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第2話
母屋での仕事を終えて、離れに帰り着いた時はもう、0時をまわっていて、僕の帰りを待ち疲れたのか、早苗はリビングのソファーで幸せそうに眠っていた。
早苗に毛布をかけると、僕は台所に立ってポケットから小さな薬瓶を取り出して、その中から一粒、白い錠剤を手のひらにのせる。
初めて、飲んだ......抑制剤。
ゆっくり、体の中に落ちて、じわじわとけていくのがわかる。
........城戸さんに気を使わせてしまった。
ひょっとして匂いがキツくなってたんだろうか。
そろそろヤバいのかな、僕。
城戸さんは......冷たい目をしているのに、何を考えてるのかわからなくて、でも、城戸さんはいつも、僕を守ってくれている。
.......そんな、こと。
僕を、守ってくれてる、なんてないよな......。
多分、偶然だ。
僕は食器棚の上の奥に、抑制剤を隠した。
大事に飲まなきゃ、せっかく城戸さんにもらったんだから、早苗に見つからないようにしなきゃ。
僕はリビングで寝ている早苗の髪をそっと撫でた。
いいなぁ、早苗は。
今、一瞬一瞬を楽しく生きていて。
過去なんか切り捨てて、未来すら切望しない。
........愛した人を思い出しても、産んだ我が子は思い出さない。
早苗が........羨ましい。
そんな早苗が奇跡みたいに思えて、僕は、すごく羨ましくなったんだ。
「......奈苗?」
城戸さんの声にハッとした。
手元のポットは、ティーカップに紅茶をなみなみと注いでいて、危うく溢れさせるところだった。
.......変だな、なんか、ボーっとする。
「すみません......。あ、えと。ホットサンドの中身は.......」
「いいよ。調子悪いなら、もういい」
「いや、具合は悪くなくて.......」
「いいから」
「.........すみません。失礼します」
城戸さんにそう言ってもらって、実のところ助かった。
なんだか熱っぽいし、ボーっとする。
.......ヒート、なのかな....?
でも、今日の講義は外せないし......。
僕は、食器棚の上に隠していた抑制剤を取り出して、口の中に放り込んだんだ。
乗り切らなきゃ......今日は、今日だけは。
なんとか........一日、乗り切った。
調理実習もあって、家に帰り着いた時はもう、真っ暗で......早く帰らないと行けないのに、身体が重くて、なかなか前に進む感じがしない。
早く、早く帰って、城戸さんのご飯作らなきゃいけないのに。
家に着く頃には、息も上がって、体中が熱くなって......。
後ろも前も初めてグズグズする感じがして。
恥ずかしい.....苦しい.....手が震えだす。
きっと、ヒート......だ.......。
とうとう、ヒートがきてしまったんだ。
抑制剤.......飲まなきゃ........早く。
靴も脱ぎっぱなしにしてしまうくらい切羽詰まった僕は、一目散に食器棚の上の奥に手を伸ばした。
.......あれ?......ない?........なんで?!
なんで!?
「おかえり。遅かったね、奈苗」
背後で聞こえた早苗の声に、僕は思わず振り返る。
早苗の手の中には、僕が今、一番欲しているあの薬瓶が握られていて........。
なんで?なんで、それ持ってるの?!早苗っ?!
「早苗....それ......」
「これ?棚の中に抑制剤あったから、飲んじゃった」
いつも、いつもそう。早苗は、いつもそう。
僕のことを何も考えていてくれない。
自分のことだけ。
自分が良ければ、幸せならそれでいいんだ。
その裏で、僕がどんなに悲しくても、どんなに寂しくて苦しくても。
僕のことを何も考えてくれないんだ。
涙が......出てくる.......。
さらに、ヒートで不安定なことも相まって、僕は、感情を抑えることができなかった。
「なんで!?
なんで、早苗はそんなことばっかりするの?!
なんで、僕に意地悪ばかりするわけ?!
僕はこんなに早苗のことを大事に考えてるのに、早苗は僕のことを全然考えてくれないじゃないか!!」
「奈苗.....あのね」
「もういい!もう何も聞きたくない!!
なんで早苗ばっかり幸せなんだよ!!
