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第106話

 泣き出しそうだった潤は、天の告白に可愛くポロポロと涙を流すだけに留まらなかった。  しゃくりあげながら何やら口走っていたが、ほとんど聞き取れない。  大切なものを抱くような潤の柔らかな抱擁と嗚咽に、天ももらい泣きしたほどそれはまさに号泣だった。 「僕も教えて。 天くん、僕にも教えて」 「うん……っ、うん、……っ」  天は、潤のシャツの胸元を涙でたっぷり濡らした。  抱えてきた性別の葛藤の種類は違えど、将来を悲観していた二人には恋というものが未知数だ。  まずは、普通に恋をしよう。  性別に囚われず、互いを想う気持ちをこれからもっと育てよう。  言葉が無くとも、泣きじゃくる二人の思いは交わった。  ふと顔を上げた天に、潤はそっと優しいキスを落とす。 そして、彼が一番気に病んでいるα性としての欲の証を撫でる。  噛むつもりは無かったと、また泣いていた。  天は何度も頷き、「大丈夫だよ」と言っても潤は首を振って謝った。  彼は自身の性別が確定してからというもの、漢方薬でそれを抑えていた。  Ω性には自衛の手段があるのに、α性にはそれが無い。 そのため潤は、認可されていない効き目の不確かな漢方薬に頼った。  それほど、世の中の性別の区別に疑問と嫌悪を抱いていた。  彼自身も言っていたように、確かに贅沢な苦悩である。  天にはまるで信じられない。  いくら突然変異で生まれたとしても、将来を約束されたα性だと判明した瞬間、大手を振って明るい未来展望を描くはずだ。  ───普通の考えの持ち主であれば。  繊細で寂しがりやの潤は、とてもそうは思えなかった。  なぜ自分だけがα性なのだと。 性別に踊らされ、なぜ他の性別を支配しなければならないのだと。  それともう一つ、彼にとって最大の苦痛だったのは、過剰な期待をかけられて孤独を強いられた事。   "普通ではない" 事を思い知らされた潤は、それほど勉強に打ち込むことなく両親に反発するようにアルバイトを始めた。  潤のすべてを理解し、把握した天は、これまでの彼の言動一つ一つが愛おしく思えた。  何時間にも渡って天の体を堪能し、さらには天の精一杯の告白によって泣き疲れた潤は、すでに夢の中だ。 「……寝顔まで綺麗だ」  起きている時も、眠っている時も、αの本性を現した時も、潤の顔はいつも造りもののように綺麗で気品さえ漂う。  豊と兄弟だったと告げられてもまだどこか信じられないのは、まったくと言っていいほど二人が似ていないからだ。  気付くはずがない。 「……潤くん……」  腕枕からそろりと移動し、布団の中に潜り込んだ天は潤の体に抱き付いた。  潤の匂いがする。 この匂いが大好きで、恋しくて、少しも離れていたくなかった。  熟睡した潤から放たれる、天を癒やすフェロモンをふわふわと纏う大人びた体に密着すると、たちまち眠気が襲ってくる。  これはいつもだった。  体内に不必要なものを摂り続けた潤は、一度たりとも天の前で具合の悪い素振りを見せなかったが、あの時の事を思うと胸が苦しくてしょうがなくなってくる。 「……ごめんな、潤くん……」  寝ている潤に胸元で詫びた天は、瞳を瞑るやすぐさま夢の中へと落ちていった。  数時間後、窓から射す陽の光ではなく、潤の離れ家をノックする音で二人は目覚めた。 「ん、……」 「……おはよ、天くん」 「おはよ、……潤くん」  日曜ともあってアラームが鳴らなかったせいにして、寝ぼけ眼で顔を見合わせた天と潤は微笑み合って抱擁を交わした。 「おーい。 潤、吉武、いるんだろ? 開けろー」 「朝ごはん持ってきたよー」  二人の睡眠を邪魔したのは、兄夫婦だった。  出たくないと渋る潤に変わり、天がベッドを降りるも体が軋んでうまく歩けない。  やれやれと頭を掻きながら、潤は天の体を支えて玄関まで歩む。 「……なに、二人ともニヤニヤして」  渋々と扉を開けると、冷たい朝の風と共に目に入った兄夫婦の不気味な顔に、潤は盛大に顔を歪めた。  年始に見た夫婦の姿に、天も体を竦ませる。  判明した事実の中で一番モヤモヤした、豊の隣に並んだ女性にどうしても目がいく。 「おはよう。 潤、吉武」 「おっはよーっ」 「………………」 「…………っ」  豊も、その隣で笑顔を振り撒く女性も、朝からハッとするほど元気いっぱいである。  天は潤にぴたりと寄り添い、こっそり彼の横顔を見上げた。  ───潤くんはこの人のこと、好きだったんだよね……。  潤が語っていた離婚間近の夫婦、あれは時任夫妻の事であったと知った時、頭の中で整理した事柄のうち大きな嫉妬を生んだ美咲の存在。 『年上で、優しくて、明るくて、綺麗な人。』  遠くを見詰めた潤が片思いの相手を、そう例えていた。 「大きい声出さないで。 天くんがビックリしてる。 ……天くん、寒いんじゃない? ベッド戻ってていいよ?」 「う、うん……」 「潤、お前……吉武のうなじ噛んでねぇだろうな? 俺はそれを確認しに来た」 「豊ねぇ、起きた時からこればっかなの! うるさいんだよ、吉武は大丈夫なのかって。 朝ごはんなんて口実よね〜」 「………………」  豊の台詞に、ビクッと肩を揺らした天は潤の苦い横顔をもう一度見上げた。  その表情で察したらしい豊の額に、ぴきぴきと怒りマークが浮かび上がる。 「は? お前その顔……っ、おい吉武! 見せてみろっ」 「え、っ? うわわわ……っ」 「ちょっと兄さん!」 「潤……お前って奴は……! 気を付けると自分で言ってたのにこれか! 吉武の気持ちを無視しやがって……!」 「時任さん! やめてください! 俺は嬉しかったからいいんです!」 「吉武……」  グイと引き寄せられて天のうなじを見た豊は、潤の胸ぐらを掴みそうな勢いで食ってかかっていた。  だが天も黙っていられない。  これはα性の潤が、Ω性である天に付けた、β性には知る由もない愛情表現とも言うべき愛おしい証だ。  潤のおかげで、性別が苦でなくなった。  数々のしるしでときめきを感じた、自身の性別を好きになれた。  潤さえ居れば、何も怖くないと思えた。 「時任さん、俺……明日、性別偽ってたこと話そうと思います」 「……誰に?」 「会社にです」 「えっ? 天くん、それは……っ」 「何も自分から打ち明けなくてもいいだろ。 これまで通り、俺が居る限り周りにはバレないよう協力するしな、……」 「クビになるかもしれないのは分かってます。 でも、俺はもう隠したくないです。 発情期がきても、抑制剤飲みたくないんです。 潤くんが居てくれるから、その必要も無い、ですし……」 「吉武……」 「天くん……」 「わぁぁ……っ、吉武くん可愛い〜〜!」  天の大きな覚悟に感極まった潤から、ひっしと抱き締められた。  豊は呆然と二人の抱擁を見詰め、美咲はその場で足踏みをしながら両手を震わせ、初々しいカップルの愛に興奮している。  潤の背中に腕を回した天はこの時、ほんの少しだけ意地悪な思いを抱いていた。  ───潤くんは俺のだ。 あなたはもう、過去の人なんだからなっ。

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