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ⅱ ①

 翌日、余りの寒さと頭の鈍痛に春樹は目を覚ました。目だけきょろきょろ動かして部屋を見渡せば床にはジャケットとスラックス、コートにネクタイ。指輪の箱はどこにやっただろう。  別にもうどうでもいいか。返品は流石に格好悪いから質にでも持っていけばいい。どこかで失くしてしまったなら、それもいい。それよりスーツ、掛けておかないと皺になってしまう。  それにしても、寒い。それもそうか、部屋の様子を見る限りでは恐らく、春樹はYシャツと下着だけで寝ていたらしい。それに布団も、こんなに急に冷え込むと思っていなかったから冬支度を済ませていない。  春樹は布団を引き寄せながら寝返りを打つ。久し振りに二日酔いする程飲んだし、今日は休みだからもう少し眠っていたい。 「おはよう、春」  同じ布団の中で微笑む白い青年と目が合い、更には挨拶までされて春樹は布団から飛び出し壁に背をつけた。 「だ、だだ誰だお前! 何でそこに寝てんだ!」  青年はのんびり上体を起こし、一つ欠伸を吐いて唇を尖らせ、拗ねたように眉をひそめる。 「春が連れて来たんだよ? オレが無一文で宿無しだって言ったら、じゃあ俺んち来るか、何もねぇけどって。カッコ良く。覚えてないの?」  春樹は壁に背をつけたまま、がんがん痛む頭をフル回転させる。  そうだ、何を考えたか知らないが駅ロータリーの喫煙所でこの青年をナンパしたのだ。それで居酒屋に落ち着いて、酒が入ったからか他人だからか、この白い青年に全部ぶちまけた。青年は、そう、黙って聞いてくれていた。  それから──どうしたっけ。 「……思い出せねぇ」  まさか記憶が飛ぶ程飲んでしまうとは、何年振りか分からない。 「じゃあオレの名前は? それも覚えてないの?」 「いや……覚えてる、思い出した。冬真(とうま)、だったよな?」 「うん! そう!」  冬真はにっこり笑い、ベッドの上で腕を組み「とうま、良い名前」と自分の名前なのに満足気に頷いている。  それにしても。無一文に宿無し、それにあの薄着。手荷物も見当たらないし、恐らく家出だろう。着の身着のまま、恋人と喧嘩でもして追い出されたか。  春樹はにこにこと何やら聞いてくる冬真を適当にあしらい、床に散乱したスーツをクローゼットに押し込み熱いシャワーを浴びる。この時期朝シャワーを浴びると体が冷えてしまうが、二日酔いの頭を稼働させるには丁度良い。  居間に戻ると、つけっぱなしのテレビが一人で騒いでいる。浴室に入る前に冬真を寝室から追い出し、暖房とテレビをつけておいたのだが、居間の入口に対し背を向ける形で置いているソファーに人影はない。春樹がシャワーを浴びに行く前は確かにソファーに座って興味津々にニュース番組を見ていた筈だ。  春樹は一応部屋中を覗いてみる。寝室にも居ないし、キッチンにも居ない。他に部屋は無いし、玄関を見れば白い靴も揃えて置いてある。取りあえずつけっぱなしのテレビを消そうとソファーの前にまわると。 「春、暑い…」  ソファーに横になり、ぐったりと体を弛緩させている冬真が居た。 「そうか? 少し寒いくらいだけど」  暖房は風がソファーに当たる角度にしてある。それでも温度設定は低めだし、フローリングの部屋は寒い程だ。 「暑い、溶けそう」 「どんだけ暑がりなんだ」  顔を真っ赤にして汗をかく冬真を見て、春樹は仕方なく暖房を消し、自分はふわふわの靴下に半纏を着込む。 「わ! 部屋はお洒落なのにいきなり和風になった!」 「うるさいな、半纏が一番温いんだよ」  春樹は急に照れ臭くなりキッチンに引っ込む。こんな格好、彼女にも見せた事はない。 「冬真」  冷蔵庫を覗いてから、再びテレビに没頭する冬真に声を掛けると、キッチンに立つ春樹に満面の笑みで振り返る。瞳をきらきら輝かせる姿はまるで散歩を待つ犬のよう。 「パンで良いか?」 「朝御飯? 待って、オレ作るよ! こう見えて料理は得意なんだから」 「いや、台所いじられるの嫌だからいい」  途端にしゅんと肩を落とし、ソファーの背もたれに沈む。春樹はそれを無視してフライパンに溶いた卵を流す。  長年一人暮らしでやってきた。キッチンは聖域、彼女を立たせた事も殆ど無い。と言っても、料理が趣味でも何でもない。ただ自分の生活範囲に他人が介入するのが嫌なだけだ。  春樹は朝食をソファー前のテーブルに並べる。昨日知り合ったばかりの得体の知れない青年と並んで食べるのも気が引けたが、食事はここでと決めている。 「わー、食べていいの?」 