アーニアに髪を梳かされながら、僕は鏡でその手際を眺めた。彼女は秋の間僕の侍女を務め上げ、更に戦闘経験も積んでいる。そんなすごい女性を悪く言う人がいるなんて、未だに納得がいかない。エディはこの国は教育が足りていないと言っていたし、騎士学校の改革も望んでいたけれど、それは僕も同じ気持ちだった。もしエディが将来それについて取り組むことがあるなら、そのとき一緒に仕事ができる僕になりたいと思う。 　 「……フィシェル様、今日もお美しい御髪ですわね。極細の金糸のよう」 　 「ありがとう。アーニアも、綺麗ですよ」 　 「まあ。ふふ。ありがとうございます」 　 　アーニアは口元を手で隠してくすくすと笑った。僕も釣られて笑みを浮かべつつ、本日やりたいことを告げる。 　 「今日もまず、エンフィーの様子を見たいのですが……」 　 「それでは、アルヴァト殿下にそうお伝えしておきますわ。ルシモス様からも課題図書を預かっております。お戻りになられましたら、お持ちいたしますわね」 　 「お願いします。もうこんな時刻ですか……ご飯の時間はやっぱり、ずれてしまいますね」 　 　僕が少し熱くなる頬に目を伏せると、アーニアはまた微笑んだ。 　エディは僕と夜を過ごし、昼はテアーザ復興の為の事務作業や魔獣討伐隊の再編などの仕事をしている。僕も何か手伝えることがあればいいのだけれど……生憎と僕はエディの半身になれただけで、大してできることが増えたわけじゃない。今は相変わらず勉強の日々だ。エディとともに忙しくしているはずのルシモスだけれど、僕に数日置きに読書の課題をくれる。僕はそれを読みつつわからないことを書き留めて、ルシモスやエディに質問している。 　 　そういえば、あの染まった夜のことだけど…… 　お風呂から出ると、僕たちの魔力が不自然に流れていくのが視えた。僕とエディは揃って不審に思い、警戒しながら部屋に戻って…… 　 　結論を言うと、僕の枕元にいた幼竜が僕たちの魔力を吸っていた。本人……いや本竜？はまだ眠ったままで、エディが言うには……幼白竜は僕が浄化した後、ルストスに押し付けられたらしい。 　僕は確かにもう大丈夫だと思うところまで浄化したはずだったけれど、毒を毒で上書きして無理矢理洗い流すような行為だったので……兄様からこのやり方で大丈夫だと聞いていたとはいえ、不安だった。だから新しく太陽の魔力を吸っているのは……悪いことではない、のかな…… 　 　何せ僕はオルトゥルム王族の血を引いているくせに、竜の扱い方をなにも知らないのだ。ましてこの子は白竜という特殊な存在で、幼い……というか産まれたてだ。僕はエディを見上げたけど、エディも分からないらしく肩を竦められてしまった。 　エディが洗って乾かしてくれた服に着替えた後……未だ魔力を吸いながら、良く眠っている竜に近付いて眺めていたが、乱れたシーツの片隅に幼竜が寝ている光景に耐えられなくなったので、僕はそっと幼竜を抱き上げた。 　 　ルストスが押し付けたということは、この子が僕たちのそばにいることにはちゃんと意味があるんだろう。 　僕は薬の余韻が残っていたし、半身の魔力増幅効果もあったので、魔力は有り余っている。エディの方も、さっきまで戦いで使っていたとは到底思えないほど全身に魔力が充ちていた。 　僕は片手で窓際に椅子を二脚並べようとして……途中で気付いたエディに助けてもらいながら、隣り合った椅子に二人で腰掛けた。膝に白竜の子を乗せて撫でながら、窓から暗い空と星を眺める。月のない夜だったけれど、隣に太陽もいるし……怖いことはもう、何もなかった。 　 「……そうしていると、親のようだな」 　 　僕の膝上の竜を眺め、エディがそんなことを言うので……僕は少しだけ照れながら、エディの肩に頭を預けた。 　 「でも、たぶん……エディと僕が、この子の……親になるんだと思います」 　 「……親に？しかし、その……卵を産んだ竜がいるのでは？」 　 「生みの親や育ての親とはもちろん違いますが……白竜は魔力や竜気を提供した人間もまた親だそうです。お兄様がそう仰っていました」 　 「俺たちと同じ魔力になるのか」 　 「ええ、そうですね……」 　 　きっと……将来この子は、新しく歩み始めるオルトゥルムを優しく照らしてくれる。既に普通の竜の言葉は退化しているはずだし、ヴォルディスの二の舞にはならない、と思う。 　僕たちが魔力をゆっくりと注いでやると、幼竜は次第に体色を変えていく。美しい金色の身体、薄っすら開けられた瞳は僕たちと同じ、赤と橙のオッドアイ。 　 