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第1話
聖母マリア様は、一度も男性と交わることがなかったのに身籠って、イエス様をお産みになった。
「私は、男の人を知りませんのに」
大天使ガブリエルに受胎を聖告され、処女のマリア様は、そう、言ったんだ。
奇跡の始まりはいつもドラマチックで、すごく、羨ましい。
僕は父から生まれた。
マリア様みたいに純潔のうちにそうなったわけじゃない。
ちゃんと知ってる。
男の人をちゃんと知ってる。
知ってるのに、忘れてる。
だから、自分は純潔のままだと思ってる。
だから、父は僕のことを血を分けた子供だって思っていない。
自分に無条件で懐いてくれる子供って認識で。
怒らないし、深いらないし、愛してもくれない。
小さい頃の僕は父のそういうところが悲しくて寂しかったけど、今は、そういうもんだと思っているから、特に父に対してそういう感情すら抱かなくなった。
だって、父は、オメガだから。
記憶をなくした、オメガだから。
そして、もれなく、僕もオメガなんだ。
同じオメガなら。
父みたいに記憶をなくした方が、オメガの宿命も薄らいで、返っていいのかもしれない。
いつまでも純潔だって思ってるから、ヒートがどんなものなのか、抑制剤を飲んで待ちわびている父の姿を見ると、すごく幸せそうに見えてしょうがないんだ。
僕はまだヒートを迎えてはいないけど........。
.......いつか、僕も父みたいになるんだろうか。
.......自我を失って、記憶を無くすくらい、オメガの本能のままに、快楽に溺れてしまうんだろうか。
父を見ていると幸せみえる反面、自分の将来を見ているようで、心が穏やかじゃなくなるんだ。
「じゃあ、行ってきます。早苗、ちゃんとお留守番しててね」
「うん、大丈夫だよ。奈苗、いってらっしゃい。気をつけてね」
僕に向けるこの父の笑顔。
本当に覚えてないんだろうか。
番ったアルファの、顔も、名前も。
産んだ子どもの、声も、抱き上げた感覚も。
父は、本当に覚えてないんだろうか....?
「奈苗、香水かえた?」
こう言われた時に、とっさにどういう反応をしたらいいのかわからなくなる。
身近にオメガの先輩がいたら、対処法とか教えてもらえるのに、うちにいる先輩はだいたい僕と同レベルだから、全く役に立たない。
オメガを隠してるのに、最近、オメガを隠しきれるか、不安でしょうがない。
「うん.....。たまには気分転換で」
「いい香り」
苦しい言い訳じみた回答をしていた時、ふと、視線を感じた。
遠くから、僕をみる目ー。
大きな一重の、鋭い、熱い目ー。
誰だ?
あいつはー。
「僕、バイト行かないと」
「奈苗、今度、栄養学のノート見せて?」
「いいよ」
僕は大学で管理栄養士になるべく勉強している。
父はあんなだし、祖父母も高齢だったから、必然的に料理を作る機会が増えて、料理を作ることが好きになってしまって。
管理栄養士の資格を取ればとりあえず、病院とか企業の特定保健指導ができたりするし。
多少なりともお金がかかるから、祖父母が残した遺産を少しずつ使って。
早苗もいるから遺産にばかり頼れないし、だから、僕はバイトも目一杯しなきゃいけないんだ。
........早苗が普通だったら、僕の生活は少し変わっていたのかな......?
「おつかれさまです」
「おう。おつかれ、奈苗」
僕は居酒屋の厨房でバイトをしている。
趣味と実益を兼ねたこのバイト、僕は結構、好きなんだ。
ひたすら料理を作って、あまり人とも接触しないから、オメガとしての僕にも都合がいい。
「今日は団体さんが入ってるから、仕込みお願いな」
「はい」
多かろうが少なかろうが、全然、苦じゃない。
店長の言葉を背に、黒いエプロンを腰にまいたんだ。
今日は忙しかったな......。
団体さんに加えて、飛び込みも多かったから。
でも、楽しかったなぁ。
家に......早苗と2人っきりで家にいるより、ずっといい。
オメガってことしか考えられず、オメガって現実を突きつけられる家より、ずっと、いいんだ。
仕事もひと段落して、ゴミ出しのため裏口から外に出た。
あ.......。
裏口のすぐ脇には灰皿が置いてあって、従業員はもちろん、たまにお客さんもタバコを吸いにそこにくる。
今日ももれなく、お客さんがタバコを吸っていて、僕は軽く会釈をして外に出た。
ーバン。
手に握っていたゴミ袋が、手から離れる。
バランスを崩した体は、建物の壁にぶつかる。
頭をぶつけて、僕は両手を掴まれて.......気がついたら、壁に押し付けられていた。
すぐそこでタバコの香りがして、目を開けると、目の前にさっきタバコを吸っていたお客さんが、僕を壁押し付けていたんだ。
目が、血走ってる.....?なんで......?
