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第五話「苛立ち、そして違和感」

「お待たせ致しました、ごゆっくりどうぞ」 若い青年の声が響き、かちゃりという軽やかな食器の音に張り詰めた空気を遮られる。先程までその姿は見えなかったが、奥に居たのだろう。浅野は視線を青年に配り表情を窺うと声の調子も合わせて先程の会話は耳に入れてはいないようだった。あくまで、予想ではあるが浅野は人の感情等を読むのが得意だ。大体は間違えたりしない。 「有り難う御座います、水卜君」 水卜と呼ばれる人物に軽く挨拶を交わす井上。応えるように水卜が笑みを返し緩く片手を挙げつつ再び奥へと去っていった。離れたカウンターにマスターが一人。これなら会話も内容までは聞き取れないだろう。 「で、いいのかよ。講師が生徒にそんな提案しちまって」 「…秘密事というのもまた、君にとっても興奮材料になるんでしょう?」 「言ってくれるじゃねぇか」 駆け引きを楽しんでいる。そういう風に見受けられる井上に浅野はその言葉通りに感情を煽られていた。頭に過ぎるのは、この男は自分と同等、あるいはそれ以上と。 「さぁ、浅野君。せっかくのカフェオレ、氷が溶けて不味くなってしまいますよ」 促されるままグラスに目を向け、ストローの紙を丁寧に抜き取り折り畳んでグラスに刺しその先端に唇を寄せた。それを終始見ていた井上が少しだけ意外だと言わんばかりの言葉を浅野に向けた。 「浅野君は几帳面ですよね。そういう細かい所から、君を知って行きたいと思いました」 薄い唇が緩やかに弧を描く。それがとても綺麗に見えた。何故こんなにも惹き付けられるのか、浅野自身も明確には分からないけれど、はっきり言えるのは。 『あぁ…やっぱ俺はコイツに惚れてるんだな』 まざまざと感じる。昨日のように打ち付ける波の如く感情が押し寄せるよりもじわりと優しく滲んでいく様な感覚。これが"恋"なのだと初めて知った瞬間でもあった。自然と気持ちは穏やかになっていた。認めてしまえばこんなに楽なのかと浅野は少し驚いている。けれど、そんな事よりも秘密事とは言え井上と付き合える喜びとこれからどうなっていくのかという期待と不安が入り混じる感情を抱く。井上が何を考え、このような事態に陥ったのかが分からない今は流れに身を任せてしまおうと決める事にしたのだ。 浅野が最後の一口を飲み干すと、井上も最後の一口を煽る頃だった。いつも井上が口にしているのはホットコーヒー、ブラックだ。お互い細かな所から知って行ければいいという井上の思考と同様で、浅野も知って行きたいと思っていた。だから余計に細かな所まで気になる。コーヒーを口にした後は濡れた唇を舌先で拭う仕草も、自分の様な節くれだった指ではなく、すらりと伸びる指先で参考書を捲る仕草一つ一つ。少なくとも今だけは全部自分の物なのだと思うだけで何か言い知れない感情を抱いた。 「さて、俺はそろそろ行くけど…浅野君はどうする?」 井上が参考書を閉じ、荷物をしまい始めた。浅野も長居をするつもりも無かったので、リュックを片腕に背負い伝票を持つ。すると井上がそれに手を伸ばしてきた。 「俺が払いますよ。年下に…ましてや生徒に奢られる訳にはいかないですから」 「別に気にすることねぇだろ。それにこの間は"今日は奢り"って話だったろ。せめて、今回は割り勘にさせろって」 爪先をレジの方に向けて歩を進ませるも、素早く伝票を奪い浅野よりも先を歩こうと通り過ぎていく際に井上は自分では精一杯の意地悪そうな笑顔を見せた。 「コレは俺の我儘でプライドですよ」 そう言われてしまうと何も言い返す事は出来ない。社会に出ればそういうマナーというものがあるということをバイト先でも教えられている為頭に入っている。これ以上は失礼にさえ値すると浅野は何も言わず井上に続いてレジへと歩んだ。 初めて二人で並び歩む登校道の途中、いつものあの甲高い声が響いてきたと同時に強い衝撃が浅野を襲う。嫌な予感はしていたが、そういう時に限って当たってしまうのだ。 「えーいとっ!待ってたんだからぁ。つ~うわ、冷たい事言わないでよねぇ~」 四ノ宮は読者モデルだ。すらりとした見た目にそぐわず隠された様に持つ豊満な胸を押し付けながら左腕に抱き着いてくる。正直井上への気持ちに気付いてしまった今、四ノ宮の存在が疎ましくて仕方ない。いや、以前から疎ましくは思っていたが余計に、という意味でだ。 「俺は思ってる事を口にしたまでだ。離れろよ」 左腕を四ノ宮の体が離れるように動かすと、すっと井上は浅野達を通り過ぎ行ってしまった。その瞬間更なる苛立ちを覚えては立ち止まり四ノ宮を冷ややかな双眼で見据える。 「なぁ、お前さ、数回抱いてやっただけで彼女面すんじゃねぇよ。お前以外の女抱いてる事も知ってんだろ。下心見え見えなんだよ。いい加減ただの暇つぶしで性欲ぶつけられてただけだってのに気付け。今後必要最低限俺に近付くな。ぶっ殺すぞ」 この上なく威圧を加えていた。これまで浅野は女性を傷付けることはしてこなかった。だが、今回は堪忍袋の緒が切れたのだろう。毎日この調子では浅野も堪った物ではない。ましてや井上との共有する時間が減ってしまうのは考えただけでも腹が立つのだ。完全に井上が浅野の物になった訳ではない。期間が設けられている中での四ノ宮の存在は邪魔でしかなかった。 面食らった顔を浮かべる四ノ宮を尻目にすたすたと浅野は歩を進ませていく。漸く井上の横に着くと並んで歩いていく後姿を呆然と見る四ノ宮は違和感を覚えてしまう。浅野が自然と誰にも見せない表情をしていること。それは憧れの眼差しやそういう物ではないこと。 「覚えてなさい…あの地味男。私に恥をかかせたこと、思い知らせてあげるんだから」

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