10 / 132

第10話

 翌日。  天は上司である豊に事情を説明し、外回りの合間に警察署に寄った。  昨夜書かされた書類と同じようなものを再度書かされはしたが、無事に眼鏡を受け取る事が出来た。 潤いわく「血まなこ」で探すよりかはすんなりと手元に戻ってきた。  署内で拾い主に礼をしなければと言うと、その必要が無い匿名での届け出だったそうで、面倒な手続きはそこで終了しホッとした天だ。  だがしかし、警察署を出る天の顔は強張っていた。  何もやましい事などしでかした覚えもないのに、運転中にパトカーが後続車に付くと妙にソワソワしてしまう、あの感覚をそっくりそのまま味わっている。  何やらすれ違う人から視線を感じるのは気のせいか。  通りを歩いていると、肌寒さにぶるっと体が震えた。  秋の風が吹き抜けるビル街。  薄手のコートから冬物に替えるのもそろそろだ。 『───あ、吉武か? 眼鏡受け取れた?』  まさに会社付近まで帰ってきたところに、豊から着信があった。  就業時間中に私用で抜けてしまうというのに、あっさりと「行ってこい」と言ってもらえたのはランチや週末で彼と密な時間を繰り広げている賜であろう。  はじめは、性をバラされたくない、バラされたら終わりだという恐れがあり、彼とはビクビクしながら接していた。  けれど近頃はそんな思いなど微塵もない。  仕事上では以前にも増して気を使ってくれ、アドバイスまで伝授して便宜を図ってくれる豊に天はすっかり懐いている。 「はい、無事に」 『そうか、良かったな。 昼は戻れそうか?』 「間もなく会社に着きます」 『お、じゃあ俺も降りる。 昼メシ食おう』 「分かりました。 ロビーで待ってます」  いつもの調子で、いかにもそれが当たり前だと言わんばかりに誘ってくれて嬉しかった。  スマホを握ったまま、緩みそうになる口元を引き締めて自動ドアをくぐる。  豊が、社員食堂ではなく外で昼食を取ると知った女性社員が「自分も自分も」と声を上げる様子が目に浮かんだ。  天はささやかな優越感を覚えて、この数ヶ月で一皮剥けたどころか嫌な奴になり始めた我が身を叱咤するため、社屋一階のトイレへと入る。 「俺は浮かれていい人間じゃないだろ、ばか」  鏡の中の自分を睨み付けて叱咤し、風で乱れた髪をササッと直した。  誰にも打ち明けた事の無かった性別を、今は誰よりも信頼している豊だけが知っていると思うとどうしても気が抜けてしまう。  さりとてこうも油断していては、またもや発情期を甘く見て惨事を招き、大変なことになるかもしれない。 「俺はβ、……βだ」  ゴシゴシと冷たい水で必要以上に手を洗い、もう一度鏡の中の自分を見て気合いを入れ直すと、豊と落ち合うためにロビーへと足を運ぶ。  手持ち無沙汰で何気なくスマホを取り出そうとしたところに、ちょうどLINEメッセージの通知音が鳴った。 「……あれ、潤くんだ。 高校生は授業中なんじゃないの?」  間もなく会社員は昼休憩に入れるが、まだ学生である彼は授業中なのではと訝しみつつメッセージを開いてみる。  そこには、昨夜の事が気になっていた様子の人懐っこい彼らしい文面で一言、「めがね受け取れた?」とあった。  昨夜の潤の気の利く様子から、天の昼休憩に合わせてメッセージを送ってきたような気がした。 「 ″受け取れたよ。昨日はありがとう″ 、……っと。 あ、返事しない方が良かったかな」  送ったあとになって気付いた。 潤がマナーモードの設定をし忘れていたら、教室中に軽やかな通知音が響くだろう。  それが元で教師から叱られでもしないかと、歳上らしく軽率に返事をしてしまった事を悔いたがそんな心配をよそにすかさず画面が動く。 ″良かったね。 僕、役に立った?″ 「ぷっ……。 昨日と同じこと言ってんじゃん」 ″役に立ったよ。 マジでありがとう″ ″週末のご飯、楽しみだね。 何時に待ち合わせ? 天くんは土曜日も仕事? ところで何食べる? 好き嫌いある?″ 「いやいや、授業に集中しろよ」  通知音が何度も響いて笑ってしまった。  短文で区切り、いくつもメッセージが連なるそれに返事をしてやろうとした天は、背後から髪をくしゃくしゃにされてムッとしながら振り返る。  ついさっき乱れを直したところだというのに誰だ。  ……とは思わなかった。  優しげでどこまでも颯爽とした男前な上司、豊の香水の匂いが鼻を掠めたからだ。

ともだちにシェアしよう!