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第二話「許されない想い、熱と震え」

忘れられずにいる。先程の出来事が、声が、表情が、仕草が、静かに言葉を紡いだ唇が。寧ろ、取り囲う空気全てが。 その後、浅野は向けられた言葉にこくりと頷くだけでそれ以上の反応が出来なかった。涼しげに微笑みながら店を後にした井上の背が見えなくなるまで見送った後、電話口で騒ぐ四ノ宮の声を耳にし、漸く我に返って行動に移せたといった感じだ。そして今、らしくない自分を発見した原因の人物が目の前にいる。自分の学科の担当である為当たり前の光景。それは変わらぬいつもの光景。なのに、今日は世界が違うような感覚さえ陥っている。 何故か堕ちてしまったのだ。井上という人間の中へと。日増しに、確実に。 それに気付いてしまった今日、どうにもその感情の扱いが分からず戸惑いを隠せないでいる。次々と紡がれる講義の言葉は宙を舞っていた。何も入ってこない程に動揺しているのだ。 「はい。では、今日はここまでです。有り難う御座いました」 そんな自分に少し苛立ちを感じ始めた頃、井上が終わりの合図を告げる。席を外していく生徒や周りの空気が一気に騒がしくなれば、やっとの思いで意識を現実に向ける事が出来た。いくつかの講義を終えれば、帰路には着かずに己の創作に徹してしまおうと考えに至った結果、校内の端の方あるアトリエに行こうとする。歩を進めていれば、突然背後から割と強い衝撃と共に柔らかな感触を受ける。暫く行動言動を止めていれば、互いの体温が布越しで交じり始めた頃に声が聞こえる。 「え~いとっ。見つけた!もう、探したんだからね?」 声だけで分かる。この高音気味で甘ったるい声音は、今朝も浅野に電話をかけてきた四ノ宮だ。 「恵美か。今日は相手しねぇぞ、そういう気分じゃねーの」 「え~、なぁ~んでぇ?今日はすっごく気持ち良くしてあげようと思ったのにぃ…?」 体を擦り寄せて誘っているのは一目瞭然。反吐が出そうな感覚に思わず鼻から笑いが漏れてしまう。 そもそも最初に四ノ宮に近付いたのは浅野自身だ。理由は簡単で、自分のステータスになると考えていたからだ。それは四ノ宮の方も同じだろうと考えていた。しかし、自分勝手なもので己の気持ちに気付いてしまった今は我慢をする余地も無いだろうという思考に成り果てている。それでも浅野も鬼ではない為、傷付く言葉を選ばない。濁して誤魔化している。 「また今度な。お前でもそんな気分じゃねぇ時に熱烈にされちまったら嫌気差しちまうだろ?」 「詠斗にだったらその気じゃなくてもオッケーしちゃうかも?なぁ~んてね、分かったわよ。その代わり、今度詠斗の家にお邪魔させて?」 最近の四ノ宮からのモーションは激しさを増している。何度か抱いたことがある為か完全に彼女面を決め込むつもりなのだろうかと浅野の頭に過ぎる。それは些か面倒なことになる。浅野が抱いた女は勿論四ノ宮だけではない。それは四ノ宮も承知の上だと思っている。では何故、最近勢いを増しているのか。それはきっと、浅野を完全に自分の物にしてしまいたいという考えからきているのだろう。それは他の女も同じなのだろうが、その中でも四ノ宮が全面に出してきている。学園のアイドルが相手となれば太刀打ち出来ないと内に秘めているのだろう。同じくして秘めていてくれればいいのに、と切望するばかりだ。 「気が向いたらな。いいから早く離れろよ」 「もう、意地悪なんだから。けど、そういう所もす…」 四ノ宮が後ろから抱き着いたまま構わず歩を進めていると、漸く辿り着いた美術室に入ろうとした所を視界に井上が入ってきたため思わず四ノ宮を引き剥がす形で体を動かす。 「やぁ、浅野君。と…彼女さんでしょうか」 「こいつとはそんなんじゃねぇっすよ」 穏やかな笑みと共に向けられる言葉は軽く浅野の胸を抉った。恋愛感情を抱いている相手に勘違いをされる程辛いものはない。思わず跳ね除ける様な強い口調で返してしまう。気付いた瞬間から意識してしまっている自分がいた。違和感を感じる四ノ宮が強引に割って入る。 「詠斗、私待ってるから一緒に帰らない?」 「…今日は帰れ。いいから」 その言葉には無意識に圧を加えていた。そして、心中では強く帰ってくれと願っていた。 「分かったわよ。また明日ね、詠斗」 そう告げるなりゆっくりと名残惜しそうに離れた四ノ宮は美術室を後にした。やっと折れてくれたことに浅野は深く胸を撫で下ろしていた。その様子を終始見ていた井上が先に口を開いた。 「もしかして、俺は邪魔だったかな?余計な事を言ってしまっただろうか」 そんなことは絶対にないと言いたいのに口を開かずにいた。零れてしまいそうになる想いが波の様に押し寄せて来る。勝手に、視線を真っ直ぐに向けて歩が井上へと進んでいく。何も答えない浅野に井上は頭上に疑問符を浮かべているが、そんな物は浅野には見えていないのだ。 気持ちが高揚していくのが分かる。朝と同じ、井上に、恋に落ちていく音を聞きながら近寄っていく。分かっているのに止められない。許されることではない、あってはならない。生徒と講師、男と男という概念も取り払われていく。少しだけ井上は後退り、机に軽く腰をぶつけてしまう。 「…っ、浅野君?」 指の背でさらりと乾いた薄い唇を撫でた後、顔を近付けていく。戸惑いを隠せず視線を泳がせる瞳を薄めた双眼で見据えると、小さく掠れた声で言葉を吐く。 「呼ぶなよ。全部持ってかれちまいそうだ…」 震える唇と熱を帯びた唇が、柔らかく重なった。

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