。  見るともなく視界の端に入れたまま見ていると、人影は春樹の座るベンチに腰掛けた。他に空いているベンチは沢山あるのに。 「綺麗な夜ですね」  独り言のように紡がれた言葉が聞こえる距離に、春樹以外誰も見当たらない。もしかして自分に話し掛けているのかと、少し間が空いて思い至り、ちらりと見れば相手は春樹を見て微笑んでいる。  ベンチの端で微笑む彼は、頭の先から爪先まで白い。コートも羽織らず、白いセーターに白いズボン、白い靴。この寒いのに随分薄着だ。白いマフラーの上は、イルミネーションの光を反射してキラキラ輝く白銀の髪。良く見れば、瞳の色も薄い。まるで降り頻る雪に溶け込んでしまいそうな程、全身白。歳の頃は大学生か、西島と同じ位か。  近頃の若者のお洒落は良く分からない。あんなに白くなるまで色を抜けば、髪が傷んでしまうだろうに。 「煙草、消えてますよ」  口元に掲げたままの煙草に目をやれば、次々舞い落ちる雪で火種が消えてしまっていた。春樹は灰皿に燃えかすを捨て、新しい煙草を取り出して、やめた。  こう降っていてはどうせまたすぐに消えてしまう。 「寒くないですか? 随分積もってますけど」  白い青年は微笑んだまま、春樹の体を指す。春樹の黒いコートは雪が積もって白くなってきている。そういえば随分体も冷えてきたようだ。雪でコートが濡れてしまっている。 「君も随分薄着だけど、寒くないのか?」 「オレは平気です。寒いのは得意だから」  数時間前に聞いた台詞と同じ言葉が、違う人間の口から出て耳に入る。 「そうか……俺は寒いのは苦手だ」 「そんなに積もらせといて。風邪引きますよ?」  キラキラと輝く髪が揺れる。銀の糸のようなその白銀に、春樹は思わず見とれてしまう。  春樹は自分でもどうしてしまったのか分からない。次に出てきたのは自分のものとは思えない台詞だった。 「……一人なら、良ければ一杯付き合わないか?」 「え? でもオレ無一文だし」 「奢るよ……丁度、誰かに付き合って欲しいと思ってたんだ」  立ち上がって体に積もった雪を払い、春樹はこんなおじさんじゃ面白くないだろうけれどと付け加える。彼はふんわりと笑い、跳ねるように立ってズボンのポケットに手を入れる。 「えへへ、オレも丁度、付き合って欲しいと思ってたんだ」  春樹と同じ台詞を、歯を見せ笑って言ってみせる。どこか幼さの残るその笑顔は、更に量を増した雪と白い息に、少しぼやけて見えた。  春樹は箱をポケットに押し込み、先程覗いた居酒屋に向かった。  春樹は知らなかった。いつも笑顔で春樹に体を預ける彼女の心がもう、何年も前から離れていた事。何食わぬ顔で春樹と、春樹の知らない誰かを天秤に掛けていた事。欺き、裏切っていた事。  さらりと、まるで世間話の続きのように彼女は春樹のプロポーズを断った。  ──ごめんなさい、気持ちは嬉しいけど春樹とは結婚出来ない。別に春樹がリアリストだとか面白くないとか、地方公務員だからとかじゃないよ。むしろ私は春樹のそんな所が好きだったんだし。でも、春樹は私に興味がないでしょ。そんな人とは結婚出来ない。  その後で彼女は自分の罪を洗いざらい告白し、二人の関係は終わった。皮肉にも、五年目の記念日に。  彼女の言葉に、何も言い返せなかった。彼女の心が離れ、他の男に抱かれていたのに微塵も気付かなかった。そこに至るまでに変化があった筈なのにこの五年、全く彼女を見ていなかった。些細な違いどころか、彼女の開いた服から覗いた小さく鬱血した跡にも気付かない程、真剣に彼女と向き合って来なかった。これじゃあ彼女が他の男に愛を求めた事を責められない。  指輪を返され、罪を告白されても、ああ、そうかと、ぽつりと思っただけだった。商店街を歩きながら指輪の箱を投げて遊ばせながら、金の無駄だったとぼんやり思っただけだった。  昔からそうなのだ。友人は浅く広く、恋人は居たのか居なかったのか。他人に執着しない、感情移入出来ない。だから彼女との近過ぎない距離の付き合いが気に入っていたのだ。振られてしまったけれど、ただ一人自分の視界から消え失せただけ。失った物は春樹の中で何もない。  そんな春樹は感動映画を観て泣く事もなければ、友人を侮辱され怒る事もなく、挙げ句、親の葬儀でも涙は流れなかった。  自分は心の何かが、欠落しているのかも知れない。 「そんな事ないよ、きっとただ感情を表に出してないだけ。表面に出る感情が総てじゃないよ。だってほら、春はこんなに暖かいじゃん」  居酒屋のカウンター、隣に座る白い彼がふわりと微笑んで春樹の手を握った。  そう言えば、手が暖かい人は心が冷たいなんて話がなかったろうか。その逆に。  白く雪のように色素の薄い彼の手は、氷のように冷たかった。

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