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第71話 ─潤─
… … …
助っ人を求める大袈裟な電話でバイト先に駆け付けた潤は、締め作業までこなして帰宅してすぐ、気付いた事が三つあった。
一つ目。 天の部屋に潤ではない他人の気配、……いや残り香があった事。
二つ目。 玄関の戸を開けてすぐに目についた、綺麗にまとめられた潤の荷物。
そして三つ目は……意を決したような天の表情だ。
「あの……天くん、何してるのかな」
「おかえり。 お疲れ様」
まとめられた荷物を無視してコートを脱ごうとした潤の動作を、天が止めている。
脱ぐな、という事なのだろう。
二言目には聞きたくない台詞が飛び出しそうで口を塞ごうとした潤だったが、冷気を帯びた掌がまだ冷たいので天に触れられなかった。
「もう泊まらなくていい。 潤くんはお家に帰りなさい」
「……嫌だって言ったよね、僕」
「それでもダメ。 帰りなさい。 こんなに連泊してたらご両親が心配するよ」
「ちゃんと連絡は入れてるから大丈夫だよ。 ……ていうか天くん、この家に誰か来たでしょ」
「あ、……っ!」
小さなファンヒーターの前にしゃがみ込み、掌を温めながら天を見上げた。
黒目を泳がせる彼は、とても分かりやすい。
「誰? もしかして例の上司?」
「いや、あ、あの……」
潤の問いに、天が掌をモジモジし始めた事で答えは聞けたも同然だった。
微かにこの部屋に漂う香水の匂いは、もちろん潤のものではない。
しかしながら腑に落ちないのは、何故か二種類の香りがするのだ。
来なくていいと牽制したはずの上司がここへ訪れた事も気に食わないが、なぜ二種類の匂いがするのかといえばそれは、来訪者が二名居るという事である。
「確かに上司は来たけど、奥さんも一緒だった」
「奥さんも? ……どうして?」
「知らないよ。 俺の事確認しに来たんじゃない? 俺が男かどうか。 会っても開口一番「ほんとに男の子!?」って驚かれた」
「……疑いを晴らすために来たっていうの? 目的は別にあったんじゃない?」
「あ、そうだ。 潤くんにお礼がしたいって、……これ持って来たよ」
立ち上がった潤から遠ざかり、隣の和室に向かった天の手にシンプルな白地の紙袋が握られていた。
それを見た瞬間、潤の血の気が引く。
「こ、これ……」
「それは潤くんにだって。 一日置いた方が美味しくなるらしいよ」
「………………」
───やっぱり。 ……やっぱりそうだ。
電話越しに漏れ聞こえていた上司の声。
野菜を切りつつしっかりと聞き耳を立てていた潤は、どこかで聞いた事のある声だと記憶を巡らせていた。
その答えに辿り着いたのはバイト中で、それでもまだ信じたくなかったそれが今、紛れもない事実となった。
天が差し出してきたのは、時任家の親戚が二年ほど前に開店した高級生食パン店の紙袋である。
失礼極まりないが、年始早々食パン店に行く者など限られているだろうし、これほどピンポイントで時任と名の付いた店のものを購入するなど潤の知る上ではあの男しか居ない。
"まさか" とは思っていた。
天がSAKURA産業に勤めていると知り、まずそこで接点を見出した。
潤が語る件の夫婦の話と、天の上司夫婦の話も気味が悪いほど似通っていて、偶然にしてはおかしいという疑問はある理由から脇に追いやっていた。
「……お礼も何も、僕は好きでここに居るのに」
「「俺の部下が世話になってるからせめてもの気持ちだ」……だそうです」
「……ふーん」
まだ本人に確かめていないのでそうとは限らないが、潤に礼だと言って食パンを置いて行ったのは十中八九、我が兄であろう。
二種類の香水の理由が判明し、色々と腑に落ちた。
わざわざ後輩の見舞いに行こうとする夫に、普通は妻がついて来るはずがない。 その妻とは、真実を知るためにお供した……美咲だったのだ。
「……で? この荷物は何? 僕を追い出そうとしてるよね」
掌が温まってきた潤は、すかさず天の手を取って握った。
兄の事はとりあえず置いておき、先程から視界に入る自身の荷物を指差して瞳を細めた。
「いやだから、さっきも言っただろ? そう何日も泊まっちゃダメだって」
「まだ発情期終わってないじゃん。 夜はどうするの? フェロモンに誘われて誰かに襲われたらどうするつもり?」
「そ、それは、自分で何とかする。 イけばいいって分かったから、自分で……」
「天くんが自分でするなんてすごくそそられるんだけど、それは僕の役目だよ。 何のために僕がフェロモンの影響受けないようにして来てると思ってるの」
「……潤くんに迷惑かけられないって、俺言っただろ。 どんな方法で影響受けないようにしてるのか知らないけど、絶対体には良くない事してるよな?」
言い合いの末、うっ…と一瞬だけ言葉に詰まったのは潤の方だった。
良くない事はしているかもしれない。 ……
いや、どう考えてもしている。
とても天には話せないが、この身がどうなろうとも彼の番相手とされる者に天を渡すわけにはいかない。 焦った潤には、こうするしか術が無かったのだ。
「……そんな事ない」
「ほら、一瞬考えたじゃん。 俺のために潤くんが身を削る事ないよ。 せっかくβに生まれたんだから、Ω性の俺とは接触しないに限るん……んっ!」
またその話だ。
今回ばかりは引けないとばかりに捲し立てられてムッとした潤は、天の柔らかな頬を両手で挟んですかさず唇を奪った。
たちまち、濃厚な香りが潤の鼻腔と本能を刺激する。
どれだけ潤が我慢しているか、天は知らない。 知らなくていいと思う反面、少しは分かってよと不条理を思う。
「天くん。 僕は我慢できるから我慢してるの。 性別も関係ない」
「んっ……潤、くん……っ」
「……すぐこうやってフェロモン出すくせに。 キス一つでそんな顔するくせに」
「…………っっ!」
「天くん、僕帰らないからね。 発情期が終わるまで看病するのは僕だ」
本能を揺さぶられ、噛みたくなるうなじを覆って天を愛撫するのがどれほど大変か、性器がジンジンと痛くなるほど張り詰めても貫けない苦しみを、潤は思い知っている。
それでも天のそばに居たいのだ。
他の誰かに、天はあげられない。 それがたとえ彼にとって運命的な番相手でも、潤がいち早く天を振り向かせてしまえば万事丸く収まる。
誰にもあげない。
自身の体がそれに耐えられなくなる前に、天を振り向かせてみせる。
二度目のヒートを起こした天の母に、初対面にも関わらず潤はそう誓った。
「じゃあ一つ、条件がある!」
「…………何?」
触れるだけのキスを三回して天を解放してやると、フェロモンを漂わせながら彼はやけに息巻いた。
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