..........早苗なんか、キライ.......早苗なんか......」
ここまで感情を爆発させて、僕は我に返った。
目の前にいる、いつもニコニコして幸せそうな早苗が、泣きそうになっていて.......。
ズキッと胸が痛くなって.......。
僕の方が不幸なのに。
なんで胸が痛くなるのかわからなくて.........。
僕は、離れを飛び出した。
走って、裸足で走って.......。
泣きながら、脇目も振らず走って........。
何かにつまずいて、勢いよく地面にダイブする。
足も、体も、何故か心も痛くて。
それでもヒートで体が熱くて、グズグズするから........。
なさけなくて、くやしくて.......。
僕は地面に体を預けて、泣いてしまった。
「........〰︎〰︎!!〰︎〰︎!!」
その時、近くで人の声が聞こえて。
次の瞬間、僕は誰かに覆い被さられたんだ。
「やっ!!誰?!やめてっ!!離してっ!!」
僕はありったけの声と力で、抵抗した。
涙で目が塞がれてるし、周りも暗くてその人の顔も見えない。
僕は怖くて......怖くて......仕方がなかったんだ。
「助けてっ!!やだっ!!」
その人は僕をうつ伏せにすると、手首を掴んで地面に押し付ける。
激しい息遣いが耳にこだまして、荒々しい力が僕の体を地面に押さえつけて、そしてー。
「いっ!!あぁ!.....あ....」
僕の首の後ろに鋭い痛みが走って......。
皮膚に固い何かが食い込んだ.....。
痛い.....痛いよ......。
同時に、体の力が抜けてしまって、僕の体はこれ以上熱くなることがないんじゃないかってくらい、熱く、濡れてきたんだ。
「や....やだ......や.....め......助けて......」
暗くて顔も見えないその人は、僕のズボンを脱がして、中に熱いものをねじこんで、僕を上下に揺さぶりだす。
服も、何もかも、あっという間に、僕の肌から離れていく。
離れていくかわりに、僕の体を熱い何かが這ったり、僕の中を激しくかき乱す感覚は、近く、強くなっていく。
「あ.....んぁ......やぁ....」
嫌なのに......。
僕は淫らに声をあげて、腰を浮かせてしまったんだ。
そして、溢れんばかりに、中を濡らす。
一番、こういう目にあいたくなかったのに。
オメガの性を突きつけられたくなかったのに。
......早苗が羨ましい、なんて思うんじゃなかった。
きっと、僕はバチがあたったんだ。
だから、神さまが今、僕にお仕置きをしている。
僕は悪い子だから、心のすみっこでいつも思ってた。
早苗みたいにはなりたくない、って。
早苗のことで見下して、早苗のことを笑ってた。
だから、かな.....?
僕が、悪い子だから。
でも、神さま......僕は、そんなに悪い子なの?
神さまが本当にいるのなら、僕を今すぐ救ってほしい。
もう、悪いことはしないから。
助けて......。
「城戸......さ、.....たす....け.....て」
気がついたら、僕はベッドの上にいた。
外じゃなくて。
地面の上でもなくて。
白いまっさらなシーツの上で、ちゃんと毛布をかけてもらって。
何も着てなかったけど、体はキレイで.......。
あの、あれは.......夢だったのか、と戸惑うくらい。
いや、違う。
現実だったんだ。
だって、体中が痛くて.......特に、首.......うなじが痛い........から。
僕........レイプされた。
そして.......番にされてしまった。
誰にそんなことされたのかすらわからないから、重い現実が、僕にずっしりのしかかってきて。
苦しい......悲しい.......悔しい.......。
涙が、また、止めどなくあふれてきて、僕は両手で顔を覆った。
「気がついたか?」
この声.......城戸さん.....?
僕の手首を掴んで、城戸さんは無理矢理両手を顔から引き剥がす。
この手の感触........もしかして........。
さっき......の.......。
この体に深く刻み込まれたおぞましくて、快楽の渦に突き落とすかのような、この感触。
.......城戸さん...!?
なんで?.......なんで......?
涙が止まらない、呼吸が早くなってくる。
「........城戸....さ、な......んで?
