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第2話 新月のひと 弐

いつもよりも少し酔った私は、食事の間ずいぶんといらないことを喋ってしまった気がする。 「作家さんでいらっしゃるんですね」 「作家なんてたいしたもんじゃない……最近はもっぱらコラムとか、簡単な文章とかを少しだけね」 「読んだことがあります。処女作でしたか、「新月のひと」は」 「あれを…読んだのか。10年も前のつたない文章だよ」 「僕は好きです。優しい語り口で、今、静さんとお話していると、あの本の中の文章を思い出します」 「…嬉しいことを言ってくれる」 「『僕は彼女が亡くなって初めて、彼女に愛されていることを知った』」 夕は、私の書いた「新月のひと」の一節をそらんじた。 私が驚いて黙っていると、夕はそのあとも続けた。 「『どんなに後悔しても足りない。彼女はいつも僕を受け入れてくれていたのに』」 夕はあの艶やかな微笑で私を見つめ、私の胡座の膝のうえにそっと手を触れた。体中の血がそこに集まったかと思うほど、私はその感触にどぎまぎした。 「あれは……半分フィクションで、半分本当なんだ」 私は思い切って言葉に出した。そのためにここへ来たのだから。 夕はやはり表情を変えない。まるで最初からわかっていたかのように笑って見せた。 「私は女性を愛せないんだ。作中の彼女は、彼、なんだ」 処女作の「新月のひと」は、主人公の奔放な男が、欲にまみれて数々の浮き名を流すが、一度だけ口づけを交わした女性のことを愛していたことを、彼女の死によって気づく、という話だった。 フィクションの中にそっと織り交ぜた真実は、私の中だけに仕舞ったまま墓場までもっていくつもりだった。 「あれを書いたときは、彼への想いを封印しようとして本にした。作中で亡くなっているのは、私の気持ちを殺すためで、彼は健在だった。それが……」 気がつくと、夕がすぐそばで私の瞳の中をのぞきこんでいた。 そして、ひとりでに涙が溢れていたのを、私は自分の手の甲の冷たさで知った。 「彼が本当に亡くなった。私の……腕の中で」 親友のような存在で、幼い頃は兄弟のように過ごし、成長してからもつかず離れずの距離を保った。決して本当のことを悟られないように、慎重に。 従兄弟。血が繋がっていることがどうしてこんなに残酷なのか。 他人だったら断ち切れるはずが、どうしても顔を合わさざるをえない間柄に、自分の性癖と出生を呪うしかなかった。 「一度だけ、キスをした。お互い酔っていて、むこうは覚えていないと思う…多分。だから本に書いてもわからないだろうと思ってね。…今思えば、覚えていたのかもしれないけど」 交通事故にあった従兄弟が危ないと聞き、とるものもとらず病院に向かった。皮肉にも一番最初に到着したのは、妻や息子ではなく僕だった。 「意識もなくて……それでも必死に最後の息をしようとする彼を見て、私は信じられないほど彼を愛していたんだと、再確認させられた。最後に心臓が止まるのを私だけが見ていた…彼は私に、最後を看取らせてくれたんだ」 キスした後、気まずくて私が彼を避けようと、彼が結婚して家族を持ったことが苦しくて距離を置こうと、彼の態度は何も変わらなかった。私の想いに応えられない代わりに、どんなときも同じ笑顔でいてくれた。それが、私の気持ちに気づいた彼なりの愛だったと知らず、私は自分の波打つ感情にまかせ、荒れてみたり、冷たくしてみたり。 「悔やむことをわかっていて、ひとは知らず酷いことをする生き物だ」 夕は、ふわりと腰を上げ膝立ちになると、私の頭をそれは優しく包み込んだ。白檀の香りが私の心をゆっくりと溶かしていく。 私は夕に抱きしめられたまま、ぼそりと呟いた。 「彼がこの世のどこにもいないことが…信じられない…」 「『ここにいるよ。いつでもそばに』」 頭上から聞こえたその声は、夕のものではなかった。 しかし咄嗟に上げた私の目に飛び込んできたのは、夕の優しい微笑みだった。 「君……いま……」 「静さん…湯をお使いになりませんか?」 穏やかな京なまり。夕に戻っていた。 私は我に返り、ああ、そうさせてもらう、と応えた。 いつのまにか準備されていた、真新しいタオルと浴衣を私に手渡すと、夕は軽く会釈をして、一度席を外した。 