そして、その人はゆっくり口を開いて言ったんだ。
「おまえ、オメガだろ?すげぇ、匂いが誘ってる」
.......まさか、こんなところで、オメガという事実を突きつけられられるとは思わなかった。
そして、何故か。
早苗のことを思い出したんだ。
........早苗も、こんな風に襲われたんじゃないだろうか?
アルファと番うことなく、僕が産まれた原因もこんな状況でおこっていたとしたら......。
........早苗が記憶をなくした理由が、わかった気がした。
そう考えると、今、僕が陥っている状況ー。
どうしても、打破しなきゃいけないっ!!
「誰かっ!!助けてっ!!やめて」
この上ないくらい大声で僕は叫んでいたんだ。
「うるせぇ!静かにしろっ!!オメガなんだから、サレたら嬉しいんだろうが!」
そんなこと、あるわけないだろっ!!
オメガだって、人間なんだ。
人間なんだよっ!!
「やだっ!!誰かっ!!助けてー!!」
「うるせぇ!」
目の前の人が僕の左手を離して拳を振り上げる。
........殴られるっ!!
そう思って、歯を食いしばって目を閉じた瞬間ー僕を圧迫していたいろんな力が、消えた。
........え?
恐る恐る目を開けると......僕を羽交い締めにしていた人はゴミ袋の上に倒れていて、かわりに別な人がこっちを見ていて.......僕は腰が抜けてしまって、その場に座り込んでしまった。
一難去って、また一難.......。
僕は、詰んでる。
もう、この人から逃げ切れる自信がない。
「おい、大丈夫か?立てるか?」
その声に僕は視線をあげた。
.....この人。
大学で僕を見ていた、人だ。
あまりにも衝撃すぎて返事もできずに座り込んでいると、その人は僕を軽々と抱き上げたんだ。
「あ.....あの」
「ここにいると、いらんトラブルに巻き込まれるから、逃げるぞ」
「え?......ちょ、ちょっと!!」
王子様のように颯爽と現れて僕を助けたかと思うと、山賊のように素早く僕を連れ去っていくその人の行動と言動に僕は混乱して........。
つい、身を預けてしまったんだ。
「奈苗、バイト辞めたの!?」
そりゃ、驚くよな。
あんだけ熱心に行っていたバイトを突然辞めたなんて言ったらさ。
「えー、あの居酒屋、奈苗がいたから通ってたんだけどなぁ。じゃあ、もうバイトしてないの?」
「してるはしてるんだけど.....飲食店じゃなくて」
詳しくは言えない、新しいバイト。
言えるはずないよ。
家政夫してるって、言えるはずないじゃないか。
しかも、親子で家政夫だなんて、口が裂けても言えるはずがない。
こうなった原因は、数日前に遡る。
あの日、僕が。
居酒屋の裏口で襲われそうになったあの日。
まさか、こんな事態になるなんて、夢にも思わなかった。
「あの!おろしてください!!僕、戻んないとバイト、クビになってしまいますから!!」
僕を抱えてる人は、視線を僕におとす。
.......わ、冷た.....鋭い、冷たい目。
澄みきったキレイな目なのに、その眼差しがすごく冷たく感じて、僕は、背中が少し寒くなった。
「辞めなよ、あんなバイト」
「は?!」
「あんたオメガだろ?あんなとこでチョロチョロ匂い振りまいてたら、酔っ払いに襲ってくださいって言ってるようなもんだ」
「なっ!?や、辞めたら、生活できないんです!!
無職の父親もいるのに!!
じゃあ、あなたが私を雇ってくれますか?!