「良いから作ったんだ」 「じゃ、遠慮なく。いただきまーす」  ぼんやりテレビを見ながら、春樹は隣でトーストにベーコンとスクランブルエッグを乗せて頬張る冬真をちらりと見る。 「家どこだ? 電車賃くらいやるから、それ食べたら帰れ」 「ええ、夕べも言ったけど、オレ帰る家ないよ」 「そんな筈ないだろう。どうせ家出してきたんだろ?」 「本当だよ。体一つでここに来たんだもん、追い出されたら路頭に迷うよ」  冬真は箸を置いて俯く。そんなに帰るのが嫌なのか、何度聞いても帰る家はないと繰り返すだけ。 「ね、お願い! しばらくここに置いてよ、春の邪魔はしないから!」  手を合わせ拝まれ、春樹が黙っているとそうっと目を開き上目で春樹の表情を窺う。その様子は何だか酷く憐れに見えて、仕方なく春樹は了承した。  途端冬真はころりと笑い、春樹に抱きついてきた。春樹は冬真を引き剥がし、ソファーの端に逃げる。ただでさえ他人と触れ合うのが苦手なのに、突然抱きつかれてるなんてハードルが高過ぎる。 「抱きつくな! ったく、馴れ馴れしい奴だな。さっきからその春ってのも何なんだ」 「何だよー春がそう呼んで良いって言ったんだよ、昨夜。忘れっぽいなぁ、年のせい?」  冬真は唇を尖らせソファーに正座する。喫煙所で見た時は今にも消えてしまいそうな、儚い印象だったのに、蓋を開けてみれば馴れ馴れしいうえに図々しい。 「酒のせいだ! まだ現役だ!」  片付け位すると言った冬真の申し出を断り、春樹はキッチンに逃げる。 「……そう言えば、無一文だって言ってたな」 「そうだよ、何にも持ってないよ」 「着替えとかも何も?」 「持ってるように見える?」  春樹は溜め息を吐き、冬真の視線を無視して寝室に向かった。  タンスから私服を引っ張りだし、プライベート用のコートを羽織る。居間に戻れば春樹をまた目で追う冬真をちらりと見て、玄関に向かう。 「春?」 「何やってんだ、買いに行くぞ。それじゃ歯も磨けんだろ」  財布をポケットに押し込みながらぶっきらぼうに言って振り返ろうとすると、背中がずしりと重くなりつんのめりそうになる。 「抱きつくな! 飛び付くな!」 「買い物買い物~春って優しいね~」  振りほどこうともがいても冬真はびくともせず、仕方なく冬真を背負ったまま春樹は外に出た。  一歩外へ出れば冷たい風が頬を刺す。ひらひらと空から落ちる雪が吹いた風に舞う。街は僅かに積もった雪でうっすらと白い。春樹はちょろちょろとはしゃぎまわる相変わらず薄着の冬真を横目に、マフラーも巻いて来るべきだったかとコートの襟を立てる。  溜め息を吐けば冷たい空気が肺の深くまで入り、一気に体が冷える。  家を出てから全く落ち着きが無く、あちこち興味津々に走り回っていた冬真が春樹の横に戻ってきた時には、頬と鼻を赤くし肩で息をしていた。 「このクソ寒いのに元気だなお前は」 「お前、じゃなくて冬真って呼んでよ」 「はいはい。冬真君は子供みたいですねぇ」  唇を尖らせた冬真を無視し、デパートの自動ドアを潜る。  自宅から程近い場所にあるデパート。ショッピングモールのように大きいわけでもなく、百貨店のような格式もない。それでも地元住民に愛されて長く、前述の両者に負けない位の品揃えと安さを誇る。  とりあえず春樹は冬真の意見も聞かず、生活に困らない程度の備品を買い揃える。正確には、買い揃えようとする。 「春! 歯ブラシは柔らかいのが良い!」 「何そのパジャマ! ダサ過ぎ!」 「オレ下着はボクサー派なの!」  春樹にまとわりついて横からあれでもないこれでもないと、冬真は口だけ喧しく挟んでくる。それも大声で。すれ違う人々が好奇の目を二人に向ける。 「ねぇ春、春ってば!」 「ああもう! いい加減にしないか! 文句ばっか言ってると叩き出すぞ! それで困るのは俺じゃない、お前なんだからな!」  大体何やってるんだ自分は。律儀に世話を焼かずにとっとと追い出してしまえば良いだろう。また誰かに声を掛けてそいつの厄介になるのか、諦めて家に帰るか、さもなければどこかでのたれ死のうと知った事じゃない。  こんな見ず知らずの男に割く、時間と金が勿体ない。  春樹は買い物篭を乱暴に戻し、黙って目を丸くさせている冬真を置いて店から出た。  早足で自宅に向かう春樹を追ってくる気配も無く、叩きつけるように玄関を閉めれば鼻を鳴らしてコートをベッドに放り投げた。  部屋はひんやりとしていて、暖房を入れても暖まるのに時間が掛かった。

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