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第5話

 周りを見ると、もう客は芽と隣の和服美女しかいない。夢中になって食べている間に客はいなくなってしまったようだ。だったら訊ねても仕事の邪魔にはならないだろう。 「あの……すみません。ひとつお伺いしたいことがあるんですがいいでしょうか」  意を決して、芽は口を開いた。 「ん? なんだ?」  シェフは少し眉を寄せ、怪訝そうに聞き返した。  芽は自分の鞄の中から、一枚の名刺を出し、シェフに差し出した。 「この会社……ご存じありませんか? 住所はこの近くだと思うんですが……」  それは隼人の名刺だった。会社の名前と住所が書いてある。 「人を……捜していて、あの……この名刺の人なんですが。それで……このあたりをずっと探していたんですが、見つからなくて……」  シェフはその名刺を受け取ると、じっとそれを見つめている。が、すぐになぜか微妙な顔をした。 「あ、あの……」  なにも言わないシェフの様子が気になる。どうしたんだろうと思っていると、芽の隣に座っていた和服美女がシェフの手からその名刺をひょいと取り上げ、まじまじと見た。 「やだ、この名刺」  そして嫌な顔をしたかと思うとそう言った。  きょとんとしている芽に美女は「おにいさん」と芽のほうを見る。 「え? あ、はい」 「――あのね、あんた騙されてるわよ」  はあ、と大きく溜息をつく。そうして色っぽい溜息の後すぐに、指先で摘まんだ名刺をひらりと踊らせるように芽に返した。 「え? ええ!?」  騙されてる、と確かに彼女は口にした。 「あっ、あの、それって……」  おたおたしている芽に今度はシェフが「言いにくいんだが……」と口を開く。だが、その次の言葉がなかなか出てこないようで、妙な間が空いた。 「虎(とら)ちゃん、こういうことははっきり言ってあげなくちゃダメよ。このにいさんのためにもはっきり」  和服美女がきっぱりとした口調で横から口を出す。 「藤尾(ふじお)さん、わかってますよ」  そんな会話が芽の目の前で繰り広げられている。なにがなにやら話が見えない芽には不安しか募らない。 「――きみには酷な話かもしれないが、こんな会社はこの住所にはないし、おそらく会社自体も存在しないと思う。人を捜していると言っていたけど、こんな人は捜してもどこにもいないよ。どういう理由かは知らないが、もしきみがこの人に金でも貸してたんなら、それはたぶん詐欺だ」  たぶんじゃなくて百パーセントよ、とシェフが藤尾と呼んだ和服美女が口を挟んだ。 「詐欺……」 「そう、詐欺よ。あんたで何人目かしらねえ。ねえ、虎ちゃん」 「五人目くらい……だと思うが。だが、うちに訊ねにきたのがそのくらいというだけで、他の店も同じように聞かれていると思うからな。もっといると思うが」  それを聞いて芽は愕然とする。こうして隼人のことを訊ねたのは芽だけではなかったと知って、ショックのあまり思考が停止する。 「で、あんたはこの隼人って男にいくら貸したの? 貸したんでしょ?」  唐突に藤尾に聞かれた。 「え……あの……」  芽は狼狽えた。ただでさえショックで頭が回らない。それに事情は一切話していないのに、すっかり彼らは芽が金を貸したと思い込んでいる。が――否定はできなかった。なぜなら言うとおりだったからだ。 「名刺片手に、この男を捜してここまで訪ねてきてるってことは、甘い言葉で唆されてほいほいお金貸したんじゃないの? 違う?」  図星を指され、芽は言葉をなくした。 「藤尾さん、そのへんにしておかないと。そうと決まったわけじゃないんだから」  シェフが割って入り、芽に「いきなり悪かった」と謝る。 「あ……いえ……。おっしゃるとおりです……俺……お金貸していて……」  芽がそう言うと、藤尾が「やっぱり」と呆れたように呟いていた。 