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第88話――黒田――

 時は少し遡る。  紙切れ一枚を握り締めた黒田は、咆哮する。  歪んだ紙を正せば、堂々とした達筆で丁寧に一言「お世話になりました」と書かれている。以前の田淵なら寂しさを表すために直筆で書いていたらしいが、今ではその文字から確固たる意思の強さを感じてならない。  しかし、黒田は深くを息を吐いて落ち着きを取り戻す。それから、部屋中を確認して、荷物の一切を持っていったことがわかる。計画的犯行である。 「――ということは、通勤の時の鞄も持っていってるわけか」  ほくそ笑んでしまうのを抑えられない。  一枚たりとも田淵からの置き手紙を捨てずに大事に保管していたが、縦横無尽に入ったしわしわの紙切れは手で裂いた。  「捕まえることはしないであげるから、今のうちに頭をしっかり冷やしておくんだよ。どうせ、実家に帰るくらいだろうけど」裂かれた紙切れをそのままに、キッチンの棚からストックされていたチョコを取り出して貪った。  そして、スマホとイヤホンを常に手元に起きながら、仕事と帰宅を繰り返す。少しでも独りの時間を感じないように、家ではイヤホンが手放せない。  自室のベッドに寝転び、耳から聞こえてくる生活音に酔いしれる。自分のものではないその音も、全く心地よくないノイズのような音も、黒田には関係なかった。  これで、ディアゴとの関係を詰めて、真相にたどり着けば田淵のところで迎えに行ける。  しかし、平社員としてディアゴのいる部署で働き始めると、ディアゴの方からアクションがあった。しかし、それはあくまで同じ中途採用組だからに過ぎず、様子を見るのに随分と時間を費やすることになった。  そうしている間にも、イヤホンからは実家を出ていく音声、新幹線に乗る音声、そして、県外の停車駅のアナウンスの音声が入ってくる。  黒田を焦らせるには十分過ぎる音声なだけに、ディアゴとの友好関係を待たずしてサシでの飲みに誘った。それも「個人的な相談」と抜かして。  「俺もちょうど折り入って相談があったんだ! 奇遇だね」爽やかな笑みをしてみせるディアゴ。 (やっぱ、カタコト喋んないじゃないか) 「俺の行きつけの店があるんだけど、そこに行かない? 日本に来て大衆居酒屋っていうのがすごく好きになってさ。俺がお世話になった場所でもあるんだけど」 「いいね、是非ディアゴの特別な店に連れて行ってくれ」  黒さを微塵も感じさせない話し方に、黒田グループの刺客であるという見立てに疑念すら抱きそうだ。  だが、片耳にさしたままのイヤホンからは生活音が垂れ流されている。 (見失うな、俺。コイツは黒田の回し者かもしれない以前に、ヒロキさんと浮気した男だ。社会的抹殺でもしてやりたいくらいだけど、まずは言質をとらないと)  「じゃ、行こうか」黒田は気を引き締めて、ディアゴの隣を歩いた。  車になど乗せてやるつもりは毛頭ない。

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