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第10話
田淵は夢見中の自分をやけに客観視できる感覚に陥っていた。明晰夢とはよくいったものだ。
「今までが簡単過ぎたんだろうな。これくらいのイレギュラーは想定内だったはずなのに。——だから、念入りに用意したアリバイが今になって役に立ったわけだし……。それにしても、よく見てくれてるなぁ」
背を向けて喋る男の顔を見ることは叶わないらしく、意思を持ってしても田淵自身の体を動かすことはできなかった。
「嬉しいやら、まずいやら」男は嘆息混じりに言う。
「何を仰る。貴方、アルバイトの件は嘘だろう?」
「証拠としてHP見せたじゃん」
「そうですね、確かに見せてもらった」
男の背に話しかけている自分の口調が、何やら探偵風情を装っていて犯人を追い詰めんとばかりに、彼の背に切迫感を与える。しかし、彼の背からは微塵も緊張を感じられない。
「では、検索をかけてもいいですか?」
「何? アレが嘘だとでも言うの?」
「僕のパソコンで」
男は振り返る。言葉を噤んで悠然と田淵と距離を詰めてくるが、それでも顔は不明瞭だ。
自信満々の探偵風情な田淵は、夢でもコミュ障は完全には克服できていないらしい。
ゆっくりと距離を縮められ、緊迫した空気感がこの場を纏い出す。長期戦には向かないようだ。
男は依然として声の調子を変えず「もし仮にこのHPが嘘だったとしよう。それで、俺が犯人である俺のメリットは?」といった。
「あんな嫌がらせをして、家にアンタを囲う必要性を感じない。やってることがチグハグすぎる。嫌がらせをしたなら、家に連れてきたところで嫌がらせをどこかでやるはずなのに、俺、アンタの嫌がるようなことした覚えないんだけどな」
男のセリフに聞き覚えしかなく、アドリブで聞き返そうと口を開く司令を試みても、田淵の口は意思とは関係なく次のセリフへと移っている。予定調和を崩すことができない夢のようだ。
男はまだ近づいてくる。
「あ、でも、アンタを囲うことができたのは、俺のメリットだったよ!」
田淵は客体化した身体に司令を出し続けるも、緊張だけが融合している状態である。
あっけらかんとした様子の男は、田淵の唇に口付けた。目を丸くしている間に男の手が田淵の顎をさすって、開口を誘われた。
「これこれ……やっぱり最高だよ……」完全にキャパオーバーして拒否すらできないでいる田淵の口内を、好き勝手に遊び回る男の舌。もう、どちらの唾液か察しがつかない。感覚共有だけはリアリティに富んでいて、これでは起きた時にきっと羞恥心で彼に顔向けできないだろう——。
「ヒロキさん……」
「え?!」バチ、とまどろみなしで目が覚める。夢オチだったのだ。
田淵は上体を起こして朝の余韻に浸ることなく、自責の念に駆られる。先程見ていた夢の舞台がまさにこの部屋であり、キスした相手も、最後の最後で判明したことで、頭を抱えた。
「ああいうシチュエーションの場合、夢占いとかだったら、僕の願望とでも言われるんだろうか……」
「犯人を突き止める探偵風の自分がキモかったのはこの際置いといて、犯人とキスとか、どんだけ欲求不満だったの?!」田淵はこれから黒田と対面しなければならないと思うと、羞恥で穴を探したい気分に支配される。
埋まりたいのだ、すっぽりと身を隠してくれて、それでいて見つかりにくい、自分ぴったりの隠れ穴が。
幸い、此処は自室であり、黒田はいない。
「作戦会議は顔を洗ってからにしよう」
おもむろにベッドから立ち上がる。「ん?」と声に出てしまう。
身体が鉛玉のようだ。ただ、倦怠感の類いではないので、不調というわけではなさそうだ。
不思議な感覚に鞭打ちしながら歩いていく。
自室から出たところで、ちょうど黒田も自室から出たらしく、ばったりと黒田に出くわした。
「ヒロキさんおはよう! 起き上がって大丈夫?」
「おはよ——へ?! ちょっと!」
宣告なしに田淵をいとも簡単に抱き上げる。
「昨日お酒を飲みすぎちゃって倒れたんだよ」
「あ、そうだ。僕、飲みすぎたところまでは覚えてるんだけど……」
「だよね。だから、辛いだろうと思って。気にすることないよ」
そして、夢より現実に向き合う必要が出てきたようだ。紅潮していた顔面が蒼白になっていく。如実に血の気が引いていき、スマイリーな表情を見せる黒田に、昨夜の失態を聞く勇気はもてなかった。
もしかすると、夢オチだと思われたあの明晰夢は、デジャブとなって夢に現れたのではないか。多少、状況の歪みこそ出ていても、キスをしたという部分は合致しているのではないか。
——やけに唇がガサついているのが気になって仕方がない。
「辛くない?」
「辛い、とかはないんだけど、ただただ、身体がフラついてるかな」
ベッドへ連れ戻した田淵に「今、お茶持ってくるね」と黒田はリビングへ消えていく。
「あ、ついでにリップ持って来る。唇、気になるんでしょ?」
「え、あ、ありがとう」
気が利いて、優しくて、男前。そして、料理上手な上に理系男子。
この完全無欠とも思わせる男に誰がときめかないのか。
だが、自分だけが欲にまみれている気がして、彼の善意が今は酷く痛かった。
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