「なんでまたそんなことしたわけ」 「その……隼人さんと付き合っていて……」  隼人と付き合っているということを言うと、もしかしたら引かれるかなとは思ったけれど、二人はふうんと聞き流してくれ、芽はほっとした。 「付き合ってどのくらい?」  聞かれて、三ヶ月と答えた。藤尾にさらに身体の関係は? とか、他におかしなところはなかったの? とずけずけと根掘り葉掘り聞かれた。  あけすけに話すのも気が引けたが、ここまで話した以上、隠していてもはじまらない。加えてあまりに動揺していたこともあり、芽はこれまでのいきさつを話す。  ここが東京という芽には知らない土地で、また目の前の彼らも芽とはまったく関係のない人たちで……だからよけいに気が楽だったのかもしれない。口が軽くなって、隼人からの出会いのことや職を失っていることもなにもかもを話してしまった。  全部話を聞き終わったところで、藤尾が整った眉を寄せた。 「なるほどねえ。そいつはかなりずるいわね。今どき同性カップルなんて珍しくないけど、それでもやっぱり被害を訴えるとなると躊躇しちゃうわよ。そいつ絶対あんたが泣き寝入りするタイプと見越してターゲットにしたのね」  ぴしりと指摘される。よけいな先入観なしに的確に言われて、目の前にあった霧が晴れるような気がする。  なにもかも彼女の言うとおりだと芽は思った。こうして冷静で客観的な他人からの言葉で、ようやく芽は自分が騙されていたのだと心の底から理解する。  心のどこかで信じたくない気持ちはあったが、それは間違っていたようだ。  彼女の厳しい言葉は芽の目を覚まし、金を騙し取られたことを現実のものと受け入れた。 「……で、いくら貸したの?」 「たいした額じゃないんです。でも、俺には大金で。五十万くらい……」  へへ、と鼻の頭を掻き、笑ってごまかすように言う。  学生のときからバイトでコツコツ貯めたお金と、就職してからも日々の生活を切り詰めながら貯金してきた金だった。  肝心の金を貸したいきさつは――隼人は置き引きに遭ってしまい手持ちの現金やキャッシュカードを奪われたため、金がないと困っていた。次の日にはオフィスを借りるための手付けを用意しなくてはならないのに、と困り果てていたので芽が用立てたのだ。なけなしの貯金だったが、隼人のためだと思い貸すことにした。  すぐに返すと言っていたのだが、その後隼人からは一切連絡がなくなった。 「無理して笑うな。五十万は大金だ」 「はい……」  わかっている。五十万円あれば、もう少しゆとりを持って次の仕事を探すこともできるだろう。笑うなと言われて、急に張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、目から一粒涙がぼろっとこぼれた。 「わかったら、諦めて帰ることね。……警察に被害届は出したほうがいいわよ。お金は戻らないでしょうけど」  藤尾の言葉に芽は目もとを手の甲で拭いながら小さく頷いた。 「もしそいつが見つかったら連絡するか?」  シェフの言葉に芽は顔を上げる。 「いけしゃあしゃあと名刺にここらの住所使ってるくらいだし、本人が現れる可能性は高いと思うわよ。連絡くらいはしてあげるけど。そしたら土下座くらいさせなさい」  藤尾の言葉に芽は首を横に振った。 「いえ……騙されてお金を失ったのはショックですけれど、楽しい思いもたくさんしたので……。俺のような人間に初恋も教えてくれたし、忘れることにします」 「お人好しねえ、あんた。だから騙されんのよ」 「いいんです。うすうす騙されたのはわかっていましたけれど、やっぱり心のどこかで信じたい気持ちもあって。もしかしたら、本当になにか事情があったのかもとも思っていましたし」 「そりゃそうよ、好きな相手のことは信じたくなるもんよ。わかるわあ」  しみじみと藤尾は相づちを打つ。シェフは口も開かずにいたが、芽のことを邪険にすることもなく黙って話を聞いてくれている。