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第三話「噛み合わない感情、過去の記憶」

重なる唇、重なる吐息。まるでこの空間だけ時間が止まったような感覚。動かない井上に止まりそうにない衝動で浅野はそろりと舌を伸ばすも、井上は漸くゆっくりと顎を引いて唇を離し少し下を向いた。 「なに……。何をするんですか、いきなりこんな事。俺をからかってるんですか」 羞恥心が湧いているのか、耳まで紅潮していて紡ぐ言葉も囁きに近い。浅野はまだ、欲している。届きそうで届かない唇に歯痒ささえ込み上げていた。額を重ね、緩くそこを押して再度口付けを試みるも、抵抗を表して頑なに動かず井上は下を向いたままだ。 「…聞きてぇのは俺の方だ。アンタ先生だろ。だったら教えろよ…。何で俺がこんな気持ちになってるのか」 問う言葉が支離滅裂なことは分かっていた。自分自身でも分からない感情で何を言っているかなど当に分からなくなっている。何故自分はいつの間にか、知らぬ間に井上に対してこの様な感情を抱く様になっていたのか。しかもその相手は、己の講師であり、ましてや男。考えれば考えるだけ疑問は生まれるばかりなのだが、どうにも止められない情熱に苛立ちさえ覚えてきている。 「そんなこと言われても…分かりませんよ」 お互いに混乱しているのは分かる。それでも、浅野は強く重ねた額を押して欲のままに井上の唇を奪った。 「…んっ…」 唇から伝わる震え、鼓膜を叩く吐息と曇った声は更に浅野の熱を煽らせていくばかりだ。何度も熱が移った柔らかな唇を食み、角度を変えて深く唇を繋ぐ。だが、弱々しくも両手で胸元を押されてはそれを断ち切られる。 「…これ以上は、あかんよ」 余裕が無いのか、普段から紡ぐ言葉とは少し違う。それを感じてか浅野は強く自分の欲望を押し付けていく。理不尽なのは承知だが、どうにも止められないのだ。 「駄目だと言われりゃ、欲しくなるのが人間だろ。それとも、そうやって誘ってんのかよ」 井上は俯き気味に横を向く。目の前で露わになる白い首筋がまるで浅野を誘っている様に見えた。堪らずそこへ噛み付こうとした瞬間、廊下で生徒の笑い声が響き、我を取り戻す。女であればまだしも、男にここまで求めてしまった自分に驚きを隠せないまま素早く井上から離れる。どうしていいか分からないといった井上を暫し見据えた後、浅野はその場から離れた。 廊下を歩みながら考えている。何故井上に情を欲してしまったのか。何故奪ってしまう程の口付けをしてしまったのか。行きつく先は一つしかなかった。認めたくないと思う反面、恐怖すら感じていた。あの日以来、浅野は恋をすることすら忘れていたのだから。  数年前。 浅野がまだ高校に入りたての頃の話である。浅野は美術に関してはピカイチだが、他の勉強はそれほど得意ではなかった。そんな時、美術部でOBの先輩に教えてもらえることになった。それは一日ではなく、次第にほぼ毎日といっていいほど見てもらう様になっていった。素直にそれを親切だと思っていた。浅野自身は、恐れ多く思いながらも兄の様に慕っていたのだ。 ある日、休憩を取っていると浅野はそのまま眠りについてしまっていた。目を覚ますと先輩の姿は無く、既に帰ってしまったのだと思った。悪い事をしてしまったと自分を責めていると、部屋の外から何やら物音が響いた。まだ家の中に居るのだろうか、と浅野は部屋を出ると、両親の寝室から物音は響いたようだったので静かに耳を澄ませてみる。すると、男女の声が密やかに聞こえた。父親は仕事のため男が父親であるはずがない。女の声は母親だということはすぐに分かった。済ませた耳から聞こえて来るのは、潜めた声と荒々しい息遣い。それは自分の良く知る者達の声。そして、無意識にドアノブへと手が伸びていた。力を込めて薄く開いた先には、母親と先輩が交わっている姿。至極混乱に見舞われ眩暈さえ起こる。手からドアノブが離れ、自然と大きく開かれていく。それに気付いた二人は言い訳の言葉を飛び交わせる。それを聞き入れるよりも先に飛び出していた。遠く、このまま忘れてしまえるほどどこか遠く。突き付けられる現実から逃げるように走っていた。 それ以来浅野は誰かに恋をするということを忘れてしまていた。恋や愛という物が分からなくなっていたのだ。 思い出している最中、それを断ち切る様に首を左右に振った。きっと何かの間違いで、先程の欲情は興味本位から生まれた物だと言い聞かせた。 自宅に漸く辿り着けば、浅野はスマートフォンを取り出しメッセージを確信する。数件友人からのメッセージに返信をした後、一つの名前で画面を滑る指が止まる。四ノ宮から何件も連続で送られているのだ。それには小さく溜息を漏らした。 「マジでしつけぇ奴。金持ちでそれなりに容姿良けりゃ俺じゃなくてもいいんだろ」 他と同様、適当に返信をしスマートフォンを枕元へと投げた。こういう所はまた几帳面な一面だ。浅野はあまり友人からのメッセージを無視したりしない。ただ、自らは会話の終わりを促してくスタイルである。 ふと、アトリエでの出来事を思い出す。奪った唇が柔らかかったこと。何度か鼓膜を叩いた甘ったるい吐息と声から煽られる高揚感。この感情を認めてしまえば楽なのだろうかとも思うが、浅野はそれを許さなかった。一時の感情や気の迷いで決めてしまうなんて、と。けれど、確かに燻っている。恋の炎が。 一日中そんなことを考えていたからだろう、心なしか疲れてしまっていた。色んな感情や記憶を振り払うかの様にシャワーを浴び、早々に眠りに就こうとベッドへ乱暴に巨躯を横臥させた。 残っている、何度も何度も奪った柔らかな唇の感触。講師で自分よりも遥かに年上だと思わせない余裕を失った表情。弱々しく胸元を押して来た手の震え。無意識に一つ一つを余す事無く思い出している。そんな自分に戸惑いを隠せないでいた。けれど何処かその感情は心地良い物ではないのかと錯覚し始めている。 『きっと眠気と疲れのせいだ』 頭の中でそう呟いた後、意識を底に沈めていった。

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