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ⅱ ②
騒がしい冬真を放り出し、静かな日曜日を終えた春樹はいつもの朝を迎えた。
起きてすぐ暖房をつければ顔を洗い、朝食を摂りながらニュースを観て、満員電車に揺られて出勤。駅からのバスは殆どが職員だ。節電の為開庁前は暗い課内に入れば臨時職員の女の子が掃除をしながら挨拶してくれる。パソコンを立ち上げてから朝礼まで給湯室でコーヒーを飲みながら新聞を読む。
いつもの朝、何も変わらない日常。
春樹の頭では既に、別れた彼女の事もデパートに置き去りにした冬真の事も過ぎた過去になっていた。彼女は春樹の知らない男と仲良くやっているだろうし、冬真も戻って来なかったとこを見ると自分で何とかしているのだろう。
僅か五分程度の簡単な朝礼も終わり、日々代わり映えのない仕事に取り掛かる。これと言って誰も口を聞かず、ひたすら黙々と。
春樹が所属する課は臨時職員も合わせれば総勢九名。少し頭を動かすだけで全員の顔が見渡せる。一応、私語は厳禁だが、この階に市民が来る事は滅多になく、よその課では皆結構手と口を同時に動かしている。しかし春樹の課は皆口数が少ない。飲んだりすればそれなりに話すが、基本的に職務中は皆無言で静かなものだ。隣の西島を除いて。
視界の端にちらちら入る西島は少し前からそわそわと落ち着きがない。思い当たって腕時計を見れば、十時を過ぎて長針が四を指している。
春樹は背もたれに掛けていたコートを引っ掴み、西島の肩を一つ叩いて西のエレベーターに向かう。すぐに到着したエレベーターを開けて待っていてやると、西島が早足で乗り込んでにっと笑う。
「で、近藤さんいつもと変わりないですけど、どうなりました?」
期待に口元を緩ませた西島から訊ねられたが、春樹は一瞬何の事だか理解が遅れた。
「あー、ああ、プロポーズの件な。断られた」
「え! 何でですか!」
「彼女には全部見抜かれてた。全面的に俺が悪い」
春樹は淡々とプロポーズを断った時の彼女の様子を思い出す。
裏切りに多少心は揺らぎ、僅かな空虚と孤独が襲ったが、それも短い間だけだった。やはり彼女の言うように、春樹は彼女に興味が無かった。
「見抜かれてたって、近藤さん何したんですか」
「何も……ただ俺が、つまらない人間だって事さ」
彼女は春樹が何の情熱も目標も無く、ただ「そろそろ」と言う思いだけで結婚の言葉を使った事が分かっていたのだ。思えば失礼な話。
「結婚する気が無いなら何で彼女さんは五年も近藤さんと付き合ってたんですか! こっちは真剣に結婚考えてたのに、酷いっすよ!」
断られてすぐ振られてしまった事を話すと、西島がまるで自分の事のように憤慨する。この様子じゃ他に男が居た事までは話せない。そこまで言うと殴り込みにでも行きかねない。
春樹は、西島のその感情が分からない。自分の代わりに怒ってくれているのだろうが、何故他人の事でそこまで感情を動かす事が出来るのか、理解出来ない。こんなに自分の事を考えてくれるのかと嬉しく思うが、本人は至って平静な為本音を言えば少し腰が引けてしまう。
ふと春樹は冬真の言葉を思い出す。冬真曰く、春樹は感情を表に出さないだけで、本当は暖かいのだと。
しかしどんなに心の奥深くまで探ってみても、そこには冷たく静かな感情しか無く、西島のような熱いものはどこにも見当たらない。
「まぁそう怒るなよ。俺はこれで良かったと思ってるし」
「そうですか? 優しすぎるんですよ近藤さんは」
「優しい?」
最近同じ台詞を他でも言われた。
冬真、彼も春樹を優しいと言った。
春樹を優しいとするなら、それは人の為の優しさじゃない。怒らないのも泣かないのも、他人の為に感情を動かす事がただ面倒なだけ。
自分のあまりに冷たい心に、春樹は自嘲する。
西島が二本目を吸い終われば、冷たくなったコーヒーを一気に胃に流し込んで背中のドアを開ける。と、振り向き様に下に見える道路で白い影が揺れた気がしてドアに掛けた手を止める。
「近藤さん?」
「……何でもない。早く戻ろう」
バルコニーの端で下の道路を見渡すも、視界をかすめた白い影はどこにも見当たらない。只の気のせいだったとドアから顔を出す西島に首を振る。
風にゴミでも飛んでただけだろう。
仕事に戻った春樹は手を止めて考えた。
自分はあの白い影が一体何だと思って探したんだ?
だらだらと残業を続け、夜の八時を回り庁舎から追い出された春樹はぼんやりしたままバスに乗った。頭が働かず、ろくに回りが見えていなくても長年繰り返した動きを脚は覚えていて、脳が命令を発する前に動く。
しかし電車はそうも行かず、いつもと違う時間に駅に着いた為数分前に出てしまった後だった。春樹の自宅方面の電車は三十分に一本しか来ない。
仕方が無いのでコーヒーショップで熱いコーヒーを買って、時間潰しにロータリーの喫煙所へ向かった。バスから降りた時には気配も無かったのに、ロータリーに出ると降り頻る雪に視界を遮られた。春樹は一度構内へ戻り、傘を買って喫煙所に出た。
一本五百円、勿体ない。
ベンチは雪ですっかり濡れていたため諦め、柵に腰を凭れ紫煙を吐く。こう寒く息も白くては肺から煙が出きったかどうか良く分からない。
春樹は灰皿の角に置いたコーヒーを取ろうとポケットに入れていた手を引き抜く、と同時に何となく中で遊んでいた小さな箱が一緒に落ちてしまった。ころころと雪の中に転がったそれは、もう受け取る相手の居ないリボンのほどけたままの箱。
どこにやってしまったか探すのも忘れていた指輪は、まだポケットに入ったままだった。
柵に預けていた体重を脚に戻し、箱を取ろうと身を屈めると春樹より早く誰かの手が箱を取った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
差し出された箱を受け取り礼を言って顔を上げれば。
「お前、冬真」
降り頻る雪に傘もささず、雪に溶け込んでしまいそうな程白い冬真が、にっこり笑ってどういたしましてと。
「まだ、居たのか」
「そうだよ。言ったじゃん、帰る家ないって」
眉尻を下げて笑う冬真を何となく正面から見れず、春樹は視線を外す。
「だからって何でまたここに居るんだ。とっくに帰るか誰かの厄介になってると」
「誰か?」
「そうだ、別にたまたま会った俺じゃなくても他に居るだろ」
「他の誰かなんて居ないよ。春しか居ないよ。春に追い出されたら、本当にのたれ死ぬだけ」
「何でそんなに俺に拘るんだ? 理解出来ない」
「何でだろう? オレにもわかんない」
言って首を傾げた冬真に、春樹は傘を差し出し呟いた。それは雪に吸い込まれて消えてしまうんじゃないかと思う程小声で。
「……置いて帰って、悪かったな」
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