もうこれだけで十分だ。  お金は失ってしまったけれど、なんとなく心はすっきりとしていた。 「会ってけじめをつけたかっただけだったのかもしれません。それから……今まで楽しい夢を見せてくれてありがとうって、お礼を言いたかった……かな」 「お礼って。どこまでお人好しなのよ、あんた。虎の子までむしり取られたのよ。おまけに今は無職なんでしょ? どうすんのよこれから」  藤尾の声が震えていた。ぐす、と鼻を啜る音が聞こえて、芽のために泣いてくれていると思うと心が温かくなる。こうして自分に同情してくれる人もいる、と思うだけでやりきれなさが減るような気がした。 「俺が世間知らずだっただけです。お金は……勉強代だと思うことにします。おっしゃるとおり北海道に帰ることにします……飛行機代だけは残してあるので」  そう言いながら、芽は鞄の中を探った。だが、その交通費を入れておいた封筒が見つからない。財布の中に入れておくと使ってしまいそうだと考え別にしておいたのだが、まったく見当たらなかった。 「どうした?」 「いえ……お金を入れておいた封筒が見つからなくて……」 「見つからない?」 「ええ。鞄に入れておいたんですが……」 「落としたってことはないか?」 「それはないと思います。今朝はちゃんとあったし、一度も鞄は身体から離していませんでしたから……」 「思い出してみろ。電車の中とか、ここに来るまでに立ち寄った場所とか」  シェフに聞かれて芽は今朝からの自分の行動を振り返った。ホテルを出て、ハローワークに行くために飯田橋まで電車に乗って――。 「電車は混んでたか?」 「ええ。中央線でぎゅうぎゅう詰めになっていました。途中で身体の大きな大学生くらいの子たちに取り囲まれたときには潰れるんじゃないかと……」  そこまで言うと、シェフが「それだな」と言った。 「え?」 「スリだ。最近、集団で取り囲んで犯行に及ぶ手口が多いと聞いた。たぶんきみのその封筒はそのときに盗まれたんじゃないかと思う」  確かに不自然に囲まれたような気はしていた。ラッシュに慣れていないせいでこんなものかと思っていたけれど、そうではなかったらしい。どこまで自分はぼんくらなのか。  踏んだり蹴ったりだ、と芽はひどく落ち込んだ。とはいえ、すべてこの事態を招いたのは自分が原因なのだから、自業自得と言えばそれまでなのだけれど。  さすがにシェフも藤尾も芽にかける言葉が見つからなかったようで、複雑な表情で芽を見つめている。いたたまれない。  ただの客のつもりが、トラブルメーカーと知って呆れたのかも。  自分でもそう思う、弁解のしようがない、と自己嫌悪に陥りつつ、なにか喋ったほうがいいかと芽は口を開いた。 「あっ、でも、こちらの食事代をお支払いする分は残っているので」  そう。この店に迷惑をかけることだけはない。他人に迷惑をかけずにすんだことだけはよかった、と芽はほっとする。慌てて財布を取り出そうとするとシェフに制された。 「そんなのはどうでもいい。これからどうするんだ? 金がなければ北海道にも帰れないだろう? 仕事も見つかってないと言うし」  交通費すら失ってしまえば、帰るに帰れない。いよいよホームレスかな、と芽は覚悟する。そのとき店の窓に貼ってあった求人のことを思い出した。  こうなったらなりふり構わず訊ねてみるしかないと芽は勇気を出すことにした。聞くは一時の恥、と言うではないか。野垂れ死ぬかどうかの瀬戸際なのだ、躊躇っている場合ではない。 「あの……お店の窓に貼ってあったアルバイト募集って……。こんなふうにご迷惑をかけてしまった上、図々しいとは思うんですが少しの間だけでも雇っていただくとか……。な、なんでもします。時給も安くて構いません」  シェフの様子を窺いながらおそるおそる訊ねてみる。  が、彼の表情はまったく変わらず、芽の話を聞いているのかいないのか、反応がなかった。