ひとりになったことに少し安堵して、私は内風呂の襖を開けた。 知る人ぞ知る、隠れ宿「臥待月」。 高級娼館などと言う輩もいる。 男しか受け付けぬその宿は、簡単に訪れることは出来ないとの噂で、迎え入れてもらえた客は、ごくわずかだという。 何が基準なのか誰にもわからないが、「合格」のサインは門の灯りがついているかどうか。 私は知り合いを通じてここを知り半分諦めて向かったが、受け入れてもらえたようだ。 そして。 なぜここが高級娼館と言われるのかはもちろん、相手をしてくれる娼夫がいるからに違いない。 あの儚げで美しい夕が、まさか私のような五十がらみの男やもめの相手をするはずがない。きっと、担当するものと替わるために出て行ったのだ。 私は服を脱ぎ、湯に浸かった。 湯は、白檀の香りがした。 その香りで先ほどの失態が嘘のように落ち着いた。大きな窓からは、ライトアップされた深夜の庭園が見える。 そういえば今は何時なのだろう。 ここを教えてくれた知り合いに、一つだけ絶対に守らなければならないことがあると念を押されたことを思い出す。 時計を外していくように、と。 時間を気にした客が、早々に帰されたということがあったらしい。言われたとおりに時計はしてこなかったが、おそらくもう0時は回っているだろう。 そう思った時、襖が静かに横にスライドされた。 私は目を見張った。いや、見とれたと言う方が正しい。 最初に挨拶をされたときのように三つ指をたてて正座をし、長い髪を女性のように軽く結い上げ、白い肌襦袢だけを身につけた夕がいた。 「ご一緒させていただけますか」 立ち上がった夕は、あまりになまめかしく、私は直視出来なかった。 今まで身体の関係があった男は、そこそこの見た目ではあったものの、夕ほどの美しさではなかった。中性的でありながら、きちんと筋肉のついた上半身と、しなやかに伸びた脚。 肌襦袢の薄さが、彼の秘めた場所をうっすらと透かしていて、私は思わず顔を背けた。 湯の中で夕に背を向け、気持ちを落ち着かせた。 衣擦れの音がした。好奇心に勝てず、振り向いてしまった。 少し横向きで、腰紐を解いてさらりと肌襦袢を肩から滑らせ、夕は一糸纏わぬ姿で私を見た。にっこりと笑って、夕は湯船に近づいてきた。 つま先からそっと湯に浸かると、私との間にわずかな距離を置いて夕は私を見つめた。 「わ、私はその、ずっと、こういうことを避けていて……あまり気が利かないと思うのだが……」 「どうかお気になさらず。…近くに、寄らしていただいても…構いませんか」 私がうなづくだけしか出来ないのを気にするでもなく、夕は湯を漕いで近づいてきた。細い指を私の胸に沿わせて、夕は自然に私の腕の中に収まった。 髪から、得も言えぬいい香りが漂ってくる。私は心臓の音に急かされて、夕の背中に手を回した。 しっとりと吸いつく肌は、ずっと昔に一度だけ抱いた可愛らしい女性よりも、はるかに柔らかかった。本当にこれは現実なのか、若く見えるがどのくらいの年齢なのか、娼夫としてはあまりにも上品すぎて、本当に私とそんなことをするのか・・・ぐるぐると考えていると、夕の手が私の頬に添えられた。夕のほんのり紅い唇が近づいてきて、私の唇を塞いだ。 ゆっくりと舌が割り込まれ、遠慮がちに私の舌に絡めた。 唾液が糸を引くのを、私は信じられない思いでぼんやりと見つめていた。 「……しないんじゃないのかい」 「何をです?」 「こういうところでは…あまりキスはしないと聞くが……」 「特別なお客様ですから」 夕はもう一度私の唇に、紅く柔らかい唇を合わせた。私は気づかないうちに腰を引き、彼の身体に下半身が触れないようにしていた。 中年の男の身体など、この仕事をしていたら見慣れているはずだ。しかし私はすでに自分の身体が勝手に期待しはじめているのを、悟られるのが恥ずかしかった。 夕の手が私の胸から腹へと降りていき、下腹部ぎりぎりでぴたりと止まった。 「静さん。ここへいらっしゃったのは、その方を愛したことを忘れたいからですか?」 「…それは……違う。忘れたくない」 「静さんの想い人に、今なにをお伝えしたいですか?」 「……愛していたと……」 「…その秘めていた想いを、僕の身体を使って今、解き放ってください」

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