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第54話 ─潤─
ここへ来てからというもの、ずっとしょんぼりと項垂れている天がついには膝を抱えて丸まった。
潤も、自らの性を打ち明けようと思った。
ギリギリまで悩んだ。
口ごもるとかえって天の不安を煽るかもしれないので、あの一瞬で決意してしまったけれど本当は言いたかった。
何気なく振り払われた自身の手のひらを見詰めていた潤は、ゆっくりと立ち上がる。
窓辺まで歩み暖房を入れると、おもむろにカーテンを開いて雲がかった月を見上げた。
毎晩、天と通話をする時に必ず眺めていた夜空。 この夜空の下のどこかに天が居ると思うと、何だかやりきれなかった訳をついさっき知ってしまった。
天を誰にも触れさせたくない。
天は自分にだけ触れていればいい。
誰かが天に触れるなど、考えたくもない。
万が一にも、天が潤の居ない場でヒートを起こしたら───想像しただけで嫉妬に狂いそうになる。
こじんまりとなった天を振り返った潤は、これはやはり自身のα性による支配欲という事になるのだろうかと、ふと思った。
「───天くん」
「………………」
「緊急抑制剤、半分しか体に入ってないから明日病院に行こう。 僕も付き添う」
「え、半分? 半分って?」
顔を上げた天は、口元を覆っていたマフラーをずらして潤を見上げた。
てっきり、いつもの天のおっちょこちょいが発動してドジを踏んだのだとばかり思っていたが、本当に天は知らなかったようである。
「……なんでヒート起こしたんだろ。 俺、フェロモン感じなかったよ?」
「確かにΩは同性のフェロモンの影響は受けない。 でもね、緊急抑制剤を半量打つか、あらかじめ抑制剤の服用をしていないとヒートを誘発しちゃうんだよ。 天くんにも影響が出ちゃったって事」
「あ……だからあの人……」
「あの人?」
「俺が倒れた時、すっごい慌てて抑制剤がどうとか言ってたんだ。 ヒートが治まったと思ったら俺があんな事になっちゃって、かえってあの人に悪い事しちゃったな……」
「そっか……」
知らなかったでは済まないよ、とつい叱りたくなった。
まさか潤が緊急抑制剤を常備していたなど知らない天は、それこそ入念に自身の性についてを学んでおかねばならなかった。
世間を、そして潤にも性別を偽るにしては詰めが甘い。
不安でたまらなくなる。
α性のみならずβ性をも虜にするΩのフェロモンは、以前天が言っていたように本能を直に刺激するのだ。
いつどこでヒートを起こし、誰彼構わず襲われてしまうか分からない危険と隣合わせだという自覚と知識は、常に持っていてほしい。
それこそ、天お得意のおっちょこちょいでは済まなくなる。
はぁ、と深い溜め息を吐く天に、窓際に居た潤は近寄っていった。
彼の性を知ってしまったからなのか、想いに気付いたからなのかは分からないが、どうにも天が可愛く見えてしょうがない。
「もう、……ほんとに心配したんだからね。 話せない気持ちも分かるけど、僕にだけは教えといてほしかった」
ベッドに片膝を付きマットレスを軋ませると、ちんまりと丸まった体を抱き締めた。
何故だか、そうせずにはいられなかった。
……小さい。 思った以上に華奢だ。 おまけにシャンプーのいい匂いが鼻を掠め、潤はたまらず愛おしげに天の髪を撫でていた。
「いやでも……って、ちょっ! 潤くんっ」
「天くん……あのね、僕、……」
「で、でも、潤くんがβで良かったよ!」
「…………え、?」
性別は偽れても、想いは隠せない。
天に触れ、匂いを感じ、抱き締めてしまうともう止まらなかった。
しかし、思い切って告げようとした潤を非力な腕で押し戻した天から放たれたのは、思いがけないものだった。
偽りの性を、まさに疑う事なく肯定された潤は、ベッドに片膝を付いたままピシッと固まる。
そそくさと潤から離れた天はベッドの隅っこに座り直し、明らかな距離を取って早口で語り始めた。
「俺、この先も誰とも番になる気なんてないし、うなじ噛まれてαに支配されるのも嫌だし、だから、潤くんも黙っててほしい……いや、俺の性別については忘れてほしいと思ってる。 助けてくれたのに勝手な事言ってごめん。 でも俺は、これからもβとして生きたいんだ」
「………………」
暑くなってきたのか、天はマフラーを外して綺麗に畳み、膝の上にちょんと置いた。
唖然とその様子を眺める事しか出来ない潤の心臓が、ドクドクと大きく鼓動を刻み始める。
性別は関係ない。 潤はただ、想いを伝えたかっただけだ。
けれど天は、さらに追い打ちをかけてくる。
「こうやって人に迷惑かけちゃう俺みたいなΩも、俺達を支配しようとするαも許せないんだ。 今日だって嫌な事いっぱい聞いた。 まるで俺が非難されてるみたいだった。 すごく、嫌だった」
「………………」
「俺、……潤くんと同じβがいい……発情期間が迫る度にうんざりする。 自分の体が自分のものじゃないみたいになるヒートが怖い……俺は死ぬまで、βでいたいよ……」
「………………」
Ωの葛藤は、Ω性の者にしか分からない。
稀に見る特異性で生まれたα性の潤の葛藤など、天から見れば何ともちっぽけに映るだろう。
天が性別を隠そうとしていた理由は、母親のためだけではなかった。
性が確定してからいくつも耳にしたであろう差別的な声と、周期的にやってくる自身の体の異変にひどく怯えている。 世の中に蔓延る性別の区別が、天には許し難いと言う。
───言えなくなった。
偽り続ける決意はしたものの、潤は心のどこかで望みをかけていた。
いつか、……いつか、潤の想いが伝わる日が来たら、自分はαなんだと打ち明けて番になれたらいい───。
誰とも番になる気はないと、想いを告げる前にこう断言されてしまうとは思いもよらなかった。
「……天くんの気持ちは分かった。 僕は今日のこと忘れるよ。 それで天くんが救われるのなら、……忘れる」
「…………ありがとう、潤くん」
天と距離を取ったまま力無くベッドに腰掛けた潤は、横顔に愛おしい視線を感じた。
潤は、性を打ち明けるどころか想いも伝えられなくなってしまった。
『何も心配しなくていいよ』
そう言って頬を撫でてやりたいのに、出来なくなった。
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