やっぱり、今日会ったばかりの一文無しの人間を雇おうとする店主などいないだろう。  わかっていたことだけれど、と芽はがっくり肩を落とした。 「……ダメですよね。……いろいろとありがとうございました。変な話を聞かせてしまってすみません。お仕事の邪魔までしてしまって。――ごちそうさまでした」  芽は財布から千円札を抜き取ると、テーブルの上に置いて席を立った。  すると藤尾が「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。どうするの? お金ないんでしょ?」と芽を引き留めるように言う。 「ご心配くださってありがとうございます。大丈夫です。サラ金にでも駆け込めば帰るお金くらいはなんとかなるかもしれないですし。免許証は持っているので……」 「その後はどうするのよ。あんた本当に一文無しになっちゃったのよ。サラ金からずっと借り続けるわけにはいかないじゃない」 「大丈夫です。なんとかしますから。働く場所が見つからなかったのは残念でしたけど、すっきりしたので、またこれから頑張ります」  芽は無理やり笑顔を作った。とはいえこの先仕事が見つかるかどうかもわからない上、当面暮らしていくのも難しいだろう。  借金に借金を重ね……と考えると絶望する。けれど、どうにかするしかないのだ。 「ちょっと、虎ちゃん、ここバイト募集してたんじゃないの? 雇ってくれないか、ってこの子のお願いなに無視してんのよ。あの貼り紙はなんなのよ」  もう、と藤尾が芽に同情してくれたのか、シェフを責めるように言う。 「いや、そうじゃなくて」  シェフが藤尾の言葉を遮るように言い、ちら、と芽へ視線を移す。じっと見つめられ、芽はどきりとする。見れば見るほどかっこよくて、それに比べて自分のあまりの情けなさに泣けてくる。と同時に、シェフにうっとり見とれてしまい、こんな非常時にときめいてしまってバカじゃないのか、とさらに自己嫌悪に陥った。 「そうじゃないってどういうこと」 「別に無視していたわけじゃない。考えてただけだ」 「どういうことよ」  藤尾が食ってかかると、「うちとしては」と彼は切り出した。 「うちも人手は喉から手が出るほど欲しいから今すぐにでも働いてもらいたいが、そんなに給料は出せないんでな。社保もないしバイト程度の給料しか出せない。だから、それで納得してくれるかどうか考えてただけだ」 「――ですって。あんたそれでいい?」  藤尾が芽に振り返って聞く。 「もっ、もちろんですっ」  こくこくと芽は何度も頷いた。  薄給だろうがなんだろうが、今の芽にはシェフのその言葉は神様からのプレゼントのようだ。 「給料が安いのは勘弁してもらいたいが、その代わり食事はなんせ食い物屋だからなんとでもなるし、あとは住むところだが……ここでよけりゃ、というか俺との同居でよければ、部屋は物置にしてるところを片付ければなんとかなる。狭いし住み心地は保証できないが、それでもいいか」  思ってもみなかった申し出だった。棚からぼた餅とはまさにこのこと。  仕事だけでなく、住まいもいっぺんに決まってしまい、芽は飛び上がって喜ぶ。 「ありがとうございます……! よろしくお願いします。俺、一生懸命働きますから」 「ま、それでいいならいいが。うちでよけりゃしばらくやってみるか。ダメならいつ辞めたって構わない」  ぶっきらぼうで愛想のない口調だったが、冷たさはまったく感じない。それどころか、見ず知らずの芽にこうして親身になって考えてくれるほど温かい人だ。 「よかったわねえ。頑張んのよ。さっきの名刺の男のことなんかさっさと忘れちまいなさいな」  藤尾もにっこりと笑い、励ますように芽の肩をポンポンと叩く。 「はい。よくしてくださってありがとうございます」  二人に向かって深々と芽は頭を下げた。

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