「名前を付けてあげないといけませんね」 　 「元々の名前はなかったのか？」 　 「うーん、どうだろう……でも、白竜は魔力を与えた親が名を贈るそうですよ。もしお兄様が既に名付けていたとしても……きっとまた僕たちが新しく付けることになると思います」 　 　僕の腕の中で微睡む幼竜が、小さくクゥ、と鳴いた。 　 　そんな訳で幼竜はエディと僕の音を取ってエンフィーと名付けられ、今は竜種の知識のあるアルヴァトお兄様が世話をしてくれている。 　兄様はあの後一度オルトゥルムへと戻ったのだけれど、若い王族たちは呪いからの立ち直りが思いの外早く、兄様は戦のあとの外交交渉の為に再びリグトラントへ渡ってきた。 　しばらくお兄様を何処へ住まわせるか貴族院は揉めに揉めて……見兼ねたルストスが囁き、僕の住んでいるレアザの一室へ来る事になった。滞在はひと月程の予定だけれど、その間にリグトラントは冬になり、雪が降るだろう。それを伝えると兄様は喜んでいた。テアーザよりもずっと南の島国であるオルトゥルムは、雪が降らないらしいのだ。僕は寒いのが苦手なので、冬でも暖かいオルトゥルムの方が羨ましいと思ったのだけれど…… 　 「おはようございます、お兄様。入ってもよろしいでしょうか」 　 「ああ、どうぞ」 　 　ノックをしてから部屋へと入る。兄様は窓辺に置いた椅子に腰掛け、窓枠で外を眺めるエンフィーをつついてからかっていた。 　 「おはよう……と言っても、もう昼近いぞ、フィシェル。義弟に程々にするよう言ってやろうか？」 　 「うっ……いえ、僕がもう少し体力で張り合えるようになれば……」 　 「くっくっく……残念だが、元白竜の御子であり……華奢なリグトラント国民の血も流れているフィシェルでは、恐らく鍛えたところであまり筋肉はつかないぞ」 　 　僕は真っ赤になりながら、エンフィーの元へ近付いた。悔しいけど、僕も自分の薄い体が兄様やエディのように逞しくなるところはまるで想像がつかなかった。 　 「……おはよう、エンフィー」 　 　僕が声を掛けると、こちらを見上げていた金の幼竜が飛び付いてきた。エンフィーは四足ある上に翼も持ち合わせているが……翼の方はまだ弱く、長時間飛ぶことはできない。僕は窓枠から滑空してくるその金色をなんとか受け止めた。 　腕の中に落ち着いた竜は僕の肩から前に流れる髪に沿って鼻先をふんふんと揺らし、匂いを嗅いでいる……のかな……？ 　 「今のエンフィーを受け止める事で精一杯のようでは、先が思いやられるな」 　 　兄様がニヤリと言いながら、僕に椅子を勧めてくれる。僕は大人しく日光が降り注ぐ窓辺に腰掛けた。 　エディの色に染まった後、僕は肌も目も太陽に焼かれることは無くなった。更に目の中が光に強くなった所為なのか……視力が大幅に上がった。遠くまではっきりと見え、最近は外を散歩するのがとても楽しい。今ではベール無しで一日中過ごすことができる。 　とはいえ、ルシモスと兄様が診たところによると……まだ他の人より若干眩しく感じているようなので、例えば陽射しの強い真夏や、冬の降雪後に地面が一面真っ白になった晴れの日には、きっとまたベールが必要だろうと言われた。 　本格的な冬になり雪が降る前に、衣服にかけられた魔法の調整をお願いしにリチャード様の元へ向かわなければならないだろう。 　 　僕はエンフィーを構いながら、ふと気になっていたことを兄様に尋ねることにした。 　 「……以前お兄様は、竜は大体二年程で成竜になると仰っておられましたよね？」 　 「ああ」 　 「エンフィーは……その、成竜になると、どのくらいの大きさになるんでしょうか？」 　 　兄様も僕の近くの椅子へ腰を降ろしつつ、エンフィーに手を伸ばした。幼竜はすかさずその手にじゃれつく。 　 「うーん……どうだろうなぁ。白竜は注がれた魔力によって、成長後の大きさがまちまちなんだ。俺に聞くよりも、ルストス辺りに聞いた方が早いかもしれんぞ」 　 「ルストスですか？」 　 「ああ。精霊の与える予言の方がまだ正確だろう。つまり……俺とて太陽竜の成長後がどれほどの大きさになるかは今のところさっぱり分からんということだ」 　 　肩をすくめる兄様に僕は頷きながら、腕の中のエンフィーを見つめた。目が合うと、エンフィーが笑ったのが視える。 　兄様によれば、幼い頃から竜と共に暮らすオルトゥルム国民は魔力視などなくとも竜の表情が分かるらしいけれど……僕には正直なところ、まだ全然分からない。全体の仕草や、魔力を視ることでようやく気持ちを判断することができている。