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第3話
ただ自己都合の退職ということで、失業手当は三ヶ月後でなければ出ない。
おまけに勇気を振り絞って上京したはいいが、彼が教えてくれた自宅の住所には彼の住まいは見つからない。そしてこうして名刺を頼りに会社を探しにきたが、どこにも彼の会社は見つからないというわけだった。
いっそ東京で仕事を探してじっくり探そうかと思い、今日は朝から飯田橋のハローワークを訪ねてみたが、なにがなんだかさっぱりわからない。土地勘というものが皆無でなにをどうしていいのかお手上げだった。その上今の芽は住所もないため連絡先は携帯電話の番号しか書けない。
というのも、それまで住んでいたアパートは会社の借り上げ社宅だったため退職とともに引き払っていたから。
そのためハローワークの職員には「難しいでしょうね」と同情の目を向けられた。ならばと求人雑誌を眺めてみたものの、すぐに金を得られそうなのは胡散臭い求人ばかりで、東京という場所に自分は夢を見すぎていた、と絶望していたところだ。
家財などはとりあえずトランクルームに預けていて身軽ではあるが、いずれにしても、ほとんどホームレスと同じ状態。
帰りの飛行機代だけは残してあるから、北海道に戻ることはできなくはないものの、実家――は北海道の田舎も田舎で、戻ったところでたぶん仕事なんか見つからない。芽は母一人子一人の母子家庭で育った。母親は看護師で、女手ひとつで芽を大学までやってくれて――だから就職してたった二年足らずで無職になった自分の惨めな姿を見せて心配させたくはなかった。
だったら、まだこちらにいたほうがいいのか……と迷ったあげく、結局やっぱり先に恋人を捜そうとここまで戻ってきた。
(このままだとホームレス、ってことになっちゃうんだろうなあ……)
このままホームレスになるのか、とぼんやり芽は思う。
いずれ金は尽きる。どれだけ節約したところで数日しか変わらない。だったらもう使ってもいいんじゃないか。いや、でも。と芽の心の中で本能と理性がせめぎ合っている。だが、おいしそうな匂いに勝てないとばかりに、身体は正直に吸い寄せられるようにビストロの入り口へと向かった。
すると、店の窓に貼り紙があるのに気づく。
《アルバイト募集 委細面談》
白い紙にマジックでそれだけが書かれた素っ気ないものだ。
「アルバイト……」
その貼り紙を見て、雇ってもらえないだろうか、という考えがちらりと過る。
時給や待遇などはなにも書かれておらず、委細面談とあるだけだが、ダメでもともとだし聞いてみようか、とそんなことを思っていたときだ。
「いらっしゃいませ」
その声に、芽はハッと我に返った。
自分でも気づかないうちに店のドアを開けていたらしい。
「あ……あの」
どうしよう、と一瞬後悔したが、気の弱い芽には断って店を出るという選択ができない。声をかけられては、間違えた、入るつもりはなかった、とも言えなくなってしまう。
「お一人様、カウンターへどうぞ」
カウンター越しの厨房から声がして、顔を上げると、まだ若いシェフが忙しなく手を動かしながら芽に声をかける。
これはもう食べるしかないようだ。貴重な千円札が飛んでいくが仕方がない。
「あ……はい」
諦めたように返事をしてからカウンター席へ足を向け、おそるおそる席についた。
「ご注文、お決まりでしたらどうぞ」
はっきりした、通る声で聞かれる。
「ハ……ハンバーグランチを……」
ドキドキしながら、芽は口を開く。「ハンバーグですね」と声が返ってきて、カウンターに水とおしぼりが置かれた。
「ライスになさいますか? それともパンですか?」
「え、えと……ライスで」
かしこまりました、とシェフは返事をするなり、くるりと背を向けた。
シェフが後ろを向くなり芽はすぐさまジーンズのポケットに手を入れ、財布があることを確認する。それでも心配になって、財布を開いて中を見た。
(よかった、支払いだけはできる)
ホッとして、ようやく気持ちが落ち着いたことで水を一口飲み、あたりを見る。
カウンター七席とテーブル席が三つ。
こぢんまりとした店だが、とてもしゃれている。店の外観もそうだが、内装もいい。行ったことはないけれど、まるでパリのビストロにでもいるような。落ち着いたチョコレート色のテーブルと椅子、またテーブルに置かれている一輪挿しには可愛らしい花が活けられていて、心を穏やかにさせてくれるようだった。
どうやら若いシェフが一人で切り盛りしているらしい。他の従業員の姿は見えない。
若いシェフはとてもかっこよく、カウンター席に座っている常連とおぼしき客と会話を交わしていた。だが、にこりともせずに淡々としており、お世辞にも愛想がいいとは言えない。とはいえ、客のほうはシェフに楽しげに話しかけている。
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