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第4話
時間がランチのピークからはずれていたせいか、客はカウンター席には芽の他、シェフと話している年配の男性とそれから芽の隣に座っている和服の女性、それからテーブル席に二人と四人しかいない。
時計を見ると、もう午後の二時になろうとしている。もしかしたらランチが終わる直前に店に入ってしまったのかもしれない。なんだか申し訳ないことをしたかも、と思ったが厨房の中のシェフはやはり淡々と料理を手がけていた。
店内に漂う、おいしい匂いが芽の空腹に拍車をかける。店内に一歩足を踏み入れたときから、お腹が何度も鳴っていて、隣に座っている女性に聞こえやしないかと冷や冷やしていた。
その隣の和服を着た妖艶で美しい女性は骨付きの鶏のもも肉を食べている。
白い皿の上にのった骨付きの鶏はこんがりとしたきつね色をしていて、肉の脇には色とりどりの野菜が添えられている。
あれがコンフィというものだろうか。ただのもも焼きに見えるけれど、彼女が美しい所作でナイフをすっと滑らせると肉がほろりと崩れるように切れる。まったく力など入っていない様子だ。皮目はパリパリのようだし、お肉はほろほろっとナイフの動きでほどけていく。
あれもすごくおいしそうに見える。
思わず唾を飲み込むと、ごくりと思いもかけない大きな音が鳴って、またもや隣の女性に聞こえていないかと芽は焦った。
だけど、本当においしそうだ。
先に出されたスープはカップに入っていて、野菜とベーコンのコンソメ仕立て。とてもほっとする味で、空きっ腹に染み渡る。
それを飲みながら、ハンバーグじゃなくて鶏でもよかったかな、と思っていると、「ハンバーグです」と皿が目の前に置かれた。
やっぱり愛想のない声は変わらなかったが、皿の上のハンバーグは今まで見たことがないくらい美しくて、思わず目を丸くする。
焦げ茶色のデミグラスソースの上にふっくらとしてきれいな焦げ目のついたハンバーグがのっている。ハンバーグの上には半熟の目玉焼き。その目玉焼きの黄身は黄金色に輝いている。ナイフで切ったときの蕩けた黄身のことを想像するだけで、幸せな気持ちになる。
付け合わせはマッシュポテトと人参のグラッセ。それからブロッコリーといんげん、またクレソンも添えられている。
シンプルにも見えるが、人参の形もブロッコリーの大きさもなにからなにまで美しい。
クレソンもみずみずしくて、すべてのバランスが整って完璧だった。
見ているだけで、口の中に唾液が溜まっていく。
もう一秒たりとも我慢できない、と芽はナイフとフォークを手にして、早速ハンバーグに切れ目を入れた。
すると刃が入った切れ目から、どんどんと肉汁があふれ出てくる。それを見たとたん、理性はどこかに行ってしまう。我慢できないとばかりに芽は切った一切れを口の中に入れた。噛むと甘い脂の味と肉の味が口の中に広がる。そこにコクのあるデミグラスソースが絡まりあって、うっとりとなった。
付け合わせのマッシュポテトはとてもキメが細かく、絹のような舌触りだ。マッシュポテトってこんなにおいしいのか、と芽は驚くばかりだった。
すべてがあまりにおいしくて、最後の一切れを食べるのが惜しい。ソースも、行儀が悪いけれど最後の最後まで味わいたいと皿を舐めたくなるほどで、食べ終わることが悲しくなる。それがあまりに寂しくて芽は溜息をついた。
「おいしくなかったか」
そのときカウンター越しにシェフが声をかけてきた。じっと見られて、芽はぎょっとし、背筋をピンと伸ばした。
しまった、誤解をさせてしまったらしい。
慌てて何度も首を横に振り、さらに顔の前で手を振ってみせた。
「い、いえ、おいしすぎて、もったいなくて。最後の一切れを食べ終わったら、もうお別れなんだなって……だからつい寂しくて。……すみません、なんか……」
しゅん、としょげ返りながら言い訳をすると、シェフはプッと噴き出した。
「そうか、光栄だ」
彼に笑いながら言われ、その表情のギャップにどこか安心する。そうしてやっと胸を撫で下ろした。
「本当においしいです。こんなにおいしいハンバーグ、はじめて食べました。噛んだら口の中に肉汁がじゅわっと広がって、天国に召されるかと思ったくらいで。マッシュポテトもこんなに滑らかで……このマッシュポテトなら丼いっぱいでも食べたいくらいです」
どう言葉を尽くしても、この一皿の感想を伝えるのは難しかったが、それでも伝えなくてはと必死になって訴える。シェフは芽のその言葉を聞きながら、はじめ、目をぱちくりさせ、それからくすくすと笑った。
「ますます光栄だ。今度は丼でマッシュポテトを用意しておこうか」
怖そうだと思っていたのに、その笑顔はとてもすてきで、やっぱり最後の一切れを食べるのがもったいなかった。
(これなら……)
思っていたよりも気難しい人ではないらしく、これならアルバイト募集の貼り紙について訊ねられるような気がした。委細面談、とあるが、どういう条件なのか、と口に出しそうになったところで、はたと気づく。
おいしい料理ですっかり忘れていたが、自分にはその前にやらなくてはいけないことがある。芽にとってはまずは大きな問題について訊ねることにした。
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