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第2話
気を取り直した岡村は、大滝(おおたき)組の屋敷へ車を回した。
佐和紀を迎えに行き、途中でランボルギーニに乗り換える。去年の夏、佐和紀のために岩下が買ったスーパーカーだ。
免許取得をあきらめさせるための車だったが、いつも決まって岡村が運転席に乗る。同じく世話係の石垣(いしがき)保(たもつ)と三井(みつい)敬志(たかし)は一度乗ったきりだ。ギアボックスを壊されそうだと、佐和紀が嫌がり、岡村以外には運転を任せなくなっていた。
助手席のバケットシートに身を任せ、エンジン音に聞き入る佐和紀は、ぼんやりとしたまなざしで海岸沿いを眺める。木綿の着流しがカジュアルな印象だ。
なにを見ているのかと問いかける岡村に、「イルカかクジラを探している」と佐和紀は答えた。冗談とも本気とも判断がつかないが、嘘ではないだろう。佐和紀はそういう男だ。
バイパスを使って県境まで走り、海沿いにある料理屋の駐車場へ車を停める。炭火炉端焼きの店だ。
「今日、なにしてた? 仕事?」
車を降り、空を見あげていた佐和紀からなにげなく聞かれる。夏が近くなり、夕暮れはずいぶん遅くなった。ついさっきまで女といた岡村はギクリとした。
おおざっぱなチンピラ気質を根っこにしているわりに、女のように鋭い第六感を働かせると知っているから油断ならない。
「おまえも忙しいね」
答えを待たない佐和紀が、着物の衿を指でしごきながら言った。襦袢についた半衿は、水玉模様だ。
「デートクラブの方はうまくいってるんだろ?」
「……そのわりに、暇を作れてないですよね」
時間がないのは、岡村ではなく、岩下だ。大滝組若頭補佐の業務は次から次へと雑用が舞い込む。岡村がシノギのひとつを受け持っても、岩下の生活リズムに大きな変化はなかった。
「忙しいのが好きなんだろう」
軽やかな笑い声に、そんな旦那を好いている佐和紀の想いが透けて見える。岡村は自嘲の笑みを浮かべ、料理屋の戸を開いた。
海を眺める個室へ通され、テーブルに仕込まれた焼き網の下に炭が置かれる。運ばれた海鮮物を自分たちで焼くスタイルだ。
「どうせ、ちぃが『仕事』を押し込んでるんだろ」
とりあえずで頼んだ生ビールをぐびぐび飲み、喉を潤した佐和紀は満足げに目を細めた。
ちぃと呼ばれているのは支倉(はせくら)千穂(ちほ)だ。大滝組の盃は受けていないが、岩下の舎弟分のひとりで、右腕と称されている。別名を『大滝組の風紀委員』といって、構成員でもないくせに、組の風紀が乱れることを嫌悪する潔癖な男だ。
彼の仕事は本業の管理と秘書業務。そして他にもいろいろと噛んでいる。岡村がそのことを知るようになったのは、デートクラブの管理を受け持っているからだ。情報が次々に開示されている。
支倉の眼鏡にかなった証拠だと岩下に言われたが、嬉しくもなんともない。かばん持ちをしていた頃とはまったく違う忙しさで翻弄され続けた一年が走馬灯のように甦り、うんざりとした気持ちになるだけだ。
それでも、なんとかやってこられたのは、ひとえに佐和紀との時間を確保するためだった。岩下の都合に合わせる必要がなくなり、業務をこなしさえすれば、佐和紀のそばにいる機会も増やせる。
「なぁ、帰りは少し運転していいだろ?」
飲み切ったビールグラスのふちをなぞりながら聞かれて、岡村はトングでエビをひっくり返しながら笑った。
「ダメですよ。もうアルコールが入ったじゃないですか」
そもそも佐和紀には免許がない。
「だって、これは……。ずるいよ。おまえ。先に言えばいいじゃん」
くちびるを尖らせて拗ねているところへ、焼酎の水割りセットが届く。岡村を制止して、佐和紀は自分で水割りを作る。
免許がなくても、運転はこっそり教えてきた。オートマチックなら夜の山道も転がせる。
秋からは、岡村が買った中古のスポーツカーで、マニュアル運転の練習も始めていた。
しかし、佐和紀の運転は、半年経ってもまだクラッチの操作が怪しい。半クラッチがうまくいかず、すぐにエンストさせてしまう。マルチな動作を必要とする運転席よりも、のんびりと乗っていられる助手席が佐和紀の性に合っているのだ。岡村はわかっていたが、ふたりきりの練習が楽しいから言わないままだ。