親子ともども路頭に迷わないようにしてくれますか?!」
「いいよ」
「........え?」
「いいよ。雇ってやるよ。
あんたの父親も一緒に。俺が雇ってやるよ」
「.........」
あまりの事に言葉が出なくて、抵抗することも忘れてしまって。
僕は抱き上げられたまま、その人ん家に連れていかれてしまったんだ。
その冷たい目をしたイケメンは、城戸義久と言った。
武士みたいな名前のその人は、疑いようもないくらいなアルファで、加えて金持ちでさ。
広大な土地に立派なお屋敷がたってて、さらに離れまであって.......。
なんていうか、僕とは何もかもレベルが違いすぎて呆気にとられてしまったんだ。
「城戸.....さん、僕を雇うって言ってたけど......。
僕は何をすれば.......」
「家政夫」
「家政夫?」
「そう、家政夫。
辞めちゃってさ、前の家政婦が。
だから、あんたとあんたの父親に家政夫してもらいたいんだけど」
「...........」
「離れ、あっただろ。あそこに2人で住み込んでもらっていいから」
「........でも、父は...」
「バイト代ならはずむから」
そう言って城戸さんがメモに書いて提示した金額に、僕は目玉が飛び出るんじゃないか、って言うくらいビックリしたんだ。
居酒屋のバイトの.......3倍はある。
それくらいもらえれば、抑制剤のためにあくせく働かなくていいし、早苗にとっても........。
僕はグラグラして頭を抱えてしまった。
おいしい、おいしすぎる、このバイト。
でも、住み込みとなると、早苗が.......。
「する?しない?」
「.........一つ問題が......」
「何?」
「父が......普段は普通に生活してるんですけど......。
その......記憶喪失で........。
それでも、大丈夫ですか?」
その瞬間、城戸さんの右眉がキュッとあがったんだ。
「ただいま」
「おかえり、奈苗」
早苗がにこやかに僕を玄関まで出迎える。
「今日もちゃんとお掃除できたよ」
「そう、偉かったね、早苗。僕、ご飯作りに行ってくるから」
「サナエも行きたい。ヨシノブさんと話をしたい」
「早苗、ダメだって。それにあの人は義信さんじゃないよ、義久さんだよ?」
早苗を城戸家の離れに連れてきて、城戸さんを見た早苗が、瞬間的に断片的な記憶を取り戻した。
城戸さんを見てうっとりした表情で早苗は「ヨシノブさん」って呟いたんだ。
それからは、もう、城戸さんに腕をからませたり、ハグしたり.......片時も離れなくて、こっちが赤面するくらい。
早苗のオメガの本質を見た気がした。
そして、本当に早苗を城戸さん家に連れてっていいのか、めちゃめちゃ不安にかられたんだ。
まぁ、でも、それは少し杞憂で。
城戸さんにべったりする以外は、ちゃんと家政夫としての仕事をこなしてくれるから、僕はちょっとホッとした。
ただ、事あるごとに城戸さんにひっつこうとするから気が気じゃないんだ。
なかなかひかない早苗をなだめすかして、僕は急いで母屋に向かった。
早くご飯の準備しなきゃ、城戸さんがお腹すかせちゃう!!
「すみません、今日は時間がなくて.......。
里芋とイカの煮っ転がしに鮭の西京焼き、ほうれん草の白和えとカボチャの味噌汁です。
どうぞ、お召し上がりください」
........この瞬間が、いつも緊張する。
城戸さんは、「いただきます」って小さく言うと、静かに、味を確かめるように食べ始める。
何も言われなかったらいいほう。
口に合わない時は、一言「うん」って言う。
結局は全部食べちゃうけど.......さ。
今日は言わなかったから、いいほうなのかも。
「奈苗」
突然話しかけられて、僕は体をビクつかせるほどビックリした。
「はい?」
「お父さん......早苗さん、調子どう?」
「城戸さんを.......城戸さんのお父様と間違えてベタベタしようとする以外は、普通ですよ」
「そう」
早苗が城戸さんに「ヨシノブさん」って言うのも無理はない。
城戸さんのお父様、城戸義信さんの若い頃は今の城戸さんにそっくりだから。
城戸さんに写真を見せてもらったんだ、僕。
そして、なんとなく、早苗と義信さんは関係があったんじゃないかって、ピンときたんだ。
でも.......でも。
義信さんのことは思い出しても、僕のことは思い出してくれなかった。
相変わらず、無条件に懐いてくる子どもって感覚で........少し、ほんの少し.......僕は、寂しかったんだ。
「奈苗は?」
「え?」
「ヒート。抑制剤、そろそろ飲まなきゃいけないんじゃないのか?」
あぁ、それか、そのことか。
「抑制剤は早苗がほとんど一人で飲んじゃうから......追加を買うにも高いし.......」
城戸さんは、表情を変えずに薬瓶をテーブルの上に置いた。
これ......抑制剤......?
なんで?
「早苗さんの目に届かないところに置いておけ。そろそろ、あんたも飲まなきゃヤバイぞ」
「.......いいんですか?
高いのに.......あの、お給料から引いてもらってかまいませんから.......」
「いいから。早苗さんに見つかるなよ」
「........すみません。こんなことまでしてもらって」
僕を見る目は冷たくて鋭い目をしているのに、こんな風にたまに見せる気配りや優しさが.......。
早苗にも、生活にも疲れた僕の心にじんわり染み渡るみたいな.......そんな気分になって。
城戸さんがのことがよくわからないのに、僕は城戸さんに惹かれてしまうんだ。
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