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第一話「無意識、落ちる音」
深い深い眠りの中、浅野はまた昔を思い出すような夢をみていた。
忘れたい過去。なのに、夢はそれさえも許してはくれないのだ。以前は忘れた頃に繰り返し見ていた夢も、今ではほぼ毎日と言って良い程頻繁に見るようになっていた。まるで忘れるなとでも言う様に。
夢の内容はいつも決まって同じだった。扉の向こう、部屋の中で響いている女の喘ぐ声、高揚して荒々しくなった男の息遣い。どちらも良く知る者の知らない音達。妖しい雰囲気を漂わせるその扉に手を駆け、薄く開いて覗くとそこには…。
「…今日も、か」
じわりと滲む額の汗を手の甲で拭いながら、溜息にも似たそれに言葉を載せて吐いた。
部屋には時計がない。枕元に置いてあったスマートフォンを取り出し、時刻を確かめれば午前五時。二度寝をする気には毛頭なれずに体を起こした。時間にも余裕が有る為ゆったりと準備をしていくうちに、行きたくないという駄々をこねた感情が浮き上がってくる。
「あー…サボりてぇ、切実に。けど、サボった所で持て余す暇の潰し方もイマイチ思い浮かばねぇしなー…」
独り言る。誰も耳にしない言葉をぽつりぽつりと静かな部屋で溜息交じりに響かせていた。普段は見ない朝の番組を何となく見ていれば少し時間は経つ。いつまでも意識を不確かに漂わせている訳にもいかず、仕方なくベットから降りて支度を整える。学校に向かうにはまだ早いが夢のせいもあり、家に居てもあまりいい気分にもなれない為外に出る事にしたのだった。
浅野詠斗(あさのえいと)、二十二歳。大学四年生で、榎元学園の生徒であり、美学美術史学科である。容姿は端麗。左の耳にピアスが二つに、髪型はミルクティ色で短めのツーブロック。服装は派手過ぎず地味過ぎず、良く言えば安い服でも上手く着こなせるセンスを持ち合わせている。性格はとにかく面倒くさがりで、男女への扱いも平等なくらいである。その為か、何故か交友関係に苦労したことがない。飾らない所が良いという声が多い。
登校の時間まで持て余した暇を潰そうと行きつけのカフェに向かおうとしていたその時、ポケットに入れていたスマートフォンが震え、着信音が朝の静かな道に少しだけ響いた。歩みを止めてポケットにあるそれを取り出し、画面に映る名前を見るなり溜息が零れた。浮かんでいる文字は、自分が知る女の中で今一番の苦手とする人物。学園のアイドル的存在であり、某ファッション雑誌で割と人気な読者モデルを務めている四ノ宮恵美(しのみやめぐみ)だ。
「…朝っぱらから…。しつけぇんだよ」
ぽつり悪態を一つ口にしては受話器のボタンを押さず、スリープモードに戻し震えながら音楽を奏で続けるスマートフォンを再び仕舞い込み歩を進めるのだった。
辿り着いたカフェは、OASISという名だ。昼は喫茶店で、夜はBARとなる。噂によると、マスターは元プロレスラーでヒーラーだったと言われている。しかし、未だに浅野はその物腰柔らかな人格からはそれらを感じ取れないでいる。
割と頻繁に通っているからか、顔も覚えられていて常連ならではの『特別』挨拶をいつも向けてくれる。
「やぁ、おはよう色男君。今日もカフェオレかい?」
毎回決まったものを頼む事も頭に入れられているようだ。挨拶に注文の確認を織り交ぜてきた。
「おはよう、マスター。分かってるじゃん、アイスね」
視線を流しひらり軽く片手を舞わせ、問いには肯定を表す答えを返しいつもの席に着く。ふと辺りを見渡せば、見慣れた顔を見付ける。浅野が通う榎元大学の講師、井上凛太郎(いのうえりんたろう)だ。また、井上は浅野が選んだ学科、美術史学科を担当している、同じく彼も常連の一人である。見るからに講師という装いをしている。言うなれば地味なのだ。茶髪で少しくクセっ毛なその先端を指先で摘みながら紙面に目を通している。
お互いがお互いを知りながら、同じくこのカフェの常連でありながら、対面で会話をしたことなど一度もない。だが、いつからか浅野は井上を目で追うようになっていた。マーカーを持つすらりと伸びた細い指。その指がカップの持ち手に移動した後唇に縁を寄せる仕草。紙面に視線を落とす事で伏し目がちになり其処から伸びる少し長い睫毛。
その時――。
ゆるりと視線が絡み合った。刹那、浅野は半ば不自然に横へとずらす。不自然さに違和感んを感じては咄嗟に元に戻した時には再び井上は紙の上へと視線を置いていた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
それを確認したと同時に注文が通っていたアイスカフェオレの波打つ大きめのグラスが浅野の着くテーブルへとマスターの手によって静かに置かれた。確かに、静かに浅野の胸には言い知れぬ何かが灯されていた。
浅野は変な所で几帳面さを発揮する。例えば、アイスカフェオレのグラスに刺すストローを覆う紙は皺を作るのが嫌いで真っ直ぐに抜き取る。丸みを帯びた紙は平たく折ってしまい、小さく畳む。それを見てか、小さく井上がくすりと鼻を鳴らして笑うのが鼓膜を震わせる。だが、視線が再び絡み合うことはなかった。
最後の一口を吸いそれを嚥下させた瞬間、先程道を歩いていた時と同じでスマートフォンがポケットの中で音楽を奏でながら震え出した。取り出し画面を見れば、画面に先程と同じ名前が映る。途端湧き上がるデジャヴの様な感覚と苛立ち。剃り上げている髪の部分を乱雑に爪で掻いてそれを振り払った。
暫くして小さく咳払いをした後に受話器を上げるよう指を画面に滑らせそれを耳にあてた。
「えいとぉ?何でさっき出なかったのよ~。さては女の家に居たでしょ~」
「よぉ、悪ぃな恵美。歩いてたから気付かなかったわ。心配すんなよ、お前からの電話なら例えセックスの最中でも出る」
「やぁだ、さいてー」
適当な返答をしながらリュックを片腕に背負い、伝票を持ちレジへと向かう。聞こえて来る少し高音な甘えた声は自分には耳障りで内心では苛立っていた。言葉では罵りながらも声色で喜んでいると手に取る様に分かる。
『そもそも、ちょろい女には興味ねぇんだよ。まるで…』
頭の中で反響する声。軽い女を見ているとどうしても思い出してしまう。昔を。
振り払う様に、四ノ宮の言葉に自分の声を被せていく。早く終話してしまいたい衝動に駆られながら会計に来るマスターの足取りがいつもより遅く感じて更に苛立ちが込み上げ胸を汚い感情が埋めていく。
「一緒に、お願いします」
まるでそんな気分を全て取り払う様に、自分の物ではない声が真横ではんなりと響いた。吐き出す言葉を止め、ゆるりと双眼の中心を横へと流せば先程と同じ視線が絡み合った。
「今日は俺の奢りです。秘密ですよ?」
吸い込まれる、瞳に。
聞こえなくなる、その声以外は何も。
次第に熱を持っていく。
じわり、と身体の中心に。
確実に、はっきりと、生まれて初めて、浅野は恋に落ちる音を聞いたのだった。
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