.....なん......で、あん..なこと」
城戸さんは手首をベッドに押し付けたまま僕の上にのしかかって、相変わらず冷たい目で僕を見つめた。
「ああでもしなきゃ、ダメだったんだ」
「..........」
「甘い香りを強烈に放ちながら、苦しそうに悶えるあんたを、止められなかったんだ」
「..........」
「あんたを止めるには番になるしかなかった。
噛んだら噛んだで、オメガを全開にして.........。
あんたが途端にとろけだすから........。
今度は、俺が、止まらなかった」
そう言って城戸さんは、僕に深く唇を重ねてくる。
城戸さんの.....キスは.......。
優しくて、僕の中をまた濡らすように感じさせて.......。
でも、僕の体は小さく震えていて........。
僕は、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
.........番には、逆らえない......。
番になったオメガは、アルファには逆らえない。
だから、僕は。
番になった城戸さんに、僕は逆らえないんだ。
「........ん...」
また、体が中から熱くなる。
城戸さんを求めるように中が濡れて、僕の様子に気付いた城戸さんは僕の中に指を入れた。
そして僕の中は城戸さんを待っているかのように、グチュグチュ、嫌な音をたてるんだ。
「や........やぁ......ら」
「受け入れろ、奈苗。俺たちは、番だ」
受け入れろ、ったって。
体はもう、城戸さんを欲してやまない。
やまないから、僕の心は乱されて、落ち着かなくて........苦しいんだ。
城戸さんに惹かれてたのは、本当で。
でも、いくら僕を止めるためとはいえ、無理矢理番になって、レイプみたいに僕を抱いて。
何もかも、急すぎて。
城戸さんのことも、自分のことすら、分からなくなってくる。
城戸さんを好きになれるんだろうか.......。
体だけが城戸さんを好きで、僕は心の底から、番の城戸さんを好きになれるんだろうか。
「ん......はぁ.......」
僕の中をかき乱す城戸さんが、前後に激しく揺れる僕の耳元で囁く。
「........奈苗、好きだ。
だから......俺から、離れるな。
早苗みたいには.....絶対に、させないから」
「.......き.....ど、さ」
「信じろ....奈苗」
信じろ.......だって。
城戸さんのその言葉は僕の耳に届いていた。
届いていたんだけど、城戸さんがまた僕に深く沈むような快楽を与えるから。
夢の中にいるような感じで、現実味がなかったんた。
「奈苗、ごめんね」
「.......早苗」
「でも、サナエは........奈苗がキライ」
母屋から離れに戻って、開口一番、初めて早苗に謝られて、そして、初めて早苗が僕に悪意を向けた言葉を言った。
...........見られてたんだ。
城戸さんに、襲われてるところ。
だから早苗は〝早苗の中の義信さん〟を僕が誘って、義信さんをとったと思っている。
..........見てたんなら、助けてくれてもよかったのに。
あんだけ僕が〝助けて〟って叫んでたんだから、助けて欲しかったのに。
早苗はそんな認識はないけど、仮にも、僕は早苗の子どもなのに、僕に対して愛情がないから、早苗は助けてもくれない。
助けてもくれないくせに、勘違いして僕を恋敵と思っている。
城戸さんにあんなことをされた後にも関わらず、本当の父である早苗にも突き放されて。
僕は、身も心も、限界寸前のとこまで追い込まれてしまった。
「ヨシノブさんをとるなんて、奈苗はひどい」
「早苗。あの人はヨシノブさんじゃないよ.......」
「嘘つき。奈苗なんて、キライ」
「.........早苗」
もう、やだ.......。
なんで、僕だけこんな目に合うんだろう。
愛して欲しい人には、愛されない。
愛をくれる人の愛が、わからない。
ここから、この場所から逃げ出したくて、僕は泣きながら離れを後にしたんだ。
僕はもう、ここにはいられない、いたくない。
早苗だけなら、ここに住まわせてもらえるかもしれない。
僕はもう.......色々、詰んでる。
俯いて泣きながら出口に向かって歩いていたら、突然現れた誰かにぶつかってしまった。
「.........すみません」
「早苗?!」
そう驚いた男の人の声に、僕は思わず顔をあげた。
城戸さんみたいに背が高い、大きな一重の切れ長な目.......の年上の男の人が、僕を信じられないような目で見ている。
.........この人!
城戸さんのお父さん.......義信さんだ。
「...........僕は、早苗じゃありません」
「.....あ、失礼しました」
「早苗は......早苗は、僕の父です」
「........じゃ....じゃあ、君は」
「僕は、父の子の奈苗です」
義信さんは弾かれたように動いて僕を抱きしめた。
あまりにも急で、あまりにもその体温が城戸さんに似ていて......。
僕はまた、涙が止まらなくなって、義信さんに言ったんだ。
「父は記憶がありません。
僕のことも、自分の子どもだって思っていません。
......だけど、あなたのことは思い出したんです。
義信さんって.......あなたのことだけは、思い出したんです」
「............」
「父......早苗は、離れにいます。
会いに行ってあげてください」
早苗が、今の義信さんを受け入れるからわからない。
わからないけど、僕は確信した。
義信さんに抱きしめられて、大丈夫、って確信したんだ。
きっと、早苗は受け入れる。
でも、そこにはやっぱり、僕の存在はないんだ。
義信さんは、僕を離すと一目散に離れに向かって走り出した。
これで......これで、よかったんだ。
あとは、僕がここから消えるだけ。
義信さんの背中を見送ると、僕はまた、出口に足を向けたんだ。
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