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第1話
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人妻を抱くときは、場末のホテルなんて選ぶものじゃない。
彼女たちは家族の生活のすべてを背負い、現実感の真っただ中で疲れ果てている。だからこそ、想像以上の扱いをすれば、想定を超えた貞淑と奉仕で返してくる。若い女を抱くより、よっぽど有意義で利用価値が高い。
覚えておけよ、と岩下(いわした)周平(しゅうへい)は言った。
ハンドメイドテーラーのジャケットに袖を通しながら笑う色男を、憧れに近い感情で眺めたのが、いまはもう遠い昔のように思える。
教えに従って選んだ高級ホテルの一室で、岡村(おかむら)慎一郎(しんいちろう)はオーダーメイドの白いワイシャツに袖を通した。ボタンを留めて、スラックスを穿く。ネクタイを首に垂らしてから、煙草に火をつけた。
煙をくゆらせ、くわえ煙草でネクタイを結ぶ。
静かな部屋に携帯電話の震える音が響いた。ソファを振り向いてから、自分の携帯電話なら着信音が鳴るはずだと思い出した。女と会っているときは特に、着信を取り逃さないようにしている。
ベッドに横たわる女のバッグから覗く画面を確認して、岡村は確認も取らずに通話ボタンを押した。
女の名前を呼びかける男の声に、
「はい」
煙草をくちびるから離し、低い声で答える。沈黙が返った。そして次の瞬間、怒鳴り声が響く。その勢いのよさに、岡村は思わず笑ってしまう。
「あなたの奥さんなら隣で寝てますよ。なにをしたか、なんて……俺の口から言ってもいいんですか?」
電話の向こうの相手は、ますます激昂した。
それ以上は聞くに耐えず、電話を切る。振り向くと、髪を長く伸ばした女が、けだるい仕草で起きあがるところだった。
「……電話、出たの?」
かすれた声がアンニュイだ。波打つ髪をかきあげる指先を見た岡村は、ひっそりと胸を痛めた。
去年の年末。岩下周平の男嫁である佐和紀(さわき)は、わざわざエクステンションをつけて、髪を長くしていた。人助けのため、女装をする必要があったからだ。それは、おそろしく板につき、化粧映えする素地の良さをあらためて思い知らされた。
しかし、女装をしても、佐和紀は佐和紀だ。涼やかで美しく、退廃的で艶があって、凜とした硬質さが、言い知れず魅力的だった。長い髪をめんどくさそうにまとめあげる手首を思い出しながら、岡村は携帯電話を女に向かって差し出した。また着信が入り、ブルブルと震えている。
佐和紀にまるで似ていない女は画面を見つめ、静かに息を吐いた。柔和な顔立ちに浮かべた微笑の中にあきらめが滲み、やがて苦笑へ変わっていく。
「あなたの女にして」
差し出す携帯電話を無視した女の指が、岡村の手首に這う。
時計をつけ忘れていたことを思い出し、手にしていた携帯電話をベッドにすべり落とした。女から離れて、サイドテーブルの腕時計を手に取る。買ったばかりの時計は、文字盤のシンプルさからは想像もつかない価格だ。
迷いもなく購入したのは、喫茶店に置いてあった雑誌を眺めていた佐和紀が勧めてきたからだ。価格表示のない写真を見ただけの思いつきだったとしても、似合っていると言われて嬉しかった。
その一瞬、佐和紀の頭の中には、自分しかいなかったと思う。
「これきりだな」
腰に絡みつく女の腕を振り払い、長い髪をかきあげながら、両手でこめかみを支える。
細いあご。長い首筋。華奢な肩。ふくよかな乳房と柔らかな腰のライン。
すがりつこうとするのを拒み、美しい肢体を押しのけた。
「あんなに、求め合ったのに」
震える声が耳に届き、ジャケットを羽織った岡村は失笑する。
煙草を口にくわえ直し、女の匂いを消すように煙を吐き出す。磨きあげられた靴をソファで履いて、紐を結んだ。
女もベッドを下り、ソファにかけた服を慌てて着ようとする。細い肩を押さえ、手近に置かれている灰皿で煙草を揉み消した。
「他人のものだから欲しかったんだ。俺のものにしたかったわけじゃない。それじゃあ、さよなら」
こめかみに近づけたくちびるは押しつけない。
ふいっと離れて、部屋を出る。追いつかれる前に乗り込んだエレベーターの鏡でネクタイの歪みを直した。時計で時間を確認する。
ふいに、雪の日の記憶が舞い戻った。
低い位置でまとめあげた長い髪。シャレたかんざしに雪が降りかかる。
クリスマスモチーフの女着物を身にまとっていた佐和紀は、岡村が着せかけたコートを、ごく当然のように受け入れた。その髪に、肩に、長いまつげに、雪は静かに柔らかく降り続ける。なにげなく交わした、たわいもない会話にさえ、岡村の心は震えていた。
幸せと不幸の、目に見えない狭間に永遠があるような気がしたのは、ホワイトクリスマスに酔っただけのメランコリックなセンチメンタリズムだ。
佐和紀が岩下と結婚して、四回目の夏が来ようとしている。
倦怠期を微塵も感じさせない夫婦仲は、ときどき起こる痴話ゲンカさえ楽しみだと言いたげに睦まじい。
いいことだと思う。佐和紀が幸せなら、それが岡村にとっても一番の幸せだ。そう心から思えるのに、偽りもまた、どこかで感じている。
人妻を抱いて、長い髪がベッドに乱れるのを眺めるとき、背中に刺さる爪があの人のものであればと願う。下卑た横恋慕だと自覚しても、あきらめきれない。
他人の妻を手当たり次第に寝取っても、晴らせる欲望じゃないと知っているのに。慰められると信じることが愚かだろう。
佐和紀以外の存在で埋めることはできない。そんな簡単な想いじゃない。
繰り返し、そう思い知りたいだけの、無様な行為だ。
ホテルの地下まで下りて、愛車のセダンに乗り込む。煙草に火をつけて、ほんのしばらくだけ目を閉じた。
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