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第1話

 ありんこが、指を上ってくる。  くすぐったくて気持ちいい。もはや、この世に俺を癒してくれるのは虫くらいしかいないのか。  雲一つなく晴れ渡った空は、まだ春先だというのに刺すような陽射しを叩きつけてくる。日中どころか朝も夜も一日中、薄暗いビルの中で金勘定ばっかりしていた身体には、太陽は凶器でしかない。じじぃに借りたきったない麦わら帽子から、染みついたじじぃの加齢臭が汗とともに滴り落ちる。  汗でぐっしょり濡れた軍手をし直す気にもならず、素手でダラっと土を搔く。枯れた根っこが姿を現し、軽く引っ張ってみるがちょっと手前に動いたくらいで、びくともしない。ぐっと力を込めて一気に引くと、足一つ分くらいの土が盛り上がる程度だ。 「…クッソ。枯れ草のくせに」  両手でぐっと引っ張ると、途中でブチっと切れて、尻もちをついた。 「アッハッハッハ。畑にもバカにされてんのけ?」  じじぃかばばぁかわからないヨシさんが遠くで笑っていた。 「…うるせーわ」    *  役所に行ったら、軍資金として20万円を手渡されたので、この村に住むことに決めてしまったが、それはいささか早かったかもしれない。  北へ向かう新幹線の中で、「さ、財布がない」と始めた演技は、誰にも嘘だと見破られなかった。目的地を聞かれて焦ったが、目についた情報を滑らかに伝えた。 「IターンだかJターンだかの体験で来たのですが、リュックごと盗まれてしまいまして…」  車掌らしき若い男は切符もスマホも持ってない男を訝ることなく、丁寧に尋ねてくる。  ギリギリで飛び乗って、一息ついてたら扉が閉まる寸前に鞄を盗まれて、男がホームを走っていくのを見送りました。悔しいです。とりあえず目的地まで着ければ、なんとかなるんですが…。 「何県の何駅ですか?」 「それが、車中で詳しい情報を見ようと思ってたので、よく覚えてなくて…」  目的地もわからずに新幹線に乗るアホがいるか? よどみなく嘘を並べていたのに、ここで躓いた。ヘタコイタと項垂れると、若い車掌は「そうですか…」とトーンを落とす。  ブラボー、性善説。  そうしてなんだかわからないうちに、そういう支援をやっている村役場と連絡が取れたとのことで、車掌の指定する駅で降りた。お礼の気持ちの500円玉を渡すの受け取らないのってな攻防を繰り広げたあと、指定された村役場へ向かった。 「アンタが昨日電話くれた人ですか?」  知らねえっつーの、とは言えないので、曖昧な返事をしていると、何やら懐から村長のハンコが押された封筒を突き出してくる。 「お約束の20万円です。支援金という名目ですが、使い道は自由ですぅ」と言われ、調子よくお礼を言ってポケットにしまった。 「ほしたらさっそく畑、みに行ってみますか?」  と言わ車に乗せられた。  なんだかわからないが、だだっ広い田舎風景の真ん中に降ろされ、村役人は黙ってこちらを見ていた。いい畑も悪い畑もわからないので、「なるほど…」とだけ答えると、村役人はニコニコしながら、 「ヨシさんトシさんはこの村で一番農業に詳しい人たちですぅ。彼らから直接指導してもらえるなんて、ありがたいですよー」  はー、よかったよかったと呟きながら、さっさと車に戻っていった。農業? 指導? 「次は住宅ですね。いいおうちがあるんですよー」  乗って乗ってと合図されてそのまま整備されてない山道をガタガタと運ばれ、垣根の前で止められた。  山の中だというのに、こんな草の垣根を作る人の趣味がわからん。草を分けて垣根の向こうを見ようとするが、全然見えない。 「立派でしょ。コノテガシワ・エレガンティシマ」 「は? なんて?」  なんの呪文だと思いながら聞き返すが、垣根を撫でて家の門あたりに立った。門からなだらかな坂があり、15~6メートル先に家が見えた。 「築浅3エルデーケー、風呂場がちょっとアレしたもんで、これも最新浴槽とシャワー取っつけてあっから若い人には満足してもらえる家だて」  坂を上ろうとすると村役人は突き出た腹をさらに突き出しながら、「今歩いたらでちゃう」と言って誘導を断った。 「これが嫌だつーとあとは築100年の古民家で隙間風と仲良く暮らすか、築30年のプレパブに毛の生えた民家で台風の不安と戦いながら生活すっかのどっちかになるでの?」  持っていたバインダーを開きながら村役人は言った。 「サインでいーから」  そう言われて、いつもの癖でスラスラとサインしてしまったが、なんの書類? 確認する暇もなく役人がバインダーをバタンと閉じた。ま、説明ない署名なんかに大した威力があるわけないからビビらない。 「じゃ、今からここアンタんちなんでな。明日、畑行ったら指導してもらえるように、私の方から言っときますから、どんぞよろしく」 「……」  徳重の右手を引っ張って、強引に握手をすると村役人はさっさと車で立ち去った。  20万もあれば、もうちょっと便利な町へ移動できる。だが。  鬱蒼とした山、整備されてない道を革靴で下り、あのどこまでも続く畑道を戻って電車に乗るのは、さすがに面倒な気がした。せめて明日だ。  とりあえず門から玄関までのアプローチを上り、荒れ放題の庭をみる。ダサい丸太のテーブルに、不ぞろいの丸太の椅子。ピザ窯? 放置された薪。手広く田舎暮らしを満喫しようとして、破綻した一家が暮らしていたのだろうか。錆び付いた三輪車にまとわりつくように、名も知らない花が絡まっていた。  玄関にたどり着き開き戸を開けると上がり框に掃除機が置いてあった。「お心付け 村民」細長い紙がセロテープで貼ってある。どうみても昨日まで誰かが使っていた掃除機だ。  玄関を上がって右を見ると長い廊下が続いている。台所、トイレ、風呂、物置が左にあり、右に3つ和室が続いている。日当たりのいい方に部屋、つまらない造りだ。2部屋はふすまを開けば宴会場。  奥の部屋は壁で仕切られている。年老いた両親用か子供部屋か。廊下側の扉を開けようとしたが、歪んでいるのか、なかなか開かない。無理やり引っ張ったら、取っ手が落ちた。穴の開いたところに手を突っ込んで扉を開けると、寒気がした。南側の窓は広いが、東側の窓の外は黒い壁が接近しているので、部屋全体が薄暗い。接近というより、ほぼ窓にぶつかっているように見える。南の窓を開けてみると壁の正体がわかった。土砂崩れだ。すれっすれまで流れてきていた。  マジで住もうとしたらさすがに怒りも沸くだろうが、徳重にその気はないので、納得して無理やり扉を閉じ、とれてしまった取っ手を穴に突っ込んでおいた。  真ん中の部屋には掃除機同様「お心付け 村民」の紙が置かれた布団一式がおいてあった。シーツと毛布は新品のようで、値段のタグシールまでついたままだ。ご苦労なことだと思いながら、台所へいってみたが、調理器具はいくつかあったが、食料品らしきものは一切ない。冷蔵庫も空っぽ。ウーバーでも…と思うがスマホがない。  「お心付け」のパソコンでも置いてないかと押し入れを開けたが、何もなかった。テレビもない、電話もない、時計もない。スマホがあったところで、もしかするとwi-fiどころか電波もないのかもしれない。がっくりポーズを人生初めてやってみた。イグサの臭いがした。

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