6 / 104

第6話――黒田――

 田淵は支配的な畏怖と残り僅かな良心で「あ、ありがとう……。でも、自分で用意できるから大丈夫だよ」という。存外、彼の心の幹は細くないらしい。     ようやく断りの言葉をいえた田淵を一蹴するのは躊躇われる。懐疑される可能性が出てくると厄介なのだ。仕方なく、痩せ我慢する田淵の言葉を一旦受け取ることにした。「なるほどね。んー、じゃあ、この際だから俺に準備させてよ。ネット注文でもいいんだけど、服や靴はやっぱ実物見なきゃじゃん?」。 「それに、俺学生は学生だけど大学院生だからね。授業のバイトして普通のアルバイトよりは貰ってるんだよ」  「O」の口を作って感心している田淵だが、黒田にはこの発言の枕詞として「ヒロキさんの収入に比べれば微々たるもの」であると実感している。  一息ついて黒田は続けた。「ありがた迷惑だよね……ごめん。俺、世話焼きじゃないんだけど、他人に介入しすぎて嫌がられることも多かったから、ここまで俺の発言が許されてるのが嬉しくて調子乗ってるかも」。 「黒田君は優しい……」 「ありがとう。ついやり過ぎちゃうこともあるけど、嫌なことはハッキリ言ってくれていいからね——それで、いつも失敗して離れていっちゃう。今度こそ、ずっと……ね」 (それを世話焼きっつうんだけど)  口からこぼれそうになる本音を飲み込んで、田淵の手を握る。   「相手はきっと……我が儘な人が多かったんだね。こんなに善意しかないのに、離れるなんて、思うわけない」  「そう?」と食い気味に答える黒田に多少身を引いているが、それしきで信頼が崩れる気配は感じられない。術中に嵌っている彼には悪いが、笑いがこみ上げてくる。 「じゃあ。俺が衣類を用意していいんだね」 「う……お願い、しようかな」 「おっけ、任せて! うん、これで引越しのミッションはクリア、かな」 「あり、がとう」 「いいえ、仲良くなれて嬉しい!!」  ここまで円滑に事物が進捗していくのが逆に不気味とまで言えるが、黒田の歓喜に嘘偽りはない。    「——ん? 黒田君、大学院生?!」と時差で訪れる吃驚に、珍しく眉全体が吊り上っている。   「そうだよ。理系の大学院一回生です! 研究がうまいこといったから、あとは論文書くだけだから、バイトして暇を潰してるの」  「俺、意外と優良株じゃない?」下からのアングルで田淵を覗き込む。すると、息を呑んで全身で照れてくれる田淵がいる。この反応は、ある意味で指標になる。 「……こんなに可愛い28歳がいていいのか、俺不安なんだけど! 本当に28?!」  黒田の言葉に理解が追いつかず、ジト目で見つめる。 「ちょ、ちょっと本気でイタいなっていう目で見ないで!! 俺の意見は皆の総意だよ?!」 「……」 「……いや、ごめん。総意っていうか、俺だけの俺だけが感じる、意見、デス」  なぜか黒田まで赤面させられた。紅潮する頬は伝染するらしい。  「黒田君はきっと、学校じゃ引く手数多で、女の子が黙ってない……んじゃないかって思うけど」今度は常時の八の字眉で田淵はいう。 「優良株になるにはそれくらいなきゃ駄目でしょう!」  そう言えば、明らかに肩を落とす田淵。  黒田は自身に叱咤し、口角が上がるのを堪える。「ま、リケジョで、大学院生のリケジョなんて1割未満だから、きっとヒロキさんが想像してるのとちょっと違うかも」。 「それに、文系もいる大学だけど、別棟だしリケジョはつまんないし。出会いなんて根絶されたも同然の環境だよ」  それから黒田は謙遜まじりに「俺も一度くらいは引く手数多なんていう夢のような優越感に浸ってみたいとは思うよねー」と弁明してみる。 「でも、優良株っていうのは、何人に好かれたか、ではない気がする」 「……うん」    いやに納得した顔を見せる田淵に、彼の恋愛観が垣間見える。心当たりのあるエピソードでもあるのだろうか。嫉妬心がじくじくと染み渡って脳内まで侵入する。  理性の司る部分への侵入は防いだところで、田淵と視線があう。

ともだちにシェアしよう!