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第3話

 夕刻頃、外から解錠される音がする。田淵に不信感など存在せず、そのうちに奥から行きと変わらない爽やかさで黒田が帰宅した。「ただいま!」。  学校帰りらしく、簡単な斜めがけのバッグを提げている。それを下ろすだけの仕草も様になっている。 「そういえばさ、田淵さんの向こうのマンションの家賃、もしかして今月分払っちゃった?」  失念していた。此処は彼の家で、家主も彼だ。  大切な書類を出し忘れ、催促された時のような切迫感が田淵を支配した。さりげなく田淵の思うところを聞き出そうとしているのが見て取れて、話術に長けていると感じた。ホストになっていれば、そこらへんでは負けなしのナンバーワンになっていることだろう。  慌てて引越し先を探している風を装い、「これから、払う、です」とつい、以前のようにどもってしまった。 「なるほど……じゃあ、もう、ちょうどいいしこっちに住んじゃえば?」  「ちょうどいい」といった黒田に含みがあるのか、いつも見る爽やかさが半減した。つまり、「こんなこと言わせる前にとっとと、出ていけ」が正しい訳だ。  「え? それはない、ですっ!」と言っておかなければ、彼が迷惑を被る。  年上としての多少の見栄を張って、パソコンのキーボードを無駄打ちする。左上には、無規則なアルファベットと平仮名の羅列が連射される。 「どうして?」  パソコン越しのゼロ距離で表情に影を落とした黒田は問う。  背中に嫌な汗をかきながら「迷惑……かけてしまうから——」と今更ながらの遠慮を口にする。 「だから、どうして?」 「へ?」 「ああ、ごめん。だって、解決できていなところに戻る意味が分からなくて」 「……今月いっぱいで、引っ越そうって——」 「田淵さん。もっと考えてみて。引越すには、少なくとも、衣類の持ち運びは必須じゃない? 解決はできていないまんまだから、きっと新聞受けは——ね? 危ないよ」  同意を求める目に魅せられて、首を上下に振る。  それから、昨日のことのように蘇る段ボールに身を凍らせた。  ——白くて、粘着度が高く、後から鼻につく特有のニオイ。  男性であればこそすぐに想像し得る、何日も溜め込んだであろうアレ。 「実際に行ってみないと、新聞受けどころか、部屋の中は分からない。でも、俺の話を聞いただけで怖気付いちゃってる」  否定できずにいると、移動した黒田が横から抱き寄せる。「そりゃ、あんな気持ち悪いものみたんだから、当然の反応だよ。だからこそ、よく考えて。自分を守るために」。 「ああいう出会い方で、とにかくヒロキさんが怖がらないようにって思って此処においたけど、いつの間にかこんなに仲良くなれて嬉しいんだ。……だから、俺が守ってあげたいっていうか、なんていうか……」  抱き寄せたその次は。鼻頭をちょん、田淵のも同じように重ね合わせる黒田の行動は、まさに、少女漫画のヒロインをドキドキさせる主人公のそれだ。  黒田は続ける。「ヒロキさんは最初から人付き合い苦手な雰囲気しか出してなかったけど、それでもいい人だってのは漏れ出すもんだからさ。男同士だからっていう前置きが関係なくなっちゃった」。   「そんな……僕も、居心地良くて、その……なあなあで今日まで来ちゃって」 「それは嬉しい。ところで、あの家に少しでも帰るっていう問題はどうする? 引っ越すにしても、だしさ」 「……」  すぐには答えが見出せず、沈黙を作り出してしまう。それをみた黒田は、ニヒルに笑む。「あれからこっちに嫌がらせの類は来てないから、ソイツはまだあの家にヒロキさんがいると思ってるはず。だからといって、配達ボックスや新聞受けを確認するのは気が重いでしょ?」。 「万が一、家に戻ったタイミングでソイツが上がり込んでくるなんてことがあれば——」  想像に難くない現実に、田淵は身震いしてそれを拒否する。 「と、いうことだから、もういっそのこと俺の家に住んじゃえば? ていう提案は悪くないよね?」  プレゼンテーションのごとく熱弁する黒田が、聞き手の首を縦に頷かせる説得力で田淵に猛威を振るう。さらに、「俺といて、居心地がいいとも言ってくれたね。俺と一緒に住むと、俺の手料理が毎回出るというメリットがあります! そこで、どうでしょう。更新前ということも何かの縁だし、ウチに鞍替えしちゃおうよ! そうすれば、ヒロキさんの嫌で不安なあの件を放置することができるよ?」と嬉々としながら話す。  「引越しの細かいところは俺が介入することで問題は解決!! 絶対の安全が保証される」黒田は田淵の安全第一の性格特性に訴えかけ、田淵の盲目的なまでの保身に拍車をかけさせた。  案の定、「安全……?」と引っ掛かりを見せて食いついた。話の9割を抜け落としているに違いない。 「それもそうか……。黒田君はあの時も、赤の他人の僕にたくさん手を差し伸べてくれたし。黒田君さえよければ」  絶大なる信頼を寄せてしまったのだった。  その言葉を聞いて、黒田のナニはあらぬ方向に主張し始める——。  

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