「あの車でバイパスぶっ飛ばすの、横に乗ってても爽快なのに。運転したら、もっと気持ちいいだろ?」
「そうですね。車体が低いから、疾走感があります」
「運転席、どんなふうだろうなって思うんだけど」
「景色を楽しむ余裕はないですよ。佐和紀さんは特に」
まだそこまで運転に慣れていないからだ。
「そうかもねー」
顔をしかめた佐和紀は思い直したように焼酎を飲んだ。そして、暮れ始めた空と、夕日に染まる海へ視線を向ける。
髪をかきあげる仕草で、さっぱりと切った佐和紀のショートヘアが揺れる。さりげなく盗み見た岡村は、佐和紀自身の女装を思い出した。しかし、化粧っ気のない素顔の方が、何倍もキレイで困ってしまう。
肌もなめらかなら、くちびるの血色もいい。
まつげは元から長く、まばたきすると、かすかな憂いが募る。岩下を思い出しているのだとわかって、岡村は目をそらした。
炭火に炙られているエビや干物をつつき、ウーロン茶に手を伸ばす。
「周平がさ、この前……」
はにかむような笑顔を浮かべ、旦那の話が始まる。
岡村は静かにうなずいて、ときどき笑いながら話を聞く。焼きあがったエビの殻を剥いて、佐和紀の皿に置いた。
岩下と一緒に過ごすときには、いまとは反対に、自分たち世話係の噂話をするのだろうかと思う。そのときの表情を想像しようとしたが、うまくいかない。
「んー、このエビ、うまい」
かじりついた佐和紀が声をあげる。
「食べてみろよ」
残りのエビを無邪気に差し出され、岡村は迷った。皿に受けようとしたが、佐和紀はそのまま突き出してくる。
指ごと舐めてやろうとかと思いつつ、遠慮がちに身を乗り出した。
「あ。しょうゆ、ついた」
佐和紀が笑い、岡村のくちびるの端を指で拭う。片手で袖を押さえ、引き戻した指をそのまま口に含んだ。
他意は、ない。わかっているのにドキマギしてしまう。
「な? おいしいだろ? もっと焼いて。あー、海がきれいだな」
あっちもこっちもと忙しい佐和紀は、あどけなく窓に貼りつく。和服姿の首筋がしっとり艶めかしいのに、まるでムードがない。
しかし、それがよかった。いつもの佐和紀らしさに癒されて、岡村は、捨てたばかりの人妻のことを記憶の隅へと追いやる。
明日にはもう思い出しもしないだろう。
相手がどうなろうと、その家庭がどうなろうと、岡村の知ったことではない。旦那のことを想い、後ろ髪を引かれる女の姿がたまらなかっただけだ。
佐和紀が座っているのと同じ場所に座り、彼女も楽しげに海を見ていた。その横顔に、岡村は誘いを投げかけたのだ。
驚いて振り向いた目は潤んでいて、夜への誘いを待っていたことは聞くまでもなかった。
初めて旦那に嘘をつき、日付が変わるまでには帰りたいと言ったのがいじらしくて燃えた。約束通りに帰してやったが、彼女が二度と元に戻れないことを岡村は知っていた。
そうなるように、抱いたからだ。間男らしく、優しく無慈悲に男の味を教えた。慣れ親しんだ旦那の身体が違和感になるほど、じっくりと快感をもてあそんだ。
ふいに、窓の外を眺めていた佐和紀が振り向く。
「時計、買ったんだな」
笑って小首を傾げる。気づいてもらうのに三週間かかったと、どうでもいいことを考えながら岡村は笑い返した。
今夜は帰したくないと、人妻相手になら言えたのが嘘のようだ。
「やっぱり、おまえに似合ってる。ん? なに?」
「覚えてたんですか」
「雑誌に載ってたやつだろ? 見たら、思い出した」
佐和紀を前にすると、なにも言えなくなる。
嘘をつかせるなんて考えもしないし、二度と戻れない道になんて、近づけさせたくもない。
「そう言ってもらえてよかったです」
心を隠し、殻を剥いたエビを差し出すと、佐和紀が口を開いた。
「熱いから、気をつけてくださいよ」
そっと差し出し、手で食べさせる。かじりついた佐和紀は「熱い熱い」と騒ぎ、岡村は「だから言ったのに」とあきれたふりをして、ひっそりと目を細めた。
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