魔力視があって本当に良かったと思う。 　 「一年ほど経つ頃また様子を見に来るし、腕の良い世話人も派遣するが……あまりに大きくなりそうなら、早めにオルトゥルムで預かった方がいいかもしれんな。ここでは巨大な翼竜は飼えまい」 　 「……そう、ですね……」 　兄様にそう言われて寂しくなった。エンフィーはオルトゥルムの新たな希望の光となる。ルストスがそう言っていた。成長したら離れて暮らすと分かっていたとはいえ……たった一年や二年なんて、あんまりにも短過ぎる。 　 「寂しいか？」 　 「はい。エンフィーも……寂しいかな」 　 「当然、寂しがるだろうなぁ。しかしフィシェルが……オルトゥルムへ会いに来ればいいだろう」 　 「それはそうできればしたいですけれど……」 　 　僕の今後については、若干宙に浮いてしまっているところがある。エディのちゃんとした半身として改めて国民に発表したいところだそうだが、まずはオルトゥルムと話をまとめ、それを国民に伝えなくてはならない。 　エディは心底嫌そうにしながら、「王族や貴族達には先に会わせなければならないかもしれない」と言っていたけれど…… 　とにかく、僕の今後については今のところ良く分からないし、エディも……国外遠征はできないんじゃないだろうか。何せリグトラントの性質上、魔獣の脅威が無くなることはないのだ。 　……ちょっとうちの子に会いたいのでオルトゥルムへ行ってきます！なんて話が数年の内に許されるのか、不明だった。 　少なくともこのときの僕はそう思っていたし、そこまで慌てて許可を得る必要もないだろうと深く考えてはいなかった。まずはこの一年、エンフィーと一緒に過ごしてみなければ。 「フィシェルが言えば許しが出るのではないか？」 　 「僕がリグトラントを出られても、エディは国防の要ですし……出国できないんじゃないかなー……と」 　 「おっと……一緒に来る前提か。フィシェルだけで来てもいいというのに」 　 「う……！」 　 　僕は頬がカッと熱くなるのを感じていたが、からかう様な微笑みを浮かべる兄様を負けじと見上げた。 　 「だ、だってエディも、親なんですから。エンフィーに会いたいだろうと思うし……そ、それに僕は、一人では……自分の身をさっぱり守れない程度には弱いですからね」 　 「……太陽の魔力を得たのだろう？相当な実力の魔導師としてやっていけるのでは無いか」 　 「うーん……色々と、練習してはいるのですが……」 　 　リグトラント人の魔法は、魔力の色で属性が決まって、魂で使える種類が決まるから……これは僕の魂の話になるんだけど…… 　僕の魂は……全くと言っていいほど戦闘に向いていない。それはもう、他人を攻撃することができないアレビナが、僕の魔法を見て困惑するほどには向いていない。 　治癒はできる。それもルストスにコツを聞いたので、自分の中にある特定の色の魔力だけを流して相手を治療する……なんてことが可能だ。だから暖色相手なら人を選ばず、魔力視のおかげで魔力の色味を相手に合わせて調節できるので、殆ど摩擦痛無く治癒できる。 　ルストスはそうやって風の魔力だけを流し、魔力色を判定する魔道具を欺き続けてきたそうだ。その話を参考にやってみると……案外簡単に出来た。こうして僕は……治癒魔導師としては相当高いレベルになったんだけど…… 　 　その他は本当にささやかな効果の魔法しか使えない。今までは自己治癒以外の魔法が使えなかったので、何かしらの物理現象を起こせるだけで感動してはいるけれど…… 　今の僕にできるのは、蝋燭に火を灯す程度の小さな炎を出すこと、魔力灯の代わりになる小さな光の玉を浮かべること、小さな鉢植えに小石を敷いて土で満たすこと……精々その程度だ。 　エディが砂を手足のように使うことに憧れて練習してみても、僕ではそもそも出せる砂の量が少なすぎて……運んでみようとした小物入れはゆっくりと地面を這っただけだった。……あの時の僕の落胆は中々のもので、エディは長い間僕を慰めてくれた。 　そう……た、例えば、室内履きの布靴がすっぽ抜けてしまったときとか……そういう場面では便利かも……しれない。 　 　結局の所、僕は防御魔法すら練り上げられないのだ。同じ魔力を持つエディに聞いてみたけれど、こちらは元々強すぎる光以外の火と地で最初から大抵のことはできてしまったそうなので、全然参考にならなかった。 　エディたちは僕の器用な治癒術に目を丸くしていたけれど……僕だってルドラみたいに格好良く火の槍を飛ばしたり、パウロさんみたいに咄嗟の攻撃を防御してみせたり、リチャード様のように大規模で精密な結界を張ってみたり……色々とやってみたかったのに。 　 　エディには逆に治癒術の教えを請われた。これが出来れば戦いが相当楽になるらしく…… 　僕の魔力視を半永久的に貸し与えているので、魔力色の調節もできるんじゃないかと思ったんだけど……結論から言うと駄目だった。 　至純だった僕もそうだけど、同じ色の魔力がいなかった多重霊格のエディは当然自己治癒を使ってきた。その為エディの魂が全く治癒ができないわけではないとはいえ、他者の治癒にはさっぱり向いていなかった。また、エディの光が強すぎる為に僕ほど上手く色を作れないようだった。 　暖色の階調の中でも光の黄色は控えめに見えるのに、色を作ろうとしても混ざってくれないのだ。同じ色に染まったはずの僕は平気なのに……やっぱりエディは太陽だから特別なのかな？ 　 　つまりエディにできることは僕にはさっぱりできないし、僕にできることはエディには全然できないという有り様だった。半身同士でここまで使える魔法に差が出ることはあまりないらしく、ルシモスは呆れていたし、ルストスは腹を抱えて笑い転げていた。 　それを伝えると兄様もおかしそうに笑い出した。 　 「ふ……くく、お前たち……本当に精霊国の半身同士か？しかし、フィシェルに生活魔法以上のことができないのは分かるが、あの何でも出来そうなエドワードに治癒が出来ないとは意外だ。魔力の所為もあるようだが」 　 　今では二人はすっかり呼び捨てていて、仲がいい……ようにも思う。時々二人でお酒を飲んでいるし。僕も混ざりたかったけど、エディが許してくれなかった。 　僕はエディと二人のとき以外では禁酒を言い渡されている。……やっぱりイツラでのやらかしは相当なものだったようだ。人前で恥ずかしい事をした自覚もしてしまったし…… 「エディ曰く、『俺はそんなに優しい人間じゃない』ということでしたけど……」 　 「まあ、それはそうだな。話してみて分かったが、思ったよりずっと自分勝手な奴だったぞ」 　 「……そうなんですか？僕には全然理解ができないんですけど」 　 「フィシェル……それはお前が……いや、いい。やめておこう。そのうち本人にそれを言え。こんなことは代弁すべきではないからな」 　 　僕は何故か珍しく恥ずかしそうにしている兄様を見ながら頷いた。 　 「そろそろ昼時だが、フィシェルはどうする？一緒に食べるか？」 　 「う……ぼ、僕はさっき食べたばかりなので……」 　 「やれやれ……エドワードには、そちらも程々にしろと言ったほうがいいぞ」 　 　ニヤリと笑う兄様にエンフィーを奪われながら、僕は真っ赤になって俯いた。 　とはいえ、兄様が食事をするなら邪魔をしたくはない。そう思って立ち上がろうとした所で、兄様の尻尾がピクリと動いた。 　兄様は竜人の特性のお陰で音や気配に敏感で、一度会って覚えた人物ならある程度まで近づけば障害物を挟んでいても正確に言い当てることができる。 　兄様はノックの前から「入れ」と言う。地属性も扱えるようになったはずなのに、僕には何にも聞こえていない…… 　 　扉が開くと、ルストスが部屋に入ってきた。閑吟用の豪奢な刺繍の入った衣服を着て、いつになく真面目な顔をしている。 　 「ルストス……こんにちは。どうしましたか？」 　 「フィシェル、突然だけど今日の午後……つまりこのあと、来客があるよ」 　 「ら、来客……？ここにですか？でも、レアザ館は今……」 　 　レアザには今、交渉中の元敵対国の要人がいるし、その弟でありエディの半身でもある僕がいるので、基本的に新たな客人は入れないことになっている。 　ルストスも当然それを知っている……というかそもそも兄様をレアザへ滞在させるように仕向けたのは彼なので、他ならぬルストスから来客を告げられる事には嫌な予感がした。 　 「そうそう……フィシェルがまだ会ったことのないエドワード様の兄妹は？」 　 「ええと……お二人いる、妹君ですね。確か、アンジェリカ・サロ・リグトラント様……それから、ミーシャ・リル・リグトラント様」 　 「うん、ちゃんと御名前も覚えてるね。そのうち今日はアンジェリカ様が、午後にレアザへやってくる」 　 「な、なんでですか？」 　 　ルストスはニヤリと笑って僕を見た。これは……何か企んでいる時の顔だと思う。 　 「フィシェルを、社交界デビューさせる為に」 　 「…………え？」 　 　ポカンとする僕を見上げて、エンフィーが小さく鳴いた。