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第56話 ─潤─

 今度は力加減に気を付けて、寒さ対策が万全な天をふわりと抱き締めた。  拒否されなかった事に驚きつつも、どうにか泣き止ませたい一心で華奢な体を掻き抱く。  天が気に病むから言わないだけで、潤の心はすでに本当の片想いに片足を突っ込んでいる。  おとなしく腕に収まる愛おしさに、衝撃的なまでに本能を刺激されたフェロモンのにおいが唐突に蘇ってきた。 「痛くない? 大丈夫?」 「……うん」  潤の腕の中で、焦げ茶色の髪が小さく揺れた。  こうして抱き締めていると、嫌でも甘やかな想いがどんどんと内側から溢れ出してくる。 ダメだと分かっていても、打ち明けたくなってしまう。  「誰とも番になる気はない」と言い放った、絶望した天の台詞に悲しくなってしまう。  α性の特色を抑え込んでいる立場の潤が言えた事ではないが、そこまで卑下し悲観する必要は無いのではないか。  天を抱き締めた腕には、いつの間にかさらに力が込められていった。 「ねぇ、天くん」 「…………ん、」 「今日の事は忘れるって言ったそばからこんな事言うのもどうかと思うんだけど、僕はΩ性って素敵だなって思うよ」 「………………」 「身体的な男女の境が無きに等しい、人類の神秘だよ。 β性もα性も経験出来ない事だ。 それも一つの個性じゃないのかな? って、そんなに楽観的にはなれないって怒っちゃうかな。 ごめんね」  天の苦悩も葛藤も共感はしてやれる。 だがしかし、彼の性についての恐れを払拭させてやりたかった潤は持論を展開した。  本音を言えば、『望みを絶やされたくない』。 これに尽きる。  天の性別の特異性上 "いつか" は期待出来ないけれど、彼の傍に居るための決意は固い。  これまでも意識的にやってきた事だ。  潤には何ら、天が抱えるほどの不安要素は無かった。 「いや、……潤くんが言うと、……教科書よりすんなり受け入れられる」 「ほんと?」 「俺、思ってたんだ。 潤くんなら、もし俺がΩだってバレてもバカにしないでいてくれるかもって。 ……その通りだった」 「性別が重要だとは思わないって話したからかな」 「……うん、そう。 今日だって、助けてくれた。 ……感謝してる。 ほんとに……っ」 「あっ、も、もう、泣かないでってば!」  潤への嘘の罪悪感が相当なものだった事が窺える。  謝罪を口にしながらまたもや鼻をしゅんしゅんと啜り、潤の胸に顔を押し付けて呻き始めた天が、とてつもなく可哀想で可愛かった。  母子家庭だから母親に苦労をかけたくないと、友人も作らずたった独りで抱えてきた性別の葛藤。  潤にも当たり前のように嘘を吐いた頑なな天は、この世に理解者は居ないと絶望したまま孤独に生きていくつもりだったのだ。  可哀想。  本当に可哀想で可哀想で、……なんといじらしくて、可愛い人だろう。 「大丈夫だよ、天くん。 知っちゃったからには、僕が全力で天くんを守ってあげる」 「高校生にこんな事言わせて……情けないな、俺……」 「今ここで僕が高校生なのは関係ないでしょ! 怒るよ!」 「……あはは……っ、ごめん」  見上げてくる泣き腫らした瞳が僅かに細まって、その遠慮がちな笑顔と軽口に安堵した潤も負けじと言い返す。  「ありがとう」とはにかんだ天は潤の腕から離れてしまったが、突然の年上らしさで重苦しい空気を切ってくれた。  マフラーもアウターも手袋も外し、今日はここに居るという確かな意思をも示してくれて心からホッとする。  潤の言う事を聞かずに帰ると言い出したら、彼の住まいまでついて行くという切り札を出すつもりでいたので、正直なところそこまではしたくなかった。  ───天が嫌がるからだ。 「あ、これ……潤くんが作ったの?」  脱いだアウターを受け取り、ささやかなクローゼットにしまっていると天が首を傾げて問うてきた。  まさしく緊急事態が発生してしまい、今日こそコース料理を振る舞っていいところを見せようとした潤はやや得意気に頷く。 「うん。 多めに作ったから半分こしない?」 「んー……ほんとに食欲無いんだよな。 でも味見だけさせてほしい、かも」 「いいよ」  どれほどの負担がかかるのかは知る由もないけれど、ヒート後の体を考えれば天が遠慮しているわけではない事くらい分かる。  元々少食な天には、お裾分けがちょうどいい。  簡易的な住まいの此処では決して満足な時間は過ごせないかもしれないが、天を独りにさせたくなかった潤は初めて離れ家をありがたいと思った。  高校生の時分は歯痒い。 ただし、甘えられる。  彼の最大の隠し事を知ってしまった今、潤は存分に寂しがり屋を発揮出来る。  ことごとくいいところを見せられていないけれど、今日という特別な日に朝まで共に居られるのは素直に嬉しい。  フォークにパスタを絡ませて天の顔まで持っていくと、言わずとも小さな口が開いた。  潤が見守る中、ゆっくりと咀嚼する姿はどこからどう見てもハムスターである。  頬と顎を動かしながら、天は飲み込まないうちから「んんっ」と感嘆の声を上げた。 「お……美味しい。 潤くん、あの短時間でこれを?」 「もっと食べる?」 「あ、いや……ごめん。 もう食べられない」 「そっか」 「また今度、食べさせてよ」 「…………うん」  自らの口へ運ぶために、フォークをくるくると回していた潤の手が止まる。  ───「また今度」。  天は無意識に放ったのかもしれないが、潤も思わず食欲減退してしまうほど胸が熱くなった。  今日で終わりではない。 天の秘密を知ってしまっても、潤は彼の傍に居る事を許された、という事だ。  不実による自らの偽りは、この際見て見ぬフリをしていよう。  何しろ今日は、天の誕生日だ。  こんなにも大切な日に、次から次へと天に衝撃を与える事も無い。  食べ終えた潤は、部屋の中を探検していた天を呼んだ。 「明日、やり直しさせてね」 「やり直し? なんの?」 「天くんの誕生日だよ」 「あ、……! ちょ、ちょっと待って」  そうだった、と苦笑した天がポケットの中からスマホを取り出す。  誰かからの着信らしい。 「外出て話してくる」 「気にしなくていいよ、外は寒いからここで話しなよ。 僕は食器片付けてくる」 「あ、……ありがと」  潤に聞かれてはマズイ電話なのだろうかと疑ってしまうのも、自覚してしまったがゆえのヤキモチだ。  しかも、───。 「お疲れ様ですっ」  と、天が元気いっぱいに応じた相手が容易に想像でき、もっと妬いた。  聞き耳を立てていたかったけれど、少しでも相手より優位に立ちたい幼い潤は、天の頭を撫でてから本宅へと向かった。

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