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第1話

 1.豆柴とあつあつオニオングラタンスープ    御子柴(みこしば)芽(めぐむ)はとぼとぼと銀座界隈を歩いていた。  銀座といっても、中央通りの華やかなショーウインドウのあるビルが立ち並ぶ界隈ではない。中央通りを外れ、昭和通りを隔てると、ずっと庶民的な風景になる。  もちろんたくさんのビルはあって、コンクリートジャングル、と言っても過言ではないくらいそれらはひしめき合っているが、通り過ぎる人たちはサラリーマンだったり運送会社の配達員だったりで、着飾って買い物を楽しもうという人はほとんどいない。  小さな活版印刷会社や、小さな飲食店、個人経営の弁当屋にクリーニング店などがビルとビルの合間に挟まれるようにあり、また路地裏を覗くと町屋風の佇まいの建物もあって、静かで落ち着いた街並みはどこか芽の気持ちをホッとさせた。  北海道から上京して一週間、都内のあちこちを歩き回ったが、ここが一番気持ちが落ち着く。映像を早回ししているような忙しなさもなく、耳に不用意に飛び込んでくるような騒音もなく、どこかゆったりとした時間が流れているような気にすらなる。 「銀座からちょっと歩いただけなのに」  銀座四丁目の交差点から晴海通りを築地方面に向かい、昭和通りを越えて歌舞伎座の裏手へ数分足を進めただけだ。  打って変わって静かになった通りをゆっくりと歩き、きょろきょろとあたりを見回す。 「木挽町(こびきちょう)……?」  視線の先にあるあちこちのビルや店舗の名称に《木挽町》とあるものが多い。とはいえ、電柱に掲げられている住居表示は銀座であり、銀座なのに木挽町とは、と不思議に思いながら首を傾げた。  だが芽としては銀座というきらびやかな名前より、木挽町という響きになんとなく親近感を覚える。この風情のある界隈は銀座よりも木挽町という名前のほうがふさわしいような気がするし……などとぼんやり歩いていると、路地裏から猫が飛び出してきて、「わっ」と思わず声を上げた。 「びっくりした……」  いけない、いけない。ぼんやり歩いている場合ではない。というのも、芽の目的は銀座観光などではないからだ。 「違う、違うって。探さなくちゃ」  そう独りごち、目を皿のようにして再びあたりを見回す。  芽はとあるビルを探していた。銀座サンシャインビル、という名前のビルだ。けれどさっきから目をこらして歩いているのに、そんな名前のビルは見つからない。  スマホの地図アプリにもそのビルの名前は表示されないし、だから住所を打ち込んで歩き回っているのだが――アプリが示した場所には銀座サンシャインビル、などという建物はなく、代わりに内科医院の看板を掲げた古めかしい建物があるだけだった。 「……はあ」  芽は大きく溜息をついた。  該当の住所のすべてのビルにいちいち立ち寄って名称を確認しているが、やはり目当てのビルはない。もしかして住所が間違っているのかも……と、この近所じゅうのビルに立ち寄ってみたが、徒労に終わってしまった。 「やっぱり……ない……」  がっくりと項垂れる。見つからないとなると一気に疲れが押し寄せた。あげく、お腹が盛大にぐーっ、と大きな音を立てて鳴っている。  それもそのはずで、昨日からなにも食べていない。今朝も宿泊していたカプセルホテルでサービスのコーヒーと水を飲んだきりだ。 「お腹空いたなあ……」  はあ、と再び溜息をついて、ポケットの中から財布を取り出す。財布の中身は見なくてもわかっているが、もしかしたら百円くらい増えているかもしれない。……そんなことあるわけないけれども。  何度見ても百円どころか一円だって増えていない。千円札が二枚と小銭が少し。あとは昨日ICカードに少しチャージしたから、電子マネーがほんの少しだけ使えるものの、それだけしか所持金はない。今日の分の交通費の心配はないが、使えるお金がごく僅かだから、節約のためにホテルからここまで歩いてきたほど。  ぐう、ぐう、と立て続けに鳴るお腹の音にコンビニでおにぎりでも買おうか、と思ったときだった。  ふと、芽の鼻がいい匂いをとらえる。 「…………?」  スープだとかお肉を焼く匂いだとか、そういうものが混ざった――そう、〝おいしい〟匂いだ。芽の足はふらふらとその匂いのするほうへと向く。なんといっても腹が減っている。せめて匂いだけでもお腹いっぱいになりたい。  匂いの元は……小さなビストロのようだった。  白い壁に赤ワイン色の深紅のテント。ドアの色も赤ワインの色でとても可愛らしいおしゃれな店だ。深い赤い色が街並みに馴染んでいるのにパッと目を惹いて、芽の視線はその店に釘付けになった。  店先には黒板が立てかけられていて、ランチメニューが書かれている。  ハンバーグランチ、そして日替わりランチは鶏のコンフィ。どちらもスープとコーヒー付きでぽっきり千円。しかも税込み。ライスとパンも選べるとある。  芽の喉がごくりと鳴った。  まだ一週間ほどしか東京には滞在していないが、銀座界隈の平日ランチは意外にお手頃価格のところが多い。千円札一枚で食べられる店が結構ある。  もちろんピンキリだとは思うがメインの中央通りを外れると、気安く入れそうな店が並んでいて、驚いたことがあった。  千円札一枚が高いか安いかというと、よそに行けば確かにもっと安いランチもあるだろうけれど、なにしろここは銀座だ。芽の抱いていたイメージはセレブでゴージャス、だったから最低でも三千円、いや、五千円、と思い込んでいた。でも実際は千円札が一枚ですむのだから。  目の前の店も、とてもおしゃれで、高そうだ。なのに黒板には千円とある。本当に千円なら芽にだって払える金額だ。黒板に書いてあるコンフィなんて料理はわからないが、ハンバーグという文字にはとても惹かれた。  チェーン店のハンバーガーはともかく、ちゃんとしたお店のハンバーグなどそういえばしばらく食べていない。  それにこのおいしそうな匂いときたら。  匂いだけで想像力を膨らませてなんとか空腹をしのごうかと思っていたが、さっきから口の中に唾液が溜まってきている。  でも、と芽はふるふると首を横に振った。  財布の中身を考えろ、と自分に言い聞かせる。貴重な千円札。二枚しかない千円札。これを今一枚使ってしまうのは……と、芽は葛藤した。  というのも、芽の上京の理由は職探しと住居探し。  だが、一週間頑張って探してみたが、いまだに仕事も見つからなければ、住む場所も見つかっていない。  住む場所がなければ履歴書にも書けないし、職に就いていなければ不動産屋でも断られる。この一週間、足を棒にして仕事も住まいも探したものの、いくら東京とはいえ、北海道から身ひとつで出てきて住むところもない芽を軽率に採用してくれるわけもなかった。  なぜ東京で職探しか、というと事情があった。芽は東京にいる恋人に会いにきたのだ。  遠距離恋愛、ということになるのだろうか。  芽の恋人の隼人(はやと)は東京で会社を経営しており、事業を広げるために北海道へやってきて、そうして芽と出会った。  彼は芽にとって特別の人である。  なにしろ芽のはじめてのお客様だったから。

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