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第72話 ─潤─

「明日の午前中、俺その……一人で出掛けたいからそれだけ許して」  勝ち気な少年のように真っ直ぐ見上げてくる天を、潤は瞳を細めて見下ろした。 ピク、とこめかみが動き、それは無理な相談だと腕を組む。 「……外出許可は出してないはずだけど」 「それ許してくれないなら力ずくでも帰ってもらうからな!」  潤を見上げたまま、彼がまとめたであろう荷物を指差して元気に息巻く姿は、こんな状況下でも可愛かった。  やはり年上の気がしないなと内心では目尻を下げつつ、無表情は崩さない。  いつどこで発情するか分からない危険な時期真っ只中なので、過保護にならざるを得なかった。 「…………分かったよ。 どこへ行くかだけ教えてくれない? 心配だから」 「病院」 「それは……天くんのかかりつけ?」 「そう。 今回のヒートの事とか、突発的な発情期がきてる事とか、話しときたいんだ。 抑制剤も追加で出してもらえるかもしれないし」 「あぁ、そういう事か。 それなら僕も付き添いたいな」 「さっきの条件もう忘れた!?」  条件?と首を傾げた潤は、はたと思い付いて眉を寄せた。  何故か一人で行きたがっている明日の外出を認めなければ、潤は今すぐにでも天の意気込みそのままに追い出されてしまう。  ……それだけはダメだ。  もう一つ心配事が残る天を、一晩この家にポツンと残すなど出来るわけがない。 「……なるほど。 天くんもなかなかの策士だね」 「…………っっ」 「分かった分かった。 天くんの策略に引っ掛かった僕の負け。 ここに居る代わりに、明日の付き添いは諦める。 これでいい?」 「おっけー!」 「ふふ……っ、得意気な顔しちゃって。 可愛いね」  潤はさらりと、無邪気に笑顔を見せる天の頬を撫でた。  帰宅と同時に目に入るよう、わざわざ分かりやすい位置に潤の荷物を置いていた、正直者な天が考えた苦肉の策さえも可愛かった。  何気なく頬を撫でただけで、潤から二歩ほど後退る。 そして瞳をまん丸にして口をパクパクさせ、思わず勘違いしてしまいそうなほどに照れている天が、日を追うごとに愛おしくなる。 「ほんと、……可愛い」 「か、かわ、……!?」 「ねぇ、お風呂は二人で入ると狭いかな?」 「ふ、ふた、……!?」 「僕が天くんを抱っこすれば湯船も入れちゃいそうじゃない? 友達だったら一緒にお風呂入るのも変じゃないよね?」 「だ、抱っ……!?」  本当にそんな事をするつもりはない。 潤はただ、天のこの反応が見たかっただけだ。  好意を寄せている相手の狼狽える姿を見ていると、思い込みとはいえ幸せな気持ちになる。  潤が少し屈んで視線を合わせただけで頬を染める天が、ちゃんと "二番目" に好きで居てくれているような期待が宿った。  ジッと見詰めると、天は体を竦ませる。 顔を寄せると、キスされるのではないかと天の目蓋がピクピクと動く。 「どうしたの、天くん。 舌っ足らずの子どもみたいだよ」 「お、俺より五つも下のくせにぃ……!」 「あー、それほんとヤダ。 罰として抱っこでお風呂ね」 「え!? 無理無理無理無理っ」 「僕が年下だっていうの忘れてよ」 「忘れられないって! 潤くん、普段は制服着て学校行ってるんだろっ? 信じられないけどっ」 「……そりゃ行ってるよ」 「あっ、ちょっ……お風呂の前にご飯を……!」  恨めしい年の差という文言を振りかざし、その武器を使って潤との壁を作る天が可愛くて憎らしい。  狼狽えさせていたはずが返り討ちに遭い、そんな憎たらしい事を言うのなら潤だって黙っていられなかった。  天の手を取り、実行に移すつもりはなかった「抱っこでお風呂」を試させてもらう。  新妻のような発言に機嫌を治した潤は、不貞腐れたフリで天を振り返った。 「それすごくいい。 お風呂にする? ご飯にする? それとも「俺」? って、言ってみてくれない?」 「なんでだよっ! そんなの言うわけないだろ!」 「あはは……っ、残念。 冗談は置いといて……おいで、天くん。 フェロモン出てるから治してあげるよ」 「……そんなに出てる?」 「うん。 もう一回キスしたら、イきたくてたまんなくなるだろうね。 試してみる?」 「みない!」  顔を真っ赤にした天の狼狽えっぷりが、ひどく心地良かった。  一体いつから……彼をこんなにも可愛いと思っていたのか。  よくよく考えると、人間観察が趣味だった潤だが初っ端から天の事は特別だったかもしれない。  何かを一心不乱で探している天を、瞬きも忘れて見入ってしまうほど。  意識を丸ごと引っ張られ、引き寄せられるように天に近付いて行ってしまうほど。  人懐っこい性分ではあるが、自分から声を掛けたあげく繋がりを持とうとしてしまったほど。  天の前では少しでも格好良く在りたいと、年下である事実を恨みながら背伸びしてしまうほど。  彼の中で、兄への憧れや尊敬の気持ちが "恋" に変わらないか、不安でたまらないほど。  ───天のうなじの一部分が、まるで目印のようにそこだけ桃色に変色している事実を、天本人には告げられないままでいるほど……。  潤は先に、初めて天の前で裸体を晒した。  すぐに顔を背けられてしまったので、「すぐに来てね」と言い残し、気持ち程度の浴室へと先に入って天を待つ。  友達だから変じゃないよね、と牽制したにも関わらずなかなか入って来ない。  それはただ恥ずかしがっているだけだと、潤は信じていた。  体が冷えてきたので湯船からお湯を掬い、頭から被る。  ───僕は二番目でいい。 二番目だったらあとは上がるしかないもん。  今すでにあんなに初々しくて可愛い反応が見られるのなら、二番目でも贅沢は言わない。  天の心の一番目には、我が兄が居る。  しかもバイト中だった潤と入れ違いでここを訪れ、美咲の存在を見せつけて天の心を揺さぶり、残り香を感じさせるほど滞在した事で天を悩ませていやしないか。  潤はそれが心配だった。  現実を突き付けられた天が、夜中に一人で泣き出してしまうのではないかと思うと……フェロモンで他者を引き寄せてしまう不安をも凌駕するほど、心配